『虎に翼』「女やもめに花が咲く?」 ― 2024-07-21
2024年7月20日
『虎に翼』「女やもめに花が咲く?」
このドラマの意図はわかるつもりなのだが、それが多くの視聴者の共感を呼ぶかどうかは、微妙だろうなあと思う。これまで、このドラマはかなり批判的に見られてきたという面がある。一方で、絶賛する人も多数いるのだが。その批判を気にしてのことなのだろうか、ヒロインが水に落ちる場面があった。
近年の朝ドラだと、『てっぱん』『あまちゃん』『ごちそうさん』『とと姉ちゃん』などで、ヒロインが水に落ちるシーンがあった。これは、見ていて意味のあることだった。通過儀礼、イニシエーションとしての、水に落ちるということである。水に落ちて、いったん擬制的に「死」を経ることになる。そして生まれかわって、新たに人生を始めることになる。その転機を象徴するものとしての、水に落ちるということであった。
しかし、今回、『虎に翼』で寅子が水に落ちて、生まれかわったという運びにはなっていない。ただ、これまでの朝ドラの慣例にしたがってヒロインを水に落としたというだけのようだ。ここには、ドラマを作るうえで、その必然性のない無駄な場面であったとしかいいようがない。まあ、好意的に解釈すれば、水に落ちるシーンを入れることで、古くからの朝ドラの視聴者の関心をひきつけたかった、おきまりのシーンですよ、ということだったのかもしれないが、その効果はなかったというべきである。
まあ、強いていえば……かつては、自分の理想のためには穂高先生を罵倒していた寅子が、暴力はいけませんと、言うようになったことになるのかもしれないが、見ていてそのようには理解できなかった。自分の過去の言動を反省して生まれかわったようには見えない。
新潟に行ってからの人物造形が、どうにもステレオタイプである。田舎=前近代的=悪、それに対して、東京=近代的=善、となっている。まあ、はっきり言って、その昔、漱石が『坊っちゃん』を書いた時代ならいざしらず、現代では、地方をこのようなステレオタイプで描くことには、基本的に無理がある。
地方にはその地方なりの生活のルールがある、ということは認めなければならないと私は思う。それを一方的に前近代的な悪として、否定するだけでは、将来にむけての展望が描けない。これからの社会において、たとえば、コモンズとか、コミュニティとか、アソシエーションとか、いろいろ言われる。要するに、人びとの共同体としてのつながりの重視ということである。その一方で封建的とか家父長的とかいう側面は否定されることになる。これは、現代の価値観からするとそうなる。
では具体的にどのような人びとの共同体としてのつながりを構築していけばいいのか、模索しているのが、今の日本であると言っていいだろう。
このドラマでは、その古くからの共同体の悪い面だけを描いている。はっきりいって、こんな視点から地方を見るのは、時代錯誤であるとしかいいようがない。さらにいえば、二一世紀のこれからの日本の社会の共同体がどうあるべきか、ということについて、考えてみたという形跡さえうかがえない。
戦後まもなくの小説に石坂洋次郎の『青い山脈』がある。戦後の地方都市を舞台に、それまでの因習的な生活になじんだ人びとと、戦後の新しい民主主義で生きていこうとしてる若い人びととの、軋轢や葛藤を描いている。戦後、日本の地方都市において見られた民主主義の風である。この風が、新潟県の三條にも吹いてきていたと考えるのが普通だろう。
戦後になって憲法がかわり、法律も民主的なものになった。裁判所も変わった。新しい民主主義の時代に、裁判所としてはどうあるべきか、いろいろと困惑したり悩んだりしたというところもあったにちがない。
しかし、このドラマでは、民主主義の時代になって試行錯誤している地方の裁判所の姿、その職員の仕事についての考え方、というものを描こうとしない。どうにも、視野が狭いとしかいいようがない。
戦後の民主主義を体現しているのは、寅子と航一しかいないようである。
書記官の高瀬については、もうちょっと描き方があたのではないかと思う。戦後の民主主義を実現しようと思う理想と、地方の因習的な生活スタイルとのなかで、煩悶する新しい時代の青年として描いてもよかったのではないか。
あいかわらず、このドラマでは、寅子が法律に従って判断を下すという部分を描かない。おそらく、意図的に描かないように作ったのだと思うけれど、それならば、なぜ裁判官を主人公にしたドラマであるのか、とも疑問に思う。
寅子は、いずれ三條から離れていく。しかし、高瀬は、その後もとどまることになるのだろう。周囲の人間関係はもとのままである。こう考えると、高瀬に処分を下すという判断は、よかったのだろうか。処分したことによって、暴行の一件は解決したかもしれないが、しかし、そもそもの問題は、なんにも変わっていない。これで解決したとするのは、とおからず三條を離れていくことになる寅子にとっては満足かもしれないが、高瀬にとって本当にいいことだったかどうかは、疑問の残るところである。
この仕事をしている以上どんなことがあっても手を出してはだめ、これはまさに正論なのであるが、その後のことばに疑問がある。寅子の言っていた、高瀬の相手になった人について「ああいう人たち」というのは、寅子から見れば封建的因習にそまった遅れた人たちということかもしれない。これは、あきらかに差別的な発言である。しかもこれを他の裁判所職員に聞こえるように言っている。ここは、そのような社会、地域なのである。裁判官が、裁判所のなかでこのようなことを言っていいものだろうか。裁判所を離れて、個人的に話すべきではなかったかと思うのだが、どうだろうか。少なくとも裁判所のなかにおいては、法の下の平等、思想信条の自由は、絶対にゆずることのできないことのはずである。
寅子は、明らかに三條の弁護士を蔑視している。自分とは異なる価値観の世界にいるからといって、そのような視線で見るのは、裁判官としてどうなのだろうか。別にその弁護士は、法の網をかいくぐって悪事をはたらいたということではないはずである。それなりに法の秩序をまもっている。それは、古くさい地域の悪弊としか寅子には見えないかもしれないが、犯罪ではない。
この事件の最大の被害者は、川に突き落とされた寅子のはずなのだが、このことは処分の中にふくまれるのだろうか。このことについては、まったく言及がなかった。仲裁に入って巻き添えをくらった寅子が不運だったで済むことなのだろうか。このあたりの描き方も、どうも釈然としない。場合によっては、川に落ちたということをことをあらだてて事件にしないということで、高瀬書記官に貸しを作ったことにもなるのだが、そういうことにはなっていない。
自分の理想は違うものであっても、その地域の人びとの道徳、あるいは、地域の生活の習慣というものを尊重することも、裁判官にはもとめられることではないだろうか。山林の境界を双方納得できる結論にいたったことは、悪いことなのだろうか。だが、裁判となった場合には、公正に法律にもとづいて判断されなければならない。ここで生じる矛盾や葛藤こそ、寅子の成長に必要なものであろう。しかし、その肝心のところの、法律にもとづいた判断を避けているのが、このドラマの作り方でもある。
兄弟を戦争で亡くした高瀬書記官のこころの空白を法律はすくうことはできない。法律は道徳ではないからである。では、どうすべきなのか。その地域のなかで培われてきた伝統的な死生観のなかで時間をすごすしかないのかもしれない。あるいは、戦後になって出てきた新興宗教に身を委ねるか。そうでなければ、都会に出て孤独な個人として生きていくことになるのか。さてどうすべきか。このようなことを、寅子は考えてのことだったのだろうか。
寅子のことばによって高瀬書記官は、公務員としては正しく生きていくことができるだろう。だが、それは、人間として幸せに生きていくこととは、イコールではない。この機微が、このドラマからは伝わってこない。高瀬書記官は、これからこの地で幸せに生きていくことができるのだろうか。
地方はたしかに古くていやなところもある。だが、そのような生活のなかで、問題となった山林の自然も、人びとの生活も、伝統的な倫理観も、時間をかけて醸成され守られてきたということへの、リスペクトはあってしかるべきだと、私は思うのである。近代の行き過ぎを批判的に反省しなければならない今こそ、単純な過去の全否定という短絡的な発想から自由でありたい。三條の美しい自然は、そこに暮らしてきた人びとの生活とともにあったのである。
「ああいう人たち」という言い方からは、戦後民主主義も法の正義も感じることはできないのである。
2024年7月20日記
『虎に翼』「女やもめに花が咲く?」
このドラマの意図はわかるつもりなのだが、それが多くの視聴者の共感を呼ぶかどうかは、微妙だろうなあと思う。これまで、このドラマはかなり批判的に見られてきたという面がある。一方で、絶賛する人も多数いるのだが。その批判を気にしてのことなのだろうか、ヒロインが水に落ちる場面があった。
近年の朝ドラだと、『てっぱん』『あまちゃん』『ごちそうさん』『とと姉ちゃん』などで、ヒロインが水に落ちるシーンがあった。これは、見ていて意味のあることだった。通過儀礼、イニシエーションとしての、水に落ちるということである。水に落ちて、いったん擬制的に「死」を経ることになる。そして生まれかわって、新たに人生を始めることになる。その転機を象徴するものとしての、水に落ちるということであった。
しかし、今回、『虎に翼』で寅子が水に落ちて、生まれかわったという運びにはなっていない。ただ、これまでの朝ドラの慣例にしたがってヒロインを水に落としたというだけのようだ。ここには、ドラマを作るうえで、その必然性のない無駄な場面であったとしかいいようがない。まあ、好意的に解釈すれば、水に落ちるシーンを入れることで、古くからの朝ドラの視聴者の関心をひきつけたかった、おきまりのシーンですよ、ということだったのかもしれないが、その効果はなかったというべきである。
まあ、強いていえば……かつては、自分の理想のためには穂高先生を罵倒していた寅子が、暴力はいけませんと、言うようになったことになるのかもしれないが、見ていてそのようには理解できなかった。自分の過去の言動を反省して生まれかわったようには見えない。
新潟に行ってからの人物造形が、どうにもステレオタイプである。田舎=前近代的=悪、それに対して、東京=近代的=善、となっている。まあ、はっきり言って、その昔、漱石が『坊っちゃん』を書いた時代ならいざしらず、現代では、地方をこのようなステレオタイプで描くことには、基本的に無理がある。
地方にはその地方なりの生活のルールがある、ということは認めなければならないと私は思う。それを一方的に前近代的な悪として、否定するだけでは、将来にむけての展望が描けない。これからの社会において、たとえば、コモンズとか、コミュニティとか、アソシエーションとか、いろいろ言われる。要するに、人びとの共同体としてのつながりの重視ということである。その一方で封建的とか家父長的とかいう側面は否定されることになる。これは、現代の価値観からするとそうなる。
では具体的にどのような人びとの共同体としてのつながりを構築していけばいいのか、模索しているのが、今の日本であると言っていいだろう。
このドラマでは、その古くからの共同体の悪い面だけを描いている。はっきりいって、こんな視点から地方を見るのは、時代錯誤であるとしかいいようがない。さらにいえば、二一世紀のこれからの日本の社会の共同体がどうあるべきか、ということについて、考えてみたという形跡さえうかがえない。
戦後まもなくの小説に石坂洋次郎の『青い山脈』がある。戦後の地方都市を舞台に、それまでの因習的な生活になじんだ人びとと、戦後の新しい民主主義で生きていこうとしてる若い人びととの、軋轢や葛藤を描いている。戦後、日本の地方都市において見られた民主主義の風である。この風が、新潟県の三條にも吹いてきていたと考えるのが普通だろう。
戦後になって憲法がかわり、法律も民主的なものになった。裁判所も変わった。新しい民主主義の時代に、裁判所としてはどうあるべきか、いろいろと困惑したり悩んだりしたというところもあったにちがない。
しかし、このドラマでは、民主主義の時代になって試行錯誤している地方の裁判所の姿、その職員の仕事についての考え方、というものを描こうとしない。どうにも、視野が狭いとしかいいようがない。
戦後の民主主義を体現しているのは、寅子と航一しかいないようである。
書記官の高瀬については、もうちょっと描き方があたのではないかと思う。戦後の民主主義を実現しようと思う理想と、地方の因習的な生活スタイルとのなかで、煩悶する新しい時代の青年として描いてもよかったのではないか。
あいかわらず、このドラマでは、寅子が法律に従って判断を下すという部分を描かない。おそらく、意図的に描かないように作ったのだと思うけれど、それならば、なぜ裁判官を主人公にしたドラマであるのか、とも疑問に思う。
寅子は、いずれ三條から離れていく。しかし、高瀬は、その後もとどまることになるのだろう。周囲の人間関係はもとのままである。こう考えると、高瀬に処分を下すという判断は、よかったのだろうか。処分したことによって、暴行の一件は解決したかもしれないが、しかし、そもそもの問題は、なんにも変わっていない。これで解決したとするのは、とおからず三條を離れていくことになる寅子にとっては満足かもしれないが、高瀬にとって本当にいいことだったかどうかは、疑問の残るところである。
この仕事をしている以上どんなことがあっても手を出してはだめ、これはまさに正論なのであるが、その後のことばに疑問がある。寅子の言っていた、高瀬の相手になった人について「ああいう人たち」というのは、寅子から見れば封建的因習にそまった遅れた人たちということかもしれない。これは、あきらかに差別的な発言である。しかもこれを他の裁判所職員に聞こえるように言っている。ここは、そのような社会、地域なのである。裁判官が、裁判所のなかでこのようなことを言っていいものだろうか。裁判所を離れて、個人的に話すべきではなかったかと思うのだが、どうだろうか。少なくとも裁判所のなかにおいては、法の下の平等、思想信条の自由は、絶対にゆずることのできないことのはずである。
寅子は、明らかに三條の弁護士を蔑視している。自分とは異なる価値観の世界にいるからといって、そのような視線で見るのは、裁判官としてどうなのだろうか。別にその弁護士は、法の網をかいくぐって悪事をはたらいたということではないはずである。それなりに法の秩序をまもっている。それは、古くさい地域の悪弊としか寅子には見えないかもしれないが、犯罪ではない。
この事件の最大の被害者は、川に突き落とされた寅子のはずなのだが、このことは処分の中にふくまれるのだろうか。このことについては、まったく言及がなかった。仲裁に入って巻き添えをくらった寅子が不運だったで済むことなのだろうか。このあたりの描き方も、どうも釈然としない。場合によっては、川に落ちたということをことをあらだてて事件にしないということで、高瀬書記官に貸しを作ったことにもなるのだが、そういうことにはなっていない。
自分の理想は違うものであっても、その地域の人びとの道徳、あるいは、地域の生活の習慣というものを尊重することも、裁判官にはもとめられることではないだろうか。山林の境界を双方納得できる結論にいたったことは、悪いことなのだろうか。だが、裁判となった場合には、公正に法律にもとづいて判断されなければならない。ここで生じる矛盾や葛藤こそ、寅子の成長に必要なものであろう。しかし、その肝心のところの、法律にもとづいた判断を避けているのが、このドラマの作り方でもある。
兄弟を戦争で亡くした高瀬書記官のこころの空白を法律はすくうことはできない。法律は道徳ではないからである。では、どうすべきなのか。その地域のなかで培われてきた伝統的な死生観のなかで時間をすごすしかないのかもしれない。あるいは、戦後になって出てきた新興宗教に身を委ねるか。そうでなければ、都会に出て孤独な個人として生きていくことになるのか。さてどうすべきか。このようなことを、寅子は考えてのことだったのだろうか。
寅子のことばによって高瀬書記官は、公務員としては正しく生きていくことができるだろう。だが、それは、人間として幸せに生きていくこととは、イコールではない。この機微が、このドラマからは伝わってこない。高瀬書記官は、これからこの地で幸せに生きていくことができるのだろうか。
地方はたしかに古くていやなところもある。だが、そのような生活のなかで、問題となった山林の自然も、人びとの生活も、伝統的な倫理観も、時間をかけて醸成され守られてきたということへの、リスペクトはあってしかるべきだと、私は思うのである。近代の行き過ぎを批判的に反省しなければならない今こそ、単純な過去の全否定という短絡的な発想から自由でありたい。三條の美しい自然は、そこに暮らしてきた人びとの生活とともにあったのである。
「ああいう人たち」という言い方からは、戦後民主主義も法の正義も感じることはできないのである。
2024年7月20日記
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