「キャンベル“千の顔をもつ英雄” (4)帰還」2024-08-02

2024年8月2日 當山日出夫

100分de名著 キャンベル“千の顔をもつ英雄” (4)帰還

ありきたりのことかもしれないが、人間が生きていくためには物語が必要である。それは、歴史や文化、地域の共同体、さらには国家などにおいて共有できるものとして必要になる。それが失われる、継承できなくなるとき、その共同体は瓦解し、人間は絶望的な孤独感のなかにおかれることになる、といっていいだろうか。

国家や民族といった概念が否定されることの多い昨今ではあるが、さりとて、いきなり人間が地球市民になってお互いに共感し合えるはずもない。近年の事例でいえば、COVID-19パンデミックのときは、国家という枠組みのなかにいる人間を意識せざるをえなかったし、ウクライナやパレスチナの戦争を見ても、すぐに戦いをやめて仲よくなれるはずもない。もし地球で人間が住めなくなっても、それが神のおぼしめしならばそれでもよい。自分は天国にいくのだから、と考える人たちと、建設的な対話ができるとも思えない。(将来的にまったく不可能だとまでは思わないが。)

個人の人生においても、また、家族や地域社会においても、その存続のためには、なにがしかの物語がなければならないし、その物語には、世界中の人間に共通するなにかがある……つまりは、人間とはどういうものなのか、ということの問いかけにつながる。私の場合、このように理解して見ていたことになる。

さらに書いてみるならば、それぞれに物語があるゆえに対立や分断もおこる。ロシアにはロシアの、イスラエルにはイスラエルの物語がある。それは、歴史の時間の蓄積のなかで形成されてきたものであり、それはそれとして尊重されるべきものである。(だからといって、軍事力を行使してよいということにはつながらないけれど。)だが、すくなくとも人間とはそういうものだということを理解の根底におかないと、未来に向けての対話もなりたたない。(シオニストはこの世から滅ぼしてしまえばよいということではないし、それは出来ないことでもある。)

個人においては人生に意味をあたえ、民族においては歴史のコアになるもの、それが、ここでいう神話ということになるのだろう。

2024年7月30日記