『虎に翼』「女房百日 馬二十日?」2024-07-07

2024年7月7日 當山日出夫

『虎に翼』「女房百日 馬二十日?」

このドラマの面白さはそこそこであると思っているのだが、X(Twitter )での反応を見ていると、曲解(としかいいようがないが)してまで、ドラマを礼讃する人びとがいることが、興味深い。ある意味では、現代の日本を映し出すことになっている。この意味でとても面白いドラマになっている。

「造反有理」ということばが昔あったのを思い出した。主張することが正しければ、どんな手段で主張してもゆるされる……昔のことかと思っていたのだが、今の時代にこのことを考えることになろうとは思わなかった。

この週も見ていていろいろと思うことがある。思いつくままに書いてみる。

穂高先生は言っていた。私は古い人間だ、と。そして、寅子に対して、寅子の新しい考え方もいずれ古くなるときがくる、と。このドラマの基本的な考え方として、新しいことは正しいこと、と思っていることになる。はたしてそうなのだろうか。価値観の多様性といいながら、古くからの考え方を大切にしようという発想(これは保守ということになるが)は切り捨てられている。新しいが故に正しいとするのは、進歩主義である。

それよりも、戦後になって、戦前戦中までの価値観が大きく変わったなかで、人びとが何を思い感じてきたのかということが重要だと思うのだが、このあたりのことがほとんど描かれない。東京裁判のことも、女性の参政権のことも、出てきていなかった。このドラマでも、以前なら、ラジオのニュースとか、新聞などの記事で、そのような世相を描くことがあったのだが、まったくなくなっている。どうしてなのだろう。

女性の社会進出ということを描くのであれば、婦人代議士の誕生は画期的なことであったにちがいない。また、日中戦争、太平洋戦争における日本の悪行については、東京裁判の過程で国民に知られるようになったことでもある。市井の一市民が主人公ならいいかもしれないが、日本最初の女性弁護士で裁判官という人間を主人公としたドラマでは、不可欠だと私は思うのだが。

かつて、『おしん』では戦後の価値観の転換が非常におおきなテーマであった。それはおしんの夫の竜三として描かれていた。『おしん』が作られた時代には、戦後の価値観の転換は歴史として避けてとおることのできないものであった。(竜三のことには納得がいかないかもしれないが。)それを思ってみると、現代の『虎に翼』では、もうこのようなことは描く価値のないことになってしまったのだろうか。あるいは、強いて描くことではない当たり前のことということなのだろうか。さて、どっちだろう。(橋田壽賀子と吉田恵里香の違いといえばそれまでなのだが。)

(以前にも書いたことなのだが)戦前までは、「家」というものが生活の中心にあった。それは、人びとを抑圧するものでもあった。その反省から、戦後になって「家庭」というものが重視されるようになった。両性の合意のもとに結婚した夫婦とその子供を基本とするという考え方である。それが、現在では、その「家庭」も個人を束縛するものとして忌避されるようになってきている。子ども家庭庁が出来るときに、「家庭」の文字が入ることに強行に反対した人たちがいたことは記憶に新しい。

寅子のこの時代であれば、「家庭」というものが、社会の基本であると多くの人びとが意識しはじめていたころとなるだろう。「家」を引きずっている人はいたかもしれないが、「家庭」を否定する人はまだ出てきていないだろうと思う。寅子が、改稿作業を手伝った、星最高裁長官の著書の序文にも「家族」と使っていた。このことに、寅子は疑問をいだいた様子はなかった。

このドラマで、「家庭」とはどのようなものとして描かれることになるのだろうか。

尊属殺についての穂高先生の判断のなかで、法律と道徳は違うといっていた。これはたしかにそのとおりである。ここでこの考え方をドラマのなかで提示したことの意味はいったい何だろうか。家庭裁判所の案件の多くは、法律で形式的に裁くことのできない人間のこころの問題にふれることではないだろうかと思う。いいかえるならば、人間の道徳観にうったえること、倫理観のふれること、そして当事者が納得すること、が必要になるかもしれない。だからこそ、多岐川のいう「愛の裁判所」ということになると思っているのだが、どうだろうか。夫婦の間の感情とか、親子の気持ちとか、子どもが孤独感から非行におよぶこととか、これらは、法律の規定だけではどうしようもないことである。

だが、寅子の言動には、愛が感じられないというのが、ドラマを見ていて感じることである。意見は賛否両論あるようなのだが、穂高先生の退任祝賀会での一件は、そのような脚本や演出であるとしても、見ていて愛が感じられるものではなかった。

法律と道徳は違うということは、法律でふみこむことのできない、人間のこころの内面に十分配慮しなければならないということでもあろう。この両者の区別の分かっていない人間に法律のおよぶべき範囲を判断できるはずはない。つまり、道徳のわかっていない人間に法律にたずさわる資格はないということになる。

だが、寅子の穂高先生に対する行為は、道徳……人間のこころの内側にある社会的伝統的な規範意識……が感じられない。

これも、見方によっては、それほどまでに寅子の穂高先生に対する怒りが激しかったということなのかもしれない。しかし、穂高先生が言ったことは、妊娠した寅子に対して体をいたわるようにということを語っただけである。これはその当時としては、あるいは、現代でも、きわめて常識的なことである。

ドラマの作り方として、どうしても寅子に穂高先生に敵意を持たせたかったのかもしれない。乗り越えるべき壁として存在する登場人物が必要だったのだろう。その壁にぶつかり、挫折し、しかし、立ち上がる寅子にしたかったのだろう。

しかし、壁として設定するには、穂高先生はあまりにもその当時の価値観において進歩的であり……女性に法曹への道をひらいたり、最高裁で少数意見を述べたり……また、一般的常識的であった。雨の一滴のことば、きわめて謙虚である。このような人物を壁として設定することが、無理があったというべきである。

穂高先生をこのように描くことは、このドラマが主張したいことがあってのことにはちがいないが、しかし、このような設定や描き方では、その主張したいことについて、反対する意見が生まれこそすれ、賛同者を増やすことにはつながらない。ここで寅子に共感する人はまずいないにちがいない。失敗であったというべきである。

それから、日本人男性とフランス人女性との間の子どもの親権をめぐる問題。ドラマの作り方としてあまりに安易すぎる。おばさんの存在のことは、まず家庭裁判所の案件になった時点で調査しておくべきことだろう。両親が親権を拒否したなら、とりあえず面倒をみてくれそうな親戚を探すのが普通ではないだろうか。家族、親族は助け合わなければならない、ということである。(寅子は、このような考え方が嫌いだったようなのだが。)

気になったのは、寅子が、本音を言えば……と言っていたことである。このとき、寅子は、どのような立場で少年に会っていたのだろうか。裁判官という立場なら、自分の本音を語るということは妥当なことなのだろうか。本音はともかく、まず法律の規定にしたがって判断する、そのときに、「愛」とか「道徳」という要素がはいってくるかもしれない。しかし、それを最初に表だって当事者に語るのはどうなのだろうか。

寅子は、子どもが親の愛情を求めることは自然なこと、と言っていた。これは、まさに、尊属殺判決の少数意見(穂高先生)の言った、法律ではなく道徳にかかわることである。この考えを全面的に肯定するならば、尊属殺は合憲ということになると思うが、どうだろうか。寅子は、これが道徳の領域のことで、法律とは区別されるべきことである、このことをどこまで自覚して発言していたのだろうか。

それよりも、少年にむかって本音を語れば、相手もこころをひらいてくれるという発想が、ドラマの作り方としてあまりに安易である。たしかに人のことばに耳を傾けることは非常に重要である。だが、それでも口をひらかない、たよるべき親戚もいないような少年に対して、法律的にどう判断するか、というところが裁判官としての寅子の仕事であったはずである。それを描くのが、裁判官である寅子を主人公にしたドラマのなすべきことであると思って見ている。

両親に見捨てられた不幸な子どもについては、社会全体で責任をもつべき、家族や親族にたよってはいけない、のだとするならば、この件は、しかるべき施設……この当時であれば孤児院ということになるかもしれない……で保護すべきということになっただろう。ならば、おばさんは登場させるべきではない。寅子は、自分にとって都合のいい意見をのべただけで(まあ、理想は語り続けなければならないということではあるが)、解決策は旧来どおりに家族や親族にまかせることになってしまっている。結果としては法律にしたがったことにはなっている。

それにしても、梅子の件といい、フランス人の女性の件といい、子どもを捨てる母親である。このドラマは、子どもと母親について、何か考えるところがあるのだろうか。

最後のところで、桂場が司法の独立ということを言っていた。そのとおりなのだが、このことを無視してきたのもこのドラマである。民法の改正作業のとき、ドラマでは、寅子たちが民法を作っているかのような描き方であった。これはおかしい。法律を決める権限は、あくまでも国会にある。寅子たちがおこなったのは、法務省においてその草案を書いただけである。実態としては、GHQが命令して、法務省が法案を起草し、国会はそれを承認したというだけであったのかもしれないが、しかし、新憲法が制定された後のことである。三権分立の原則にしたがえば、法律を決める権限は国会のものである。民法改正について、国会でどんな議論があって議決されたのか、まったく触れることがなかった。このドラマは、三権分立がわかっていない。

さて、子どもが親の愛情を求めるのは自然なことと言っていた寅子であるのだが、娘の優未は母親(寅子)に対してどう思っているのだろうか。次週以降どうなるだろうか。

2024年7月6日記

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