TVシンポジウム「街道をゆく」 ― 2024-04-18
2024年4月18日 當山日出夫
TVシンポジウム 司馬遼太郎・菜の花忌シンポジウム 街道をゆく
出ていたのは、今村翔吾、岸本葉子、磯田道史。司会は、古屋和雄。
司馬遼太郎については、評価は様々に分かれると思っている。一部に熱心なファンがいる一方で、歴史学の分野からはほとんど評価されることはないだろう。また、司馬遼太郎が活躍した時代、読まれてきた歴史的背景ということを考えてみると、その時代の日本の姿が浮かびあがっても来る。この意味では、
『司馬遼太郎の時代-歴史と大衆教養主義-』(中公新書).福間良明.中央公論新社.2022
は、面白い。
歴史学の分野では評価されないと言ったが、そのなかで例外的に司馬遼太郎を評価しているのが、磯田道史かもしれない。
「街道をゆく」のシリーズは、昨年から読み始めた。司馬遼太郎の小説の多くは若いころに読んだ。NHKで「新・街道をゆく」を放送しているのを見て、興味を持って本を読んでみることにして、読み始めた。なるほど、面白い。
磯田道史が番組のなかで言っているが、司馬遼太郎自身が、自分の仕事のなかで最後までのこるのは「街道をゆく」だと、語っていたらしい。
読み始めて、全四三巻あるはずだが、そのうち半分ぐらいを読んだだろうか。今年になって、読み続けようと思いながら、いろいろあって中断している。
私の目で「街道をゆく」を読んで感じることは、いくつかある。
日本、あるいは、世界のどこに行っても、そこに歴史を読みとっていることである。これは、当たり前のことのように思えるが、難しいことでもある。学校で習う歴史は、おおむね中央……古代では奈良であり、平安京であり、鎌倉幕府であり、そして近代になると東京……そのときどきの、政治の中心を舞台に描かれる。地方についての歴史は、周辺においやられてしまう。せいぜい、「地方史」という枠であつかうことになる。
しかし、司馬遼太郎の「街道をゆく」では、どこに行っても、そこから日本という国の歴史を感じとり、語っている。
「街道をゆく」が書かれたのは、一九七〇年代以降のことになる。日本の高度経済成長期、日本にすむ人びとの暮らしが大きく変わっていく時期になる。その時代に、各地を旅して、その土地のことについて記す。これが、非常に紀行文として文学的にすぐれていると同時に、その時代の日本の人びとの生活の記録にもなっている。
テレビを見ていて一番興味深かったのは、磯田道史の言っていたこと。こんな意味のことを言っていた。司馬遼太郎は、その土地に行って、自分で風を感じている。それを想像力でいっぱいにする。その想像のかたまりから絞り出されたのが、その歴史小説である。
歴史の研究者にとって何が重要な資質か。無論、史料を正確に読み解く力量がもとめられる。だが、それだけではないと思う。今の時代ではない過去の人びとについての想像力が必要であるといっていいだろう。ただし、これはきわめて危険なことでもある。想像力の名のもとに、イデオロギーに偏った偏見で見てしまったり、あるいは、妄想というべき思いをふくらませてしまったりしかねない。そこは抑制しつつも、想像力のないところに歴史の叙述はありえないと思う。
「街道をゆく」で司馬遼太郎が語っていることについて、歴史学の観点からはいろいろと問題が指摘できるにせよ、自らその土地に行き、空気を感じ、歴史に思いをはせるという精神のいとなみは、いまでも魅力的な仕事として残っていることになる。
2024年4月15日記
TVシンポジウム 司馬遼太郎・菜の花忌シンポジウム 街道をゆく
出ていたのは、今村翔吾、岸本葉子、磯田道史。司会は、古屋和雄。
司馬遼太郎については、評価は様々に分かれると思っている。一部に熱心なファンがいる一方で、歴史学の分野からはほとんど評価されることはないだろう。また、司馬遼太郎が活躍した時代、読まれてきた歴史的背景ということを考えてみると、その時代の日本の姿が浮かびあがっても来る。この意味では、
『司馬遼太郎の時代-歴史と大衆教養主義-』(中公新書).福間良明.中央公論新社.2022
は、面白い。
歴史学の分野では評価されないと言ったが、そのなかで例外的に司馬遼太郎を評価しているのが、磯田道史かもしれない。
「街道をゆく」のシリーズは、昨年から読み始めた。司馬遼太郎の小説の多くは若いころに読んだ。NHKで「新・街道をゆく」を放送しているのを見て、興味を持って本を読んでみることにして、読み始めた。なるほど、面白い。
磯田道史が番組のなかで言っているが、司馬遼太郎自身が、自分の仕事のなかで最後までのこるのは「街道をゆく」だと、語っていたらしい。
読み始めて、全四三巻あるはずだが、そのうち半分ぐらいを読んだだろうか。今年になって、読み続けようと思いながら、いろいろあって中断している。
私の目で「街道をゆく」を読んで感じることは、いくつかある。
日本、あるいは、世界のどこに行っても、そこに歴史を読みとっていることである。これは、当たり前のことのように思えるが、難しいことでもある。学校で習う歴史は、おおむね中央……古代では奈良であり、平安京であり、鎌倉幕府であり、そして近代になると東京……そのときどきの、政治の中心を舞台に描かれる。地方についての歴史は、周辺においやられてしまう。せいぜい、「地方史」という枠であつかうことになる。
しかし、司馬遼太郎の「街道をゆく」では、どこに行っても、そこから日本という国の歴史を感じとり、語っている。
「街道をゆく」が書かれたのは、一九七〇年代以降のことになる。日本の高度経済成長期、日本にすむ人びとの暮らしが大きく変わっていく時期になる。その時代に、各地を旅して、その土地のことについて記す。これが、非常に紀行文として文学的にすぐれていると同時に、その時代の日本の人びとの生活の記録にもなっている。
テレビを見ていて一番興味深かったのは、磯田道史の言っていたこと。こんな意味のことを言っていた。司馬遼太郎は、その土地に行って、自分で風を感じている。それを想像力でいっぱいにする。その想像のかたまりから絞り出されたのが、その歴史小説である。
歴史の研究者にとって何が重要な資質か。無論、史料を正確に読み解く力量がもとめられる。だが、それだけではないと思う。今の時代ではない過去の人びとについての想像力が必要であるといっていいだろう。ただし、これはきわめて危険なことでもある。想像力の名のもとに、イデオロギーに偏った偏見で見てしまったり、あるいは、妄想というべき思いをふくらませてしまったりしかねない。そこは抑制しつつも、想像力のないところに歴史の叙述はありえないと思う。
「街道をゆく」で司馬遼太郎が語っていることについて、歴史学の観点からはいろいろと問題が指摘できるにせよ、自らその土地に行き、空気を感じ、歴史に思いをはせるという精神のいとなみは、いまでも魅力的な仕事として残っていることになる。
2024年4月15日記
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