100分de名著「フロイト“夢判断” (1)無意識の発見と精神分析」 ― 2024-04-06
2024年4月6日 當山日出夫
100分de名著 フロイト“夢判断” (1)無意識の発見と精神分析
『夢判断』を今読もうと思うと、新潮文庫版ということになるだろう。高橋義孝の訳である。かなり古い。新しい訳がないものかと探すと、新潮社から新しい訳本がある。だが、岩波文庫版とかがあるかと思ったが無い。今では、もう読まれない本になってしまったのだろうか。フロイトの名前は有名であり、夢の分析のことも、一般的な知識になっているとは思うのだが。
若いころ、国語学の勉強をしていたころ、よく夢を見た。見る夢は、映像ではない。「ことば」あるいは「文字」だけである。「ことば」が次々と出てくる。また、なにかしらの文章を綴っている。そんな夢をよく見たのを憶えている。
国語学の研究ということからリタイアして隠居と決めた今ではそのような夢は見ない。
フロイトの発見した無意識ということの、文化史的な意味について、さらに説明があるといいと感じる。これは、現在の我々の人間観にかかわる。人間というものを究極的には、脳あるいは遺伝子で考えるのが、現代の人間観だと私は理解している。その現代において、脳のはたらきと無意識とはどんなふうに考えられているのか、このあたりが最も知りたいことである。
2024年4月2日記
100分de名著 フロイト“夢判断” (1)無意識の発見と精神分析
『夢判断』を今読もうと思うと、新潮文庫版ということになるだろう。高橋義孝の訳である。かなり古い。新しい訳がないものかと探すと、新潮社から新しい訳本がある。だが、岩波文庫版とかがあるかと思ったが無い。今では、もう読まれない本になってしまったのだろうか。フロイトの名前は有名であり、夢の分析のことも、一般的な知識になっているとは思うのだが。
若いころ、国語学の勉強をしていたころ、よく夢を見た。見る夢は、映像ではない。「ことば」あるいは「文字」だけである。「ことば」が次々と出てくる。また、なにかしらの文章を綴っている。そんな夢をよく見たのを憶えている。
国語学の研究ということからリタイアして隠居と決めた今ではそのような夢は見ない。
フロイトの発見した無意識ということの、文化史的な意味について、さらに説明があるといいと感じる。これは、現在の我々の人間観にかかわる。人間というものを究極的には、脳あるいは遺伝子で考えるのが、現代の人間観だと私は理解している。その現代において、脳のはたらきと無意識とはどんなふうに考えられているのか、このあたりが最も知りたいことである。
2024年4月2日記
ザ・バックヤード「東京スカイツリー」 ― 2024-04-06
2024年4月6日 當山日出夫
ザ・バックヤード 東京スカイツリー
これは面白かった。
東京スカイツリーには行ったことがない。その建設の途中の姿をとおくから眺めたことがあるぐらいである。
雷の観測、雲の観測、相対性理論の実験、温暖化ガスの観測、実にいろいろな観測や実験が行われている。どれも興味深いものばかりである。これも、東京の都市部の中心にあって、孤立して高い建物だからこそできることばかりである。
雷の観測は、東京スカイツリーがあったからこそできた調査ということになる。
相対性理論は、はっきり言って名前を知っているぐらいのことなのだが、きわめて精密な時計を使うことによって、スカイツリーの上と下とで、時間の進み方が違うことが分かる。これを観測する時計を作ったということもすごい。
温室効果ガスの測定は、東京スカイツリーでなければできない観測ということになる。CO2だけではなく、COも測定している。COは温室効果ガスではない。ものを燃やしたときの不完全燃焼による。しかし、CO2とCOとは増減が連動している。また、CO2を調べると、今の時代に化石燃料を燃やして出たものと、植物の光合成によってできたものとは違う。炭素の年代が分かる。理屈としては理解できるつもりだが、なるほどこういう調査を踏まえて、地球温暖化対策の基礎を考えることになるのかと思う。
番組では出てこなかったことだが、気になることとしては、心柱。東京スカイツリーは心柱を使っていることは知られていることだと思うのだが、では、実際にどれほどの効果があるのか、観測しているのだろうか。このあたりどうなのか知りたいところではある。
それから、番組で紹介されていた各種の観測などは、東京スカイツリーの計画段階からのものだろうか、このあたりの説明があると良かった。
2024年4月5日記
ザ・バックヤード 東京スカイツリー
これは面白かった。
東京スカイツリーには行ったことがない。その建設の途中の姿をとおくから眺めたことがあるぐらいである。
雷の観測、雲の観測、相対性理論の実験、温暖化ガスの観測、実にいろいろな観測や実験が行われている。どれも興味深いものばかりである。これも、東京の都市部の中心にあって、孤立して高い建物だからこそできることばかりである。
雷の観測は、東京スカイツリーがあったからこそできた調査ということになる。
相対性理論は、はっきり言って名前を知っているぐらいのことなのだが、きわめて精密な時計を使うことによって、スカイツリーの上と下とで、時間の進み方が違うことが分かる。これを観測する時計を作ったということもすごい。
温室効果ガスの測定は、東京スカイツリーでなければできない観測ということになる。CO2だけではなく、COも測定している。COは温室効果ガスではない。ものを燃やしたときの不完全燃焼による。しかし、CO2とCOとは増減が連動している。また、CO2を調べると、今の時代に化石燃料を燃やして出たものと、植物の光合成によってできたものとは違う。炭素の年代が分かる。理屈としては理解できるつもりだが、なるほどこういう調査を踏まえて、地球温暖化対策の基礎を考えることになるのかと思う。
番組では出てこなかったことだが、気になることとしては、心柱。東京スカイツリーは心柱を使っていることは知られていることだと思うのだが、では、実際にどれほどの効果があるのか、観測しているのだろうか。このあたりどうなのか知りたいところではある。
それから、番組で紹介されていた各種の観測などは、東京スカイツリーの計画段階からのものだろうか、このあたりの説明があると良かった。
2024年4月5日記
『虎に翼』「女賢しくて牛売り損なう?」 ― 2024-04-07
2024年4月7日 當山日出夫
『虎に翼』第1週「女賢しくて牛売り損なう?」
「頭のいい女が確実に幸せになるためには、頭の悪い女のふりをするしかないの。」
歴代の朝ドラでいろいろと名台詞があったと思うが、そのなかでこの母のことばは残るものになるにちがいない。
これまで朝ドラでは、いろんな女性を描いてきた。時代のなかで突出した生き方をするような女性もあった。また、その一方で、普通に生活して結婚してという生き方を選ぶ女性も描いてきた。
たまたま、同時に再放送がはじまった『ちゅらさん』などは、ごく普通に生きようとした女性であるといえよう。(この朝ドラは、以前の再放送のときほとんどを見ている。脚本は岡田惠和。『おひさま』も『ひよっこ』もごく普通に生きようとした女性の物語であった。)
前作の『ブギウギ』は、時代の流れのなかで自分の生きたいように生き、才能を開花させた女性の物語であった。
その前の『らんまん』とか、以前の『ゲゲゲの女房』とかは、内助の功の物語といっていいだろう。
『虎に翼』は、法曹の世界で、ガラスの天井を打ち破った女性……ということになるのだが、特に女性の権利を主張するということではないらしい。自分の思ったこと、言いたいことを言える場所を探すと、たまたま法曹の世界がそこにあった、ということのようである。こういうタイプの女性像というのは、朝ドラの歴史のなかでは珍しいと思うが、どうだろうか。
このドラマのいいところだと思うのは、寅子(さすがのATOKでも、「ともこ」からは変換してくれなかった)の生き方、価値観を、その時代に生きたその他の人物と併行して描いていることだと思う。すでに指摘されていることだが、このドラマのちょっとした場面にそれを感じる。女学校の近くの橋の上を行き交う人びと、神田の路上で風呂敷包みを抱えてたたずむ少女。おだんご屋さんのお客さんたち。それから、女学校の先生。それぞれに、生きることの苦労をかかえていることを感じさせる。その多くの人びとのなかで、このドラマとして、寅子にスポットをあてている。だが、その背景には、同時代を生きた多くの人びとのいろんな生き方があった、ということを感じさせる。
通常は、通行人などは主人公が際立つように目立たない存在として映すのだが、このドラマの演出は違っている。
同級生の親友の花江は、女学校在学中に結婚することを実現する。このような生き方もあった時代である。(女学校の場面で、女学校の生徒が窓からバケツの水を捨ててはいけないと思うけれど。)
画面の作り方が丁寧だと感じる。さりげないシーンだったのだが、母のはるが昔を回想するシーン。丸亀の旅館のなかの一場面が映っていた。本を読む少女の姿があったが、それが母の若いときの姿だったのかもしれない。女学校に行きたかったが、行かせてもらえなかったと、母は語っていた。このようなところは、語りだけで済ませることもできるが、数秒の映像をいれることによって、ぐっと説得力が増す。
女学校の先生もどんな人生を歩んできたのだろうかと、想像することになる。たぶん、東京女子高等師範学校の附属の高等女学校だと思うのだが、そこの教師をしているということは、その当時にあっては、ハイレベルの教育を受けた女性の一人と言っていい。そのような経歴があって、自分の教え子が、法律を学ぶために進学したいと言い出したときに、ちょっと待ちなさいと言うことになる。素直に進学を勧めることをためらわせるものがあったにちがいない。
寅子は、神田駿河台の大学に進学することになる。モデルは明治大学である。神田界隈が学校の街であった経緯については、鹿島茂の『神田神保町書肆街考』に詳しい。
時代設定は、昭和六年。満州事変の年なのだが、このドラマでは世相にかんすることは出てきていなかった。これから、時代背景をどのように描くことになるかも楽しみである。
ところで、週の最後のところで、桂場はお団子を食べることができたのだろうか。これがちょっと気になるところであった。
尾野真千子の語りがとてもいい。
次週、いよいよ法律の勉強ということになるらしい。楽しみに見ることにしよう。
2024年4月6日記
『虎に翼』第1週「女賢しくて牛売り損なう?」
「頭のいい女が確実に幸せになるためには、頭の悪い女のふりをするしかないの。」
歴代の朝ドラでいろいろと名台詞があったと思うが、そのなかでこの母のことばは残るものになるにちがいない。
これまで朝ドラでは、いろんな女性を描いてきた。時代のなかで突出した生き方をするような女性もあった。また、その一方で、普通に生活して結婚してという生き方を選ぶ女性も描いてきた。
たまたま、同時に再放送がはじまった『ちゅらさん』などは、ごく普通に生きようとした女性であるといえよう。(この朝ドラは、以前の再放送のときほとんどを見ている。脚本は岡田惠和。『おひさま』も『ひよっこ』もごく普通に生きようとした女性の物語であった。)
前作の『ブギウギ』は、時代の流れのなかで自分の生きたいように生き、才能を開花させた女性の物語であった。
その前の『らんまん』とか、以前の『ゲゲゲの女房』とかは、内助の功の物語といっていいだろう。
『虎に翼』は、法曹の世界で、ガラスの天井を打ち破った女性……ということになるのだが、特に女性の権利を主張するということではないらしい。自分の思ったこと、言いたいことを言える場所を探すと、たまたま法曹の世界がそこにあった、ということのようである。こういうタイプの女性像というのは、朝ドラの歴史のなかでは珍しいと思うが、どうだろうか。
このドラマのいいところだと思うのは、寅子(さすがのATOKでも、「ともこ」からは変換してくれなかった)の生き方、価値観を、その時代に生きたその他の人物と併行して描いていることだと思う。すでに指摘されていることだが、このドラマのちょっとした場面にそれを感じる。女学校の近くの橋の上を行き交う人びと、神田の路上で風呂敷包みを抱えてたたずむ少女。おだんご屋さんのお客さんたち。それから、女学校の先生。それぞれに、生きることの苦労をかかえていることを感じさせる。その多くの人びとのなかで、このドラマとして、寅子にスポットをあてている。だが、その背景には、同時代を生きた多くの人びとのいろんな生き方があった、ということを感じさせる。
通常は、通行人などは主人公が際立つように目立たない存在として映すのだが、このドラマの演出は違っている。
同級生の親友の花江は、女学校在学中に結婚することを実現する。このような生き方もあった時代である。(女学校の場面で、女学校の生徒が窓からバケツの水を捨ててはいけないと思うけれど。)
画面の作り方が丁寧だと感じる。さりげないシーンだったのだが、母のはるが昔を回想するシーン。丸亀の旅館のなかの一場面が映っていた。本を読む少女の姿があったが、それが母の若いときの姿だったのかもしれない。女学校に行きたかったが、行かせてもらえなかったと、母は語っていた。このようなところは、語りだけで済ませることもできるが、数秒の映像をいれることによって、ぐっと説得力が増す。
女学校の先生もどんな人生を歩んできたのだろうかと、想像することになる。たぶん、東京女子高等師範学校の附属の高等女学校だと思うのだが、そこの教師をしているということは、その当時にあっては、ハイレベルの教育を受けた女性の一人と言っていい。そのような経歴があって、自分の教え子が、法律を学ぶために進学したいと言い出したときに、ちょっと待ちなさいと言うことになる。素直に進学を勧めることをためらわせるものがあったにちがいない。
寅子は、神田駿河台の大学に進学することになる。モデルは明治大学である。神田界隈が学校の街であった経緯については、鹿島茂の『神田神保町書肆街考』に詳しい。
時代設定は、昭和六年。満州事変の年なのだが、このドラマでは世相にかんすることは出てきていなかった。これから、時代背景をどのように描くことになるかも楽しみである。
ところで、週の最後のところで、桂場はお団子を食べることができたのだろうか。これがちょっと気になるところであった。
尾野真千子の語りがとてもいい。
次週、いよいよ法律の勉強ということになるらしい。楽しみに見ることにしよう。
2024年4月6日記
おとなの人形劇「人形歴史スペクタクル 平家物語」 ― 2024-04-07
2024年4月7日 當山日出夫
おとなの人形劇「人形歴史スペクタクル 平家物語」
一九九三年の放送である。その当時、時々見ていたとかと思うのだが、きちんと見たということではない。
NHKの人形劇というと、「チロリン村」のことを憶えている。子どものころのことである。「八犬伝」も時々見た。
『平家物語』といっても、吉川英治の『新平家物語』が原作である。『平家物語』の現代版は、いくつかあるはずだが、あまり知らないでいる。NHKの大河ドラマでも、「平家物語」やその時代のことは、何度もあつかわれている。『新平家物語』は、読んだことがない本だと記憶しているのだが、私の若いころは、吉川英治は、まだ現役で読まれる作家だった。今ではもう読まれないかもしれない。
大衆作家としての吉川英治ということについては、ポピュラーカルチャー研究、大衆文学研究という観点から、研究の必要があるだろう。専門には、研究が進んでいるのかもしれないが、知らないでいる。(もう隠居と決めているので、論文を探して読んでみようという気もおこならないでいる。)
古典としての『平家物語』の近代史は面白い面がある。
大津雄一.『『平家物語』の再誕 創られた国民叙事詩』.NHKブックス.2013
『平家物語』が「古典」になったのは、近代になってから、あるいは、戦後になってから、ということになる。
ちょっと古いが、石母田正の『平家物語』(岩波新書)もいい本である。これは、最近になって岩波文庫で再刊になった。
それはともかく、『平家物語』は読んで面白い作品である。
人形劇の「平家物語」であるが、これは面白かった。一日に二話づつの放送になるので、半年ほど続くことになるのだろう。登場人物の心情など、ちょっと現代風にアレンジしすぎという感じもしなくはないのだけれども、それはテレビと割り切って見ると、結構面白い。
たしか吉川英治『新平家物語』について、誰かが書いていたか、話しを聞いたか……ということで憶えていることなのだが、注目すべき登場人物は、朱鼻という謎の人物。これは、古典の『平家物語』には出てこない。平家、源氏の興亡の時代を見届ける、時代の目撃者、とでもいうような設定で出てくる。
録画の設定はしてある。時間のゆるす限りになるが、これから見ていこうと思っている。
2024年4月2日記
おとなの人形劇「人形歴史スペクタクル 平家物語」
一九九三年の放送である。その当時、時々見ていたとかと思うのだが、きちんと見たということではない。
NHKの人形劇というと、「チロリン村」のことを憶えている。子どものころのことである。「八犬伝」も時々見た。
『平家物語』といっても、吉川英治の『新平家物語』が原作である。『平家物語』の現代版は、いくつかあるはずだが、あまり知らないでいる。NHKの大河ドラマでも、「平家物語」やその時代のことは、何度もあつかわれている。『新平家物語』は、読んだことがない本だと記憶しているのだが、私の若いころは、吉川英治は、まだ現役で読まれる作家だった。今ではもう読まれないかもしれない。
大衆作家としての吉川英治ということについては、ポピュラーカルチャー研究、大衆文学研究という観点から、研究の必要があるだろう。専門には、研究が進んでいるのかもしれないが、知らないでいる。(もう隠居と決めているので、論文を探して読んでみようという気もおこならないでいる。)
古典としての『平家物語』の近代史は面白い面がある。
大津雄一.『『平家物語』の再誕 創られた国民叙事詩』.NHKブックス.2013
『平家物語』が「古典」になったのは、近代になってから、あるいは、戦後になってから、ということになる。
ちょっと古いが、石母田正の『平家物語』(岩波新書)もいい本である。これは、最近になって岩波文庫で再刊になった。
それはともかく、『平家物語』は読んで面白い作品である。
人形劇の「平家物語」であるが、これは面白かった。一日に二話づつの放送になるので、半年ほど続くことになるのだろう。登場人物の心情など、ちょっと現代風にアレンジしすぎという感じもしなくはないのだけれども、それはテレビと割り切って見ると、結構面白い。
たしか吉川英治『新平家物語』について、誰かが書いていたか、話しを聞いたか……ということで憶えていることなのだが、注目すべき登場人物は、朱鼻という謎の人物。これは、古典の『平家物語』には出てこない。平家、源氏の興亡の時代を見届ける、時代の目撃者、とでもいうような設定で出てくる。
録画の設定はしてある。時間のゆるす限りになるが、これから見ていこうと思っている。
2024年4月2日記
『光る君へ』「星落ちてなお」 ― 2024-04-08
2024年4月8日 當山日出夫
『光る君へ』第14回「星落ちてなお」
兼家が死んだ。病死なのか、それとも呪詛によるものなのか。このドラマでは、呪詛が本当に力を持っているようだ。ならば、生き霊とか、物の怪とか、これから活躍するだろうか。
しかし、平安時代の貴族の死生観はどんなものであったか、あまりに現代的に描きすぎのような気もする。この時代ならば、浄土思想、極楽往生の考え方はあったはずだが、あまりそのような気配はない。また、死をけがれとして描くこともしていない。これは、このドラマの方針のようである。
人殺しは悪であり、罪である。しかし、死はけがれではない。このあたりの価値観は、いかにも現代的という感じがする。
制作の予算の都合でそうなったのか、そのように考証したのか、見ていると宮中の天皇の玉座よりも、藤原の屋敷の方が豪華に見える。
まひろの家は貧乏である。しかし、貴族でもある。ちょっと貧乏すぎるかと感じるところもある。実際のところはどうだったろうか。
まひろ(紫式部)とききょう(清少納言)の会話は、もしあったとしたらということなのだが、こんなものだったのだろうかと思う。
それから気になるのは、まひろが字を教えていること。この時代の庶民としては、文字など知らなくて十分に生きていけたかと思う。また、身分差はあったには違いないが、今日で感じるような階級差としては意識されていなかったかもしれない。社会のシステムとして、身分の違いというものは厳然としてあったにはちがいないが、それぞれがそのなかで充足して生きていたと考えることもできよう。
文字を読める=貴族=支配者=豊か、文字が読めない=庶民=被支配者=みじめ、という図式的な構図では、古代、中世の人々の精神世界をとらえることができないと、私は思っている。文字にたよらないコミュニケーションと精神文化の世界を想像できなくなっているのが、むしろ文字によって貧しくなった現代人の想像力であるかもしれない。
『万葉集』の時代、その詠まれた歌は、基本的には文字によらないものであった。それが、後に漢字を使って日本語を書くことが可能になって、文字に記されて、最終的に書物になり、現代では、それを文字で書いた書物として詠んでいる。だが、そもそもが文字の無い時代の日本語の歌であったことを忘れてはならない。
どうでもいいが、伊藤敏恵アナウンサーの声で、独裁が始まった、と言われると「映像の世紀」を見ている気分になる。
2024年4月7日記
『光る君へ』第14回「星落ちてなお」
兼家が死んだ。病死なのか、それとも呪詛によるものなのか。このドラマでは、呪詛が本当に力を持っているようだ。ならば、生き霊とか、物の怪とか、これから活躍するだろうか。
しかし、平安時代の貴族の死生観はどんなものであったか、あまりに現代的に描きすぎのような気もする。この時代ならば、浄土思想、極楽往生の考え方はあったはずだが、あまりそのような気配はない。また、死をけがれとして描くこともしていない。これは、このドラマの方針のようである。
人殺しは悪であり、罪である。しかし、死はけがれではない。このあたりの価値観は、いかにも現代的という感じがする。
制作の予算の都合でそうなったのか、そのように考証したのか、見ていると宮中の天皇の玉座よりも、藤原の屋敷の方が豪華に見える。
まひろの家は貧乏である。しかし、貴族でもある。ちょっと貧乏すぎるかと感じるところもある。実際のところはどうだったろうか。
まひろ(紫式部)とききょう(清少納言)の会話は、もしあったとしたらということなのだが、こんなものだったのだろうかと思う。
それから気になるのは、まひろが字を教えていること。この時代の庶民としては、文字など知らなくて十分に生きていけたかと思う。また、身分差はあったには違いないが、今日で感じるような階級差としては意識されていなかったかもしれない。社会のシステムとして、身分の違いというものは厳然としてあったにはちがいないが、それぞれがそのなかで充足して生きていたと考えることもできよう。
文字を読める=貴族=支配者=豊か、文字が読めない=庶民=被支配者=みじめ、という図式的な構図では、古代、中世の人々の精神世界をとらえることができないと、私は思っている。文字にたよらないコミュニケーションと精神文化の世界を想像できなくなっているのが、むしろ文字によって貧しくなった現代人の想像力であるかもしれない。
『万葉集』の時代、その詠まれた歌は、基本的には文字によらないものであった。それが、後に漢字を使って日本語を書くことが可能になって、文字に記されて、最終的に書物になり、現代では、それを文字で書いた書物として詠んでいる。だが、そもそもが文字の無い時代の日本語の歌であったことを忘れてはならない。
どうでもいいが、伊藤敏恵アナウンサーの声で、独裁が始まった、と言われると「映像の世紀」を見ている気分になる。
2024年4月7日記
新プロジェクトX「東京スカイツリー」 ― 2024-04-08
2024年4月8日 當山日出夫
新プロジェクトX 東京スカイツリー 天空の大工事 〜世界一の電波塔建設に挑む〜
番組としては面白いのだが、正直な感想としては、いまひとつといったところである。無論、現場で働いた人たちの仕事ぶりはすばらしいと思う。また、それを設計したことも、評価されるべきである。
だが、以前の放送のときもそうなのだが、感動のおしつけ的な部分がないわけではない。かなり天邪鬼な感想かもしれないが。
私の興味をひいたのは、さりげない部分。現場のとびの仕事では、設計図の指示どおりに仕事をすることはない、ということ。図面ではそうなてっていても、実際の作業としては、適宜判断して作業することになる。
このようなことは、建設業界では普通にあることなのかもしれない。であるとするならば、このことを見越して設計図は作られていることになる。では、設計図を作った人は、どう考えて図面を描いているのだろうか。このあたりのノウハウが継承、共有されなくなるとしたら、そのときこそ日本の終わりかもしれない。
それから、雷のことが気になる。先日の「ザ・バックヤード」であったように東京スカイツリーは雷が多くおちる。このことは、計画設計段階で考慮されていたことなのだろうか。鉄骨を組み上げていく現場で落雷ということは、かなり危険なことであると思われるのだが、どうだったのだろうか。
また、東日本大震災のときの映像資料が残っていることはおどろきである。これはニュースなどでは見た記憶がない。犠牲者が出なかったからニュースにならなかったということでいいのだろうか。この時点で、心柱はどれほど出来ていて、どれほど機能したのだろうか。
もう東京には行く機会があまりないかもしれない。まあ、次女が東京で働いていて、押上の近くに住んではいるので、行くことがあるかもしれない。東京スカイツリーを目にすることがあったら、相対性理論にしたがって、ツリーの上と下とでは時間の進み方が違うことを思うだろう。また、この建設にかかわった多くの人びとのことを思うことになるだろう。
2024年4月7日記
新プロジェクトX 東京スカイツリー 天空の大工事 〜世界一の電波塔建設に挑む〜
番組としては面白いのだが、正直な感想としては、いまひとつといったところである。無論、現場で働いた人たちの仕事ぶりはすばらしいと思う。また、それを設計したことも、評価されるべきである。
だが、以前の放送のときもそうなのだが、感動のおしつけ的な部分がないわけではない。かなり天邪鬼な感想かもしれないが。
私の興味をひいたのは、さりげない部分。現場のとびの仕事では、設計図の指示どおりに仕事をすることはない、ということ。図面ではそうなてっていても、実際の作業としては、適宜判断して作業することになる。
このようなことは、建設業界では普通にあることなのかもしれない。であるとするならば、このことを見越して設計図は作られていることになる。では、設計図を作った人は、どう考えて図面を描いているのだろうか。このあたりのノウハウが継承、共有されなくなるとしたら、そのときこそ日本の終わりかもしれない。
それから、雷のことが気になる。先日の「ザ・バックヤード」であったように東京スカイツリーは雷が多くおちる。このことは、計画設計段階で考慮されていたことなのだろうか。鉄骨を組み上げていく現場で落雷ということは、かなり危険なことであると思われるのだが、どうだったのだろうか。
また、東日本大震災のときの映像資料が残っていることはおどろきである。これはニュースなどでは見た記憶がない。犠牲者が出なかったからニュースにならなかったということでいいのだろうか。この時点で、心柱はどれほど出来ていて、どれほど機能したのだろうか。
もう東京には行く機会があまりないかもしれない。まあ、次女が東京で働いていて、押上の近くに住んではいるので、行くことがあるかもしれない。東京スカイツリーを目にすることがあったら、相対性理論にしたがって、ツリーの上と下とでは時間の進み方が違うことを思うだろう。また、この建設にかかわった多くの人びとのことを思うことになるだろう。
2024年4月7日記
ドキュメント72時間「国道4号線 ドライブインは眠らない」 ― 2024-04-09
2024年4月9日 當山日出夫
ドキュメント72時間 国道4号線 ドライブインは眠らない
この番組としては、食堂シリーズといっていいだろうか。この前は、アイスクリーム屋さんだった。同じNHKの「サラメシ」もそうなのだが、人がものを食べているところというのは、それがおいしそうに食べている場合であれば、何かしら見ている側も幸福感を感じることができる。これは何故だろう。食べるということが、人間が生きていくことの根底にかかわることからなのかもしれない。
テレビの歴史、あるいは、映画の歴史をふくめてになるが、人間がものを食べる場面とは、どのように扱われてきたのか……これは、面白い研究テーマかもしれない。(あるいは、すでにあるのかもしれないが。)
ホームドラマというのは最近では無くなってしまったが、居間に卓袱台があって家族みんなで御飯を食べる。まあ、今では、朝ドラのなかではよく出てくる場面設定である。一緒に御飯を食べるということに、何か意味を感じるようになっているのだろう。
国道沿いのドライブインである。そんなに劇的な人生ドラマがあるというのではないのだが、しかし、そこで食事をしている人には、それぞれの人生がある。ごく普通に生きている人の、普通の生活とはこんなものなのだろうと思うことになる。いわゆるグルメというのではなく、ありふれた食べ物である。お弁当であっても、焼き芋であっても、鯛焼きであっても、アイスクリームであっても、それを食べている人を見るだけで、なんとなく気持ちが休まる。
最後に出てきていた、母と娘。世の中の人情というものを感じる。
2024年4月6日記
ドキュメント72時間 国道4号線 ドライブインは眠らない
この番組としては、食堂シリーズといっていいだろうか。この前は、アイスクリーム屋さんだった。同じNHKの「サラメシ」もそうなのだが、人がものを食べているところというのは、それがおいしそうに食べている場合であれば、何かしら見ている側も幸福感を感じることができる。これは何故だろう。食べるということが、人間が生きていくことの根底にかかわることからなのかもしれない。
テレビの歴史、あるいは、映画の歴史をふくめてになるが、人間がものを食べる場面とは、どのように扱われてきたのか……これは、面白い研究テーマかもしれない。(あるいは、すでにあるのかもしれないが。)
ホームドラマというのは最近では無くなってしまったが、居間に卓袱台があって家族みんなで御飯を食べる。まあ、今では、朝ドラのなかではよく出てくる場面設定である。一緒に御飯を食べるということに、何か意味を感じるようになっているのだろう。
国道沿いのドライブインである。そんなに劇的な人生ドラマがあるというのではないのだが、しかし、そこで食事をしている人には、それぞれの人生がある。ごく普通に生きている人の、普通の生活とはこんなものなのだろうと思うことになる。いわゆるグルメというのではなく、ありふれた食べ物である。お弁当であっても、焼き芋であっても、鯛焼きであっても、アイスクリームであっても、それを食べている人を見るだけで、なんとなく気持ちが休まる。
最後に出てきていた、母と娘。世の中の人情というものを感じる。
2024年4月6日記
アナザーストーリーズ「SHIBUYA文化革命 渋谷が若者の街になった」 ― 2024-04-09
2024年4月9日 當山日出夫
アナザーストーリーズ SHIBUYA文化革命 渋谷が若者の街になった
一九七〇年代の半ばから、東京に住んでいた。一〇年以上になる。慶應義塾大学の学生であったから、当然のごとく渋谷の街には行った。
私が学生になったとき、すでにPARCOはあった。だが、そこで買物をしたというような経験はない。公園通りという名称は、すでにその名前であったと思うが、特にそれと意識して歩いたということはない。
私が東京にいたころの渋谷は、たしかにファッションの最先端の街であったかと思う。いや、そのころだと、一つ隣の原宿の方が有名だったかとも思うが。
渋谷にあった書店……紀伊國屋、旭屋、大盛堂……など、よく行ったものだが、今ではもう昔の面影はない。
109のビルが出来たときのことは記憶にある。しかし、そのビルに入ったことはない。むしろ、その隣にあった小さな居酒屋が、印象に残っている。頑として土地を売らなかったのだろう、ビルの隣でボロになった建物で営業を続けていた。そのころの私としては、109のビルを建てた東急よりも、その居酒屋の方をこころよく思ったものである。まあ、天邪鬼だったのである。
大学の学部の学生のころから、山田忠雄先生のところで勉強した。その研究室が渋谷にあった。基本的に隔週で夜に研究会があった。そこへ行く途中、ストリップ劇場の前を通る。どこか猥雑さを残した街でもあった。
渋谷という街を、若者文化の街と意識して歩いたことはない。番組で言っていた、ギャルの街になったころには、東京を離れてしまっていたこともある。
もう東京に行くことにそれほどないと思う。渋谷に行ってもたぶん道に迷うだけであろう。特に行ってみたいというところでもなくなっている。雑然とした猥雑さのある、サラリーマンと学生の街という渋谷は、もう過去のものになってしまったのであろう。
ただ、番組であつかっていたPARCOを中心とした西武文化というべきものは、時代の大きな流れのなかにあって、価値のあるものであったことになる。その時代の空気というものは、なんとなく憶えている。
2024年4月5日記
アナザーストーリーズ SHIBUYA文化革命 渋谷が若者の街になった
一九七〇年代の半ばから、東京に住んでいた。一〇年以上になる。慶應義塾大学の学生であったから、当然のごとく渋谷の街には行った。
私が学生になったとき、すでにPARCOはあった。だが、そこで買物をしたというような経験はない。公園通りという名称は、すでにその名前であったと思うが、特にそれと意識して歩いたということはない。
私が東京にいたころの渋谷は、たしかにファッションの最先端の街であったかと思う。いや、そのころだと、一つ隣の原宿の方が有名だったかとも思うが。
渋谷にあった書店……紀伊國屋、旭屋、大盛堂……など、よく行ったものだが、今ではもう昔の面影はない。
109のビルが出来たときのことは記憶にある。しかし、そのビルに入ったことはない。むしろ、その隣にあった小さな居酒屋が、印象に残っている。頑として土地を売らなかったのだろう、ビルの隣でボロになった建物で営業を続けていた。そのころの私としては、109のビルを建てた東急よりも、その居酒屋の方をこころよく思ったものである。まあ、天邪鬼だったのである。
大学の学部の学生のころから、山田忠雄先生のところで勉強した。その研究室が渋谷にあった。基本的に隔週で夜に研究会があった。そこへ行く途中、ストリップ劇場の前を通る。どこか猥雑さを残した街でもあった。
渋谷という街を、若者文化の街と意識して歩いたことはない。番組で言っていた、ギャルの街になったころには、東京を離れてしまっていたこともある。
もう東京に行くことにそれほどないと思う。渋谷に行ってもたぶん道に迷うだけであろう。特に行ってみたいというところでもなくなっている。雑然とした猥雑さのある、サラリーマンと学生の街という渋谷は、もう過去のものになってしまったのであろう。
ただ、番組であつかっていたPARCOを中心とした西武文化というべきものは、時代の大きな流れのなかにあって、価値のあるものであったことになる。その時代の空気というものは、なんとなく憶えている。
2024年4月5日記
世界サブカルチャー史「特別編 戦争と大衆の百年」 ― 2024-04-10
2024年4月10日 當山日出夫
世界サブカルチャー史 特別編 戦争と大衆の百年
「世界サブカルチャー史」は、以前、BSで放送していたときは、かなり見ていた。ただ、見ていて不満に思うことがある。それは、おそらくは著作権の関係なのだろうが、テレビや漫画などの紹介がかなり限定的であるということである。見ていて、なにかもどかしいのである。特にそれを強く感じたのは、日本の一九七〇年代をあつかったとき。BSの放送を見ていたが、山口百恵のことが一切出てきていなかった。これはどうかなと思って見ていた。
そのような事情があって、Eテレに放送が移って、そう興味をひくことなく過ぎていたのだが、この特集は見ておきたいと思って録画した。
サブカルチャーから戦争をとらえる、この発想は一つの方法としてありうることだと思う。実際の戦争がどうであるか、あったか、ということとは別に、それが社会の人びとにどのように受けとめられてきたのか、戦争観の変遷というようなことは、サブカルチャーを通してしか見ることのできないものかもしれない。
私は、一九五五年(昭和三〇)の生まれなので、昭和三〇年代の少年漫画雑誌の誕生のころが、ちょうど小学生のころだった。「少年マガジン」や「少年サンデー」の世代ということになる。番組でも語っていたように、この時代、少年漫画雑誌で、戦争は大きなテーマだった。戦記漫画というべき作品が多くあった。
また、テレビドラマの「コンバット」は見ていた。サンダース軍曹のことは、はっきりと憶えている。そのテーマ曲は未だに忘れない。
プラモデルで、戦闘機や軍艦を作ったこともある。
かなり前のことになるが、近所の書店で、「紫電改のタカ」の文庫本を売っていたので買った。それから、望月三起也も買った。第二次世界大戦のとき、ヨーロッパ戦線で従軍した日系人兵士のことをあつかっている。このことは、子どものときに漫画で憶えた。このような経験の人は多いのではないか。
これらを買ったのは、自分がなつかしくて読みたいと思ったこともあるが、子どもがちょうど小学生のころだったので、これらの漫画は読んでおいてもいいかと思うところもあった。戦争漫画だからといって、戦争を肯定的に描いているばかりではない。その底にヒューマニズムを感じる作品もある。
さて、今、漫画研究の分野では、昭和三〇年代の少年漫画雑誌で描かれた戦争ということに、どのような研究があるのだろうか。私は漫画研究にはまったく疎いので知らないでいるのだが、このあたりのことは興味がある。
そして現代である。SNSとスマートフォンの普及により、戦争は一変したと言っていいだろう。ウクライナでの戦争でも、イスラエルのことでも、まさにリアルタイムで戦地の様子が、世界に拡散する。また、それを前提として、戦争が行われている。
番組では使っていなかったが、ハイブリッド戦争という。この時代にあっては、スマートフォンのゲームも、また、戦争の一端に組み込まれる時代がきていることになる。
また、番組ではここまでは言及していなかったこととして、AIによるフェイク情報もありうる。これが、サブカルチャーの中に流れ込んできたとき、戦争をとりまく人びとの感覚は、どのようなものになっていくだろうか。
2024年4月1日記
世界サブカルチャー史 特別編 戦争と大衆の百年
「世界サブカルチャー史」は、以前、BSで放送していたときは、かなり見ていた。ただ、見ていて不満に思うことがある。それは、おそらくは著作権の関係なのだろうが、テレビや漫画などの紹介がかなり限定的であるということである。見ていて、なにかもどかしいのである。特にそれを強く感じたのは、日本の一九七〇年代をあつかったとき。BSの放送を見ていたが、山口百恵のことが一切出てきていなかった。これはどうかなと思って見ていた。
そのような事情があって、Eテレに放送が移って、そう興味をひくことなく過ぎていたのだが、この特集は見ておきたいと思って録画した。
サブカルチャーから戦争をとらえる、この発想は一つの方法としてありうることだと思う。実際の戦争がどうであるか、あったか、ということとは別に、それが社会の人びとにどのように受けとめられてきたのか、戦争観の変遷というようなことは、サブカルチャーを通してしか見ることのできないものかもしれない。
私は、一九五五年(昭和三〇)の生まれなので、昭和三〇年代の少年漫画雑誌の誕生のころが、ちょうど小学生のころだった。「少年マガジン」や「少年サンデー」の世代ということになる。番組でも語っていたように、この時代、少年漫画雑誌で、戦争は大きなテーマだった。戦記漫画というべき作品が多くあった。
また、テレビドラマの「コンバット」は見ていた。サンダース軍曹のことは、はっきりと憶えている。そのテーマ曲は未だに忘れない。
プラモデルで、戦闘機や軍艦を作ったこともある。
かなり前のことになるが、近所の書店で、「紫電改のタカ」の文庫本を売っていたので買った。それから、望月三起也も買った。第二次世界大戦のとき、ヨーロッパ戦線で従軍した日系人兵士のことをあつかっている。このことは、子どものときに漫画で憶えた。このような経験の人は多いのではないか。
これらを買ったのは、自分がなつかしくて読みたいと思ったこともあるが、子どもがちょうど小学生のころだったので、これらの漫画は読んでおいてもいいかと思うところもあった。戦争漫画だからといって、戦争を肯定的に描いているばかりではない。その底にヒューマニズムを感じる作品もある。
さて、今、漫画研究の分野では、昭和三〇年代の少年漫画雑誌で描かれた戦争ということに、どのような研究があるのだろうか。私は漫画研究にはまったく疎いので知らないでいるのだが、このあたりのことは興味がある。
そして現代である。SNSとスマートフォンの普及により、戦争は一変したと言っていいだろう。ウクライナでの戦争でも、イスラエルのことでも、まさにリアルタイムで戦地の様子が、世界に拡散する。また、それを前提として、戦争が行われている。
番組では使っていなかったが、ハイブリッド戦争という。この時代にあっては、スマートフォンのゲームも、また、戦争の一端に組み込まれる時代がきていることになる。
また、番組ではここまでは言及していなかったこととして、AIによるフェイク情報もありうる。これが、サブカルチャーの中に流れ込んできたとき、戦争をとりまく人びとの感覚は、どのようなものになっていくだろうか。
2024年4月1日記
ドキュメント20min.「わたし、【終活】しています。」 ― 2024-04-10
2024年4月10日 當山日出夫
ドキュメント20min. わたし、【終活】しています。
終活を考える若者というのが、どうもイメージできないでいたのだが、見ると、なるほど今の若い人たちは、こんなことを考えて生きているのか、とふと感じるところがある。
一つには、いわゆる生きづらさというものなのかもしれない。今の世の中で、贅沢な暮らしをしたいというのではないようだ。いや、富を得るということが、もはや絶望的な時代になってきているともいえるだろうか。格差の増大、富の偏在という世界に今はなってきている。そのなかで、ミニマリストとして生きている。生きていくために必要最低限のことはなにか、ということを考えることが、自分の死んだ後のことを考えることにつながっているのかとも思う。
それから、登場していた若い人たちは、映像で見る限りは独身のようだ。これが、結婚して子どもがいて、となると、また考え方も変わってくるかなとも感じるところもある。あるいは、さらに考えてみるならば、とおい将来の日本の人びとのことを考える、ということもありうるのかもしれないが、そのような感じはしない。あえて悪くいえば、今のことを考えている。しかし、今の時代に生きるということは、そういうことなのかもしれないとは思う。
私も、老人となっている。いろいろと考えることもある。
2024年4月9日記
ドキュメント20min. わたし、【終活】しています。
終活を考える若者というのが、どうもイメージできないでいたのだが、見ると、なるほど今の若い人たちは、こんなことを考えて生きているのか、とふと感じるところがある。
一つには、いわゆる生きづらさというものなのかもしれない。今の世の中で、贅沢な暮らしをしたいというのではないようだ。いや、富を得るということが、もはや絶望的な時代になってきているともいえるだろうか。格差の増大、富の偏在という世界に今はなってきている。そのなかで、ミニマリストとして生きている。生きていくために必要最低限のことはなにか、ということを考えることが、自分の死んだ後のことを考えることにつながっているのかとも思う。
それから、登場していた若い人たちは、映像で見る限りは独身のようだ。これが、結婚して子どもがいて、となると、また考え方も変わってくるかなとも感じるところもある。あるいは、さらに考えてみるならば、とおい将来の日本の人びとのことを考える、ということもありうるのかもしれないが、そのような感じはしない。あえて悪くいえば、今のことを考えている。しかし、今の時代に生きるということは、そういうことなのかもしれないとは思う。
私も、老人となっている。いろいろと考えることもある。
2024年4月9日記
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