「東京メトロ 巨大地下鉄ネットワークを観察!」2024-08-01

2024年8月1日 當山日出夫

100カメ 東京メトロ 巨大地下鉄ネットワークを観察!

これは面白かった。

私は鉄道にはほとんど興味のない人間であるけれど、鉄道の運行の舞台裏はこんなふうになっているのか、興味津々である。

総合指令所の場所が秘密というのは、セキュリティのことを考えると、そうなのだろうと思う。しかし、よくカメラを設置したものだと思う。

見ていて思うのは、全体の列車の運行状況はデジタル表示で見ているが、各駅や部署間の連絡は電話である。また、紙のダイヤグラムを見ながら確認して指示を出している。いわゆるアナログな方法なのだが、より確実に安全に仕事を進めるためには、このような方法が意味のあることになるのだろう。また、安全確認のための身体性の重要性を認識することにもなった。しかし、それでもときとして事故は起こりうる。そのための備えと訓練も重要である。

このごろは、鉄道会社の相互の乗り入れが増えてきているので、異なる会社の間での連絡の取り方など、いろいろと工夫とか試行錯誤などあることだろうと思う。

東京の地下鉄というと、半世紀以上前に大学生になって東京に住み始めたとき、なんで地下鉄が、営団と都営と二つにわかれているのだろうと不思議に思ったのを記憶している。この二つは、今もわかれたままである。私の場合、どうしても、東京の地下鉄というと「営団」と言ってしまう。「東京メトロ」に名前がかわってかなりになるのだが、昔憶えた名称はなかなか変わることがない。(まあ、これは、世代によって、「やまのてせん」だったり「やまてせん」だったり、もっと古くは「しょうせん」だったりするのに似たことにはなるが。)

もう東京に行って地下鉄に乗ることもあまりないかと思うのだが、鉄道の安全運行のためには、このような人たちの働きがあってのことだということを、改めて認識することになる。これは、いい企画の番組だったと思う。

2024年7月31日記

「キャンベル“千の顔をもつ英雄” (4)帰還」2024-08-02

2024年8月2日 當山日出夫

100分de名著 キャンベル“千の顔をもつ英雄” (4)帰還

ありきたりのことかもしれないが、人間が生きていくためには物語が必要である。それは、歴史や文化、地域の共同体、さらには国家などにおいて共有できるものとして必要になる。それが失われる、継承できなくなるとき、その共同体は瓦解し、人間は絶望的な孤独感のなかにおかれることになる、といっていいだろうか。

国家や民族といった概念が否定されることの多い昨今ではあるが、さりとて、いきなり人間が地球市民になってお互いに共感し合えるはずもない。近年の事例でいえば、COVID-19パンデミックのときは、国家という枠組みのなかにいる人間を意識せざるをえなかったし、ウクライナやパレスチナの戦争を見ても、すぐに戦いをやめて仲よくなれるはずもない。もし地球で人間が住めなくなっても、それが神のおぼしめしならばそれでもよい。自分は天国にいくのだから、と考える人たちと、建設的な対話ができるとも思えない。(将来的にまったく不可能だとまでは思わないが。)

個人の人生においても、また、家族や地域社会においても、その存続のためには、なにがしかの物語がなければならないし、その物語には、世界中の人間に共通するなにかがある……つまりは、人間とはどういうものなのか、ということの問いかけにつながる。私の場合、このように理解して見ていたことになる。

さらに書いてみるならば、それぞれに物語があるゆえに対立や分断もおこる。ロシアにはロシアの、イスラエルにはイスラエルの物語がある。それは、歴史の時間の蓄積のなかで形成されてきたものであり、それはそれとして尊重されるべきものである。(だからといって、軍事力を行使してよいということにはつながらないけれど。)だが、すくなくとも人間とはそういうものだということを理解の根底におかないと、未来に向けての対話もなりたたない。(シオニストはこの世から滅ぼしてしまえばよいということではないし、それは出来ないことでもある。)

個人においては人生に意味をあたえ、民族においては歴史のコアになるもの、それが、ここでいう神話ということになるのだろう。

2024年7月30日記

「新・爆走風塵〜中国・トラックドライバー 生き残りを賭けて〜」2024-08-03

2024年8月3日 當山日出夫

「新・爆走風塵〜中国・トラックドライバー 生き残りを賭けて〜」

ラオスからチベットまで六日かけてバナナをトラックで運ぶというのが、近代的な生活であり経済ということなのだろうか。見終わって、ふと思わざるをえない。チベットでは、昔ながらの五体投地で巡礼する人のすがたもある。古代と現代が混在している。

中国の経済、特にその国内をささえるのは、トラック輸送であることは理解できる。どう考えても、鉄道では無理があるだろうし、無論、船は内陸奥地までは行けない。なるほど、これまでの中国の経済発展をささえてきたのは、このようなトラックによる流通があってのことなのかと、いろいろと興味深かった。しかし、それも、近年の中国経済の失速のあおりで、様々な困難があるらしい。

トラック輸送が個人もちのトラックに頼っているというのは、この番組で知った。日本なら、運送業者が引き受けるところである。しかも、その仕事は、今ではスマホで荷主と直接交渉になっている。これでは、デフレになったら、個人事業主ではひとたまりもない。

ラオスでバナナ農園を経営しているのは中国人。それを、中国国内まで運び、さらには、チベットまで運ぶ。その先の一帯一路の経済圏は、内陸のトラック輸送に依存することになる。

バナナ農園を探して行くときのシーン。日本なら、グーグルマップのデータを共有すればいいのかと思うが、それが出来ないらしい。トラックにもナビがついていないようである。これでよく仕事ができるのだろうかと、思ってしまう。(まあ、日本でも自動車にナビが標準でついていて、スマホで地図表示や案内が出来るようになったのは、近年になってからのことではあるが。)

おそらくは、この番組に出てきたような個人トラックが、調整弁となって経済の発展の浮き沈みをささえてきたのだろう。たぶん、これからもこの構造は変わらないかもしれない。今さら、大企業が運送業に手を出そうということはないだろう。

こんな広い中国とその周辺の地域で大量にトラックが走っていて、さて、カーボンニュートラルの議論は、どうなっているのだろう。

それにしても、道路網を整備し、また、それにともなってトラック輸送のためのガソリンスタンドとか、タイヤや自動車部品をあつかう商店や工場があることになる。このような全体的なインフラ整備を、中国はやってきたことになる。これはこれとして、すごいことかもしれないとは思う。

チベットまで行くとなると、当然ながらかなり高い標高になる。ラサで、三〇〇〇メートルを超える。富士山より高い。こんなところを走るトラックのエンジンはどうなっているのだろう。当然、酸素は少ないわけだからターボエンジンでないと難しいのかなと思うが、このあたりの技術的な説明はなかった。

寒くて凍ったエンジンをあためるのに、バーナーで火をあてるというのは、どう考えても乱暴というか、あきらかに危険である。タイヤもボロボロになるまで使っている。よくこんなトラックが走っているものかと感心するところもあった。途中で故障するぐらいならまだいい方で、下手をすると谷底に転落しかねない。実際、トラックの残骸が残っていた。

チベットについて、これが、現在の共産党政権になってから併合された経緯について触れてあったが、これは重要なことだろう。また、そのチベットを支配するために道路工事が必要であり、人民解放軍が多くの人的犠牲をはらって建設した、そう歴史があったことは、知っておくべきである。

登場していた中国人のトラックドライバーの二人。この友情といっていいのだろうか、関係も興味深い。受けた恩義はかならずかえさなければならない。ある意味では中国の人びとの強さ、したたかさの源泉はこのあたりにあるのかもしれない。

最後に、将来はパキスタンまで行くかもしれないと言っていた。一帯一路の行く先としては、中国のトラックが中央アジアや中近東あたりまで行くことになるということなのだろうか。(場所によっては船を使った方がいい。だからこそ、近年の海洋進出ということになるのかとも思うが。)

無論、物資輸送のトラックが走るということは、そのルートを軍事的にも使えるということに他ならない。こういう視点で見ておくことも重要だと思う。

2024年7月12日記

「奄美大島・加計呂麻島 200を超える戦争遺産が残る島」2024-08-03

2024年8月3日 當山日出夫

戦争遺産島 奄美大島・加計呂麻島 200を超える戦争遺産が残る島

奄美大島の震洋の部隊というと、私などはどうしても島尾敏雄を思ってしまうのであるが、この番組のなかではまったく言及がなかった。もう過去の人ということなのか、逆にあまりに有名だからあえてふれる必要がないと判断したのか。あるいは、島尾敏雄の作品のイメージで見ることを避けたのか。

ともあれ、奄美大島に数多くの戦争遺産が残っていることは、この番組で知った。

その多くはコンクリートで作られている。近代の各種の遺産、遺跡などコンクリート作りのものが多いのだが、その保存技術というのはどうなっているのだろうかということが気になる。そのまままでおいておけば自然に風化して崩壊してしまう。それでもいいということかもしれないが、しかるべく形を残す方策も必要だろう。

さて、現在では奄美大島は、日本の国防上の位置づけはどのようになるのか、このあたりのことも気にはなる。

2024年8月2日記

『虎に翼』「七人の子は生すとも女に心許すな?」2024-08-04

2024年8月4日 當山日出夫

『虎に翼』「七人の子は生すとも女に心許すな?」

あいかわらずこのドラマに対する世評は高いようなのだが、どこかピントがずれているという印象がある。ドラマとして何をどう描いているか、ということが本来なら考えるべきことだと思うが、どのようなネタを使っているかということだけが、ことさらに取りあげられ、その点だけで、大騒ぎしているとしか思えない。

いろいろと思うところはあるが、まずは裁判のことから。

寅子は三権分立の意味がわかっているのだろうか。以前、民法改正のときは、あたかも自分たちで新しい民法を作っているかのような姿勢であった。本来、法律を作るのは(立法)は国会の権限である。寅子たちのしたことは、法案の起草である。決して民法を法律として決めたのではない。

桂場は司法の独立ということを言っていた。司法に行政が介入してはいけない、という文脈においてであった。ここで三権分立を守るならば、司法が行政にかかわることもしてはならない。例えば、最近の事例であれば、旧優生保護法について違憲と判断するのは司法の仕事であるが、それにもとづいて、法律を改めたり作ったりして、それにもとづいて救済のための仕事をするのは、国会であり、また、行政の仕事である。

寅子の担当した裁判であるが、どう考えてみても、裁判所が事件の捜査にかかわろうとしているとしか思えない。警察、検察、それから、被告の弁護人、それぞれの役割があるが、少なくとも裁判官が事件の捜査にかかわることはあってはならないはずである。

事件については、いくつかの疑問点がある。このドラマのシナリオはかなりの無理があると思う。

被告が手紙を弟に出したということだが、裁判の途中である、警察に拘留されている状態で、何のチェックもなしに外部の人間と連絡がとれるということは、どうなのだろうか。まず、この点がひっかかる。

その手紙を裁判が始まってから、家宅捜査で見つけたというのも、どうもおかしい。家宅捜査するなら、逮捕したすぐでなければならないはずである。

その翻訳にミスがあったということになるのだが、誤訳である「なかをもやしてしまう」も、正しい訳である「気をもませる」も、前後の文脈から考えて不自然である。ここは、無理に、誤訳するために「燃やす」という意味の朝鮮語を使ってシナリオを書きたかったから、としか思えない。(このような無理をしなくても、当時の日本における朝鮮人のことを描くことはできたはずである。)

証拠の手紙を、寅子は、三條支部に持っていき、さらに自分の家に持って帰っている。コピーなどない時代であるから、実物を持って行ったことになる。

その証拠の手紙を、東京にいる汐見香子を呼び寄せて、寅子の家で見せている。どう考えても香子は裁判の部外者である。証拠の手紙を見せるなどあってはならないだろう。

その結果、手紙の日本語訳のミスと判断して、検察と弁護士に対して翻訳の再検討を依頼することになる。この経緯については、かなり異例というか、無理のある設定だったようである。

これはNHKの制作スタッフも認めている。

ステラNET
https://steranet.jp/articles/-/3402

かろうじて、どうにか違法にならないギリギリの設定としての脚本だったことが分かる。こんな無理をしてまで、手紙の一件を裁判のなかに描く必要があったのだろうか。また、香子に手紙を見せたことは、どう考えても裁判のルール違反だと思える。それに、もし、弁護側が新たに訳したものが、同じ誤訳をしてしまったらどうするつもりだったのか。それこそ冤罪となりかねない。このような危険や無理をしてまで、寅子が事件の捜査に介入する(そのギリギリの範囲内ということなのだろうが)ことは、非常に不自然で無理な脚本であると感じる。制作スタッフにこんな苦労をかける脚本家って、いったい何なんだろと思う。

強いて言うならば、裁判所でこんなことをすることが許されるなら、司法の信頼にかかわることである。たまたま寅子が裁判官だから許されるというようなことであってはならない。司法をドラマで描くということの意味が、このドラマの脚本はまったく分かっていない。

関東大震災のときの、朝鮮人の虐殺の事件をとりあげていた。日本における朝鮮人差別の事例としてであった。この事件については、特にとりあげるまでもなく、そのような事件があったということは常識の範囲のことだと思う。朝ドラに出てきたからといって、大騒ぎするするほどのことではないだろう、というのが私の思うところである。

もし、これを描くならば、寅子の子どもの時代のことからドラマを作るべきであった。寅子の年齢なら、関東大震災のことは体験的に記憶しているはずである。あるいは、東京での日常生活のなかに、朝鮮人差別のシーンを入れることがあってもよかった。寅子の家族や身の回りの人たちの日常のさりげない一言でいいのである。差別というのは、日常の生活のなかにあるのだということをこそ、描くべきである。ことさら、関東大震災が起こったから差別になったということではない。むしろ、人びとの日常の視点からこそ描かなければならない。寅子のこれまでの人生において、身の回りに差別の気持ちを持つ人が、まったくいなかったということは不自然である。朝ドラとしてチャレンジするなら、そこまでしないと意味がないだろう。せいぜい、明律大学の同級生の崔香淑のこととして、少し出てきただけである。

差別を描こうとするならば、事件としてではなく、日常として描かなければならない。おそらく、これが、現在の差別をめぐるいろんな議論のしめすところかと思う。

見方によっては、このドラマでは、田舎の人を見下している。近代的な法意識に乏しい田舎の人という価値観は、日本の習俗になじまない朝鮮からから人たち、に連続する。だが、これらの差別意識を自覚的にドラマで描いているとは思えない。脚本の本音が知らず知らずのうちに出てしまっているとしか感じられない。まさに、これこそが、差別なのである。(この意味では、このドラマは反面教師として見ることができる。)

事件としての関東大震災と朝鮮人虐殺はドキュメンタリーで描くことができる。しかし、人びとの日常生活の感覚なかにある差別はドラマでこそ描くべきことである。『虎に翼』は、このことが分かっていないか、あきらめたか、出来なかったのか、どうだろうか。

航一の気持ちも理解できない。

総力戦研究所のことは、私はたまたま知ってはいたが、あまり一般になじみのないことではあろう。しかし、その当時、アメリカと戦争して勝てると思っていなかったことについては、政府や軍の上層部においては常識的な判断であったということは、歴史の教えてくれるところでもある。航一たちだけが特権的に知っていたことではない。泥沼化する日中戦争、国際情勢のなかで、様々な判断が交錯するなかで、結果的に戦争につきすすまざるをえなかった。また、それを、適切な時期に終わらせることがが出来なかった。歴史から多くのことを学びうるのだが、総力戦研究所もその一コマである。

もし、航一が、その一員であったことに責任を感じていたとしても、それは、ドラマで描いたような「ごめんなさい」ということばで表すのが適当だろうか。私の感覚としては、戦争に敗れた日本の民主化のために、法律の場において尽力するということになるかもしれない。あるいは、官からしりぞいて、市井の一市民として静かに生きていくことになるだろうか。どうかんがえても、子どもを育てるために裁判官を続けるという判断は、理解できない。

そして、何よりも航一にもとめられるのは沈黙である。人が沈黙せざるを得ない、ということの意味をこのドラマはわかっているのだろうか。

航一の論理にしたがうならば、専門家がシミュレーションして、勝てる戦争だったらよかったのか、という疑問が残ることになる。つまり、航一のエピソードは、反戦のメッセージになっていないのである。

戦時中、寅子の猪爪の家では、火薬をあつかい軍需工場としてもうけていたはずなのだが、そのことについて、寅子は、まったく責任を感じている様子はない。まあ、ある意味では、このひらきなおり、無頓着さも、この時代を生きていくには必要なことだったかもしれないが。(さんざん人を批判するわりには、都合のいいときだけ無責任になるともとれるけれど。)

また、航一は、法律は裏切らないからという意味のことを言っていた。だが、このドラマでは、以前に多岐川が、法律なんてすぐに変わる、そんなもののために死んではいけない、という意味のことを語っていた。法律観は人それぞれにはちがいないが、いったいこのドラマは、法律というものをどのようなものとして描きたいのだろうか。そして、寅子の法律観は、どうなのだろうか。

前にも書いたことだが、このドラマでは、東京裁判のことに触れなかった。また、朝鮮戦争のこともまったく言及がない。新聞記事でもラジオも、何にもなかった。この時代、朝鮮戦争のことを抜きにして朝鮮人差別のことを描くのは無理があると思わざるをえない。

寅子は裁判官である。しかも、戦前に法曹の資格を得ている。その人間にとって、太平洋戦争の敗戦、GHQによる支配、民主化、東京裁判、日本の独立、これらはどう受けとめられていたのだろうか。ドラマで大きくあつかっていたのは、新しい憲法のことだけ……特にその14条だけ……だったといってよい。このような時代の流れのなかにあって、国家の連続性、一体性、そして、法律の安定的な継続性ということは、どのように意識されていたのだろうか。

憲法ががらりと変わってしまうような状況で、法律の安定性ということは、大きな課題だったと思うが、このことについて寅子が何か考えたような形跡はまったくなかった。あるいは、民主的な国家になって司法の役割とはと考えたこともない。逆に、三権分立を理解できているかどうかもあやしい。

他にも思うことはかなりあるが、とりあえずこれぐらいにしておきたい。

2024年8月3日記

『光る君へ』「つながる言の葉」2024-08-05

2024年8月5日 當山日出夫

『光る君へ』「つながる言の葉」

この週もいろいろとあった。

干魃である。ついこの前の放送では、大水だった。平安時代は、今でいう気候変動の災害が多かった時代である、ということは、すでに言われていることだと思うが、まさにこの時代の人びとは苦労したのだろう。(それが、古代から中世へという流れになっていくのかと思うが。)

さすが安倍晴明である。雨を降らした。安倍晴明が出てくる回は面白い。しかし、ここで安倍晴明もちからを使い果たしてしまったようである。道長からもらった寿命の一〇年は、どうなるのだろうか。また、道長は呪詛されていたが、どうなるだろうか。

『枕草子』が、この回からこの名前の作品として登場することになる。開いて読んでいた場面を見ると、「春はあけぼの」から始まる構成になっていた。執筆の順序はともかく、最終的に編集したものとしては、この章段から始まるテキストになったということなのだろう。

和泉式部が登場した。このドラマでは、名前はあかねである。おそらく日本の和歌の歴史において、最も情熱的で天才的な女性歌人の一人、と言っていいだろう。どのような人物として描くかは興味のあるところだが、こんな感じだったのかなと思う。着ていた袿(でいいのかな)が、スケスケだったが、「すずし」でよかったろうか。

『古今和歌集』の仮名序の冒頭が出てきていた。この部分はむかし学生に日本語の歴史を語るときに、かならず言及していた。歌というのはそういうものなのであるが、しかし、平安時代になると文字を読み書きできる人の詠んだ歌だけが残るようになる。書かれない歌は残らない。そういう時代でもある。文字と歌や文学を考えるときに、気をつけなければならないこととして、古今集仮名序のことについて話していた。ただ、「もののあはれ」と言っていたのは、どうだろうか。

まひろたち女房の荷物の持ち方が、まるで近代の女学生の荷物の持ち方である。どうしえも、『花子とアン』を思い出してしまう。

藤原公任が書いたのは、白楽天の『新楽府』から「七徳舞」であった。

道長や公任たちが会食するシーン。今回は野外であったが、だんだん食事が豪勢になってきている。

賢子にまひろが教えていたのは、「あめつち」だった。「いろは歌」の成立は、もうすこし先のことになるはずだから、「あめつち」でいいのかと思う。「なにわづ」でもよかったかもしれないが。

賢子が、紙を燃やすシーンは、昔、母親のまひろが道長からの手紙を燃やした場面を思い出させる。この母親と娘は、よくよく紙を燃やすのが好きとみえる。

さて、次週はオリンピックのためにお休み。予告では、次の回で「いづれの御時にか」と言っていたが、さてどのようになるだろうか。

2024年8月4日記

「パラレル・アメリカ 〜銃撃事件の衝撃 分断のゆくえは〜」2024-08-06

2024年8月6日 當山日出夫

NHKスペシャル
混迷の世紀 第14回 パラレル・アメリカ 〜銃撃事件の衝撃 分断のゆくえは〜

すこし前の放送になるが、録画してあったのを見た。その間にあったこととしては、民主党の候補にハリス副大統領できまりとなったことがある。しかし、だからといって、世論調査の支持率が大きく変動するということにはなっていない。拮抗している状態は変わらない。

見ていて印象に残ることはいくつかある。

共和党のトランプ支持者の活動。特段のことをしているということはない。むしろ、伝統的な民主主義の手法にしたがって、地道に活動している。集会をひらき、人と話し、意見を交換する。すくなくとも、民主主義のルールを守っているという点では、問題ない。いや、きわめてまっとうな民主主義者であるといえるだろう。

ただ、トランプ支持者のイメージを悪くする要因になったのは、前回の大統領選挙の後の、議会乱入事件がある。これは、一部の過激な支持者の行動ということで、全体の世論の動向に大きな影響を与えるものではないだろう。

社会の分断が進むなかで、経済活動にまでおよんでいる。日本でも社会の分断ということは言われるが、このような事態にまではいたっていない。

自由を尊ぶアメリカ社会において、禁書ということが行われているのは、どうかなと思うところがある。そういえば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も禁書であるのだが。今では、そう厳しく制限されるという本ではなくなっているのかとも思うが。

労働者層の味方というスタンスが、かつての民主党と共和党とで、逆転していること。これは、あまり日本では報じられていないところかと思う。そういえば、かつての日本では、社会党が主に都市部の労働者層を基盤としていた(だろうと思うが)、その立場を、今の日本の野党は受け継ぐことができていない。

異なる意見の人との対話の重視、これはそのとおりなのであるが、SNSのなかではこれは難しくなってきている。この意味では、番組の冒頭で登場していた、トランプ支持の若者たちが、地道に街を回っていたシーンが印象に残る。

多様性は尊重されるべきだが、その価値観を押しつけることがあってはならない。いや、異なる意見の持ち主にとってそれが押しつけられているという感覚をいだかせるようなことはすべきではない、ということはいえるだろうか。

ことばの本来の意味での「保守」ということが顧みられるべきかと、私は思う。人間の価値観は、歴史的、文化的な時間の積み重ねのなかで形成されるものである。分断の解消は容易ではないかもしれないが、これからの時間の積み重ねのなかで対話を重ねて徐々に変化していくことに期待するしかないのかもしれない。

2024年8月1日記

ETV特集「戦艦大和 封印された写真」2024-08-07

2024年8月7日 當山日出夫

ETV特集 戦艦大和 封印された写真

私は昭和三〇年(一九五五)の生まれであるので、小学生のころ、漫画雑誌で戦艦大和や零戦のことが、大きく取りあげられていた時代を過ごしている。昭和四〇年ごろまでは、まだ戦時中の人びとの記憶の延長にあった時代といっていいだろう。

吉田満の『戦艦大和の最期』を読んだのは大学生になってからだった。そのころ角川文庫版が普通に読める本としてあった。だが、これは、GHQに配慮して訂正を加えたものだったはずである。それを、オリジナルの形で刊行したのが、北洋社版である。この出版社は、今はもうない。北洋社版の『戦艦大和の最期』を読んで、外に出た。大学生で目黒に下宿していた。目黒通りを歩いて目黒川を渡るとき、空の夕焼けがきれいだったのを、いまだに憶えている。私がこれまで見たなかで、もっとも印象に残る夕焼け空であるかもしれない。

その後、戦艦大和関連のものを読むことがあった。吉田満のように考える人は、その当時にあっても例外というべきものだったということも、思うようになった。これは、やはり同じ海軍で大和に乗っていたとしても、その立場、出身などの違いによるものではあろう。東大を出て主計少尉であった吉田満と、この番組に出てきた烹炊所の兵士とでは、おのずと考え方も違うにちがいない。

戦争を語るとき、必要なのは、冷静さであると、私は思う。この番組で印象に残るのは、大和ホテルと当時いわれた戦艦大和の居住環境の良さについての証言である。えてして、戦争を語るとき、その悲惨な面を強調しがちであるが、実際にその時代に生きていた人びとは、境遇にもよるが、それぞれになにがしかの充足感を持って暮らしていたと考えてもさしつかえないだろう。無論、悲惨な生活であった人もいたことは否定しないけれど。

番組で取りあげられていた写真は、封印されていた。これは、特に当時の軍や政府から強制されたということではない。写真に写っていた人物自らの判断で、封印したことになる。考えてみるべきは、このことの意味であろう。人間は、ときとして沈黙せざるをえないときがある。沈黙の意味にわけいるのも、ジャーナリズムの仕事である。だが、これは、過去を断罪し罪をあばきたてるものであってはならない。

ところで、昔読んだ『海軍めしたき物語』(高橋孟)のことを思い出した。昔の海軍は、ずいぶんと乱暴なこともやっていた、官僚主義、権威主義の横暴な組織であったという一面が綴られている。調べてみると、今では絶版である。この本など、新しくして復刊してもいいのではと思う。

2024年8月5日記

「森の中の敵 ウクライナ 前線兵士の7週間」2024-08-08

2024年8月8日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「森の中の敵 ウクライナ 前線兵士の7週間」

二〇二四年、イギリスの制作。

こういう番組を見られるというのは、はたして幸せなことなのだろうか、と見ながら思った。

ウクライナの鉄道守備のための舞台に密着したものである。戦闘場面がリアルに描写されている。(ただ、さすがに、敵のロシア兵を撃ち殺すときのリアルな映像はカットしたようだったが。)

思うことはいくつかある。

戦争、あるいは、個々の戦闘というものは、悲惨なものである。これは、いくら強調してもいいだろう。だが、そのなかで、人間は戦意の高揚ということを必要とする。自分自身をふるいたたせるために、といっていいだろうか、敵への憎しみをかくさない。また、戦果をよろこぶ気持ちもある。戦場における人間の心理というものは、こういうものなのだろうと思うしかない。

森の中で、目の前に敵兵がいるなら、それに向けて自動小銃を撃つ。敵を殺す。これが戦場における日常の人間の行動である。人間とは、あるいは、兵士とは、こういうものなのである。(しかし、これはゲームではない。)

戦闘に出かける前に、神にいのる。そうしなければ、気持ちが持たないのだろう。

現代の戦争という点から見るならば、ドローンの利用が大きく変えたということになる。ドローンをどのように戦術的に使っていくか、そして、どのような作戦をたてるか、軍事的に重要な意味を持つことになる。

戦場とは何か、さまざまに考えるところのある番組だった。反戦平和をとなえるだけでは伝わらない、本当の意味での戦争のリアルというものに触れるところのある番組であったと思う。

2024年8月7日記

ウチのどうぶつえん「南極、ねずみ、レッサーパンダ!」2024-08-09

2024年8月9日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん 南極、ねずみ、レッサーパンダ!

NHKの動物番組のなかでは、私はこれが最も好きである。そんなに大規模にコストをかけて作っているというのではないが、動物をみるまなざしに愛情を感じる。

南極の魚の調査が、あまりやられてこなかったというのは、う~ん、そういうものなのかと思って見ていた。南極の氷の海のなかにはどんな生きものがいるのか、とにかく知的好奇心として興味がある。(TV大阪で放送した「しらせ」の航海記は録画してあるのだが、まだ見ていない。)

齧歯類を多く集めて展示している動物園も面白い。自然の状態に近いように、部屋のなかに樹木を組み立てていく様子は、なるほど、そういう工夫をしているのかと思う。ハダカデバネズミが蜜蜂のような階級社会である(らしい)というのも、興味深い。これは、生物学としてはどのように研究されていることなのだろうか。なかには働かないのもいるだろうか。

レッサーパンダも竹のえり好みがあるという。いったいどういう気分で食べる竹を選んでいるのだろうか。竹しか食べないのに、どうしてあんなに大きく成長したのだろうか。それもあるが、残した竹を他の動物たちが食べているというのも、なんだかいい。竹林の維持管理は、おおきな問題でもある。(我が家の周囲にも竹林はあるのだが、その管理にとても手がまわらないのが実情でもある。)

2024年7月30日記