『虎に翼』「七人の子は生すとも女に心許すな?」2024-08-04

2024年8月4日 當山日出夫

『虎に翼』「七人の子は生すとも女に心許すな?」

あいかわらずこのドラマに対する世評は高いようなのだが、どこかピントがずれているという印象がある。ドラマとして何をどう描いているか、ということが本来なら考えるべきことだと思うが、どのようなネタを使っているかということだけが、ことさらに取りあげられ、その点だけで、大騒ぎしているとしか思えない。

いろいろと思うところはあるが、まずは裁判のことから。

寅子は三権分立の意味がわかっているのだろうか。以前、民法改正のときは、あたかも自分たちで新しい民法を作っているかのような姿勢であった。本来、法律を作るのは(立法)は国会の権限である。寅子たちのしたことは、法案の起草である。決して民法を法律として決めたのではない。

桂場は司法の独立ということを言っていた。司法に行政が介入してはいけない、という文脈においてであった。ここで三権分立を守るならば、司法が行政にかかわることもしてはならない。例えば、最近の事例であれば、旧優生保護法について違憲と判断するのは司法の仕事であるが、それにもとづいて、法律を改めたり作ったりして、それにもとづいて救済のための仕事をするのは、国会であり、また、行政の仕事である。

寅子の担当した裁判であるが、どう考えてみても、裁判所が事件の捜査にかかわろうとしているとしか思えない。警察、検察、それから、被告の弁護人、それぞれの役割があるが、少なくとも裁判官が事件の捜査にかかわることはあってはならないはずである。

事件については、いくつかの疑問点がある。このドラマのシナリオはかなりの無理があると思う。

被告が手紙を弟に出したということだが、裁判の途中である、警察に拘留されている状態で、何のチェックもなしに外部の人間と連絡がとれるということは、どうなのだろうか。まず、この点がひっかかる。

その手紙を裁判が始まってから、家宅捜査で見つけたというのも、どうもおかしい。家宅捜査するなら、逮捕したすぐでなければならないはずである。

その翻訳にミスがあったということになるのだが、誤訳である「なかをもやしてしまう」も、正しい訳である「気をもませる」も、前後の文脈から考えて不自然である。ここは、無理に、誤訳するために「燃やす」という意味の朝鮮語を使ってシナリオを書きたかったから、としか思えない。(このような無理をしなくても、当時の日本における朝鮮人のことを描くことはできたはずである。)

証拠の手紙を、寅子は、三條支部に持っていき、さらに自分の家に持って帰っている。コピーなどない時代であるから、実物を持って行ったことになる。

その証拠の手紙を、東京にいる汐見香子を呼び寄せて、寅子の家で見せている。どう考えても香子は裁判の部外者である。証拠の手紙を見せるなどあってはならないだろう。

その結果、手紙の日本語訳のミスと判断して、検察と弁護士に対して翻訳の再検討を依頼することになる。この経緯については、かなり異例というか、無理のある設定だったようである。

これはNHKの制作スタッフも認めている。

ステラNET
https://steranet.jp/articles/-/3402

かろうじて、どうにか違法にならないギリギリの設定としての脚本だったことが分かる。こんな無理をしてまで、手紙の一件を裁判のなかに描く必要があったのだろうか。また、香子に手紙を見せたことは、どう考えても裁判のルール違反だと思える。それに、もし、弁護側が新たに訳したものが、同じ誤訳をしてしまったらどうするつもりだったのか。それこそ冤罪となりかねない。このような危険や無理をしてまで、寅子が事件の捜査に介入する(そのギリギリの範囲内ということなのだろうが)ことは、非常に不自然で無理な脚本であると感じる。制作スタッフにこんな苦労をかける脚本家って、いったい何なんだろと思う。

強いて言うならば、裁判所でこんなことをすることが許されるなら、司法の信頼にかかわることである。たまたま寅子が裁判官だから許されるというようなことであってはならない。司法をドラマで描くということの意味が、このドラマの脚本はまったく分かっていない。

関東大震災のときの、朝鮮人の虐殺の事件をとりあげていた。日本における朝鮮人差別の事例としてであった。この事件については、特にとりあげるまでもなく、そのような事件があったということは常識の範囲のことだと思う。朝ドラに出てきたからといって、大騒ぎするするほどのことではないだろう、というのが私の思うところである。

もし、これを描くならば、寅子の子どもの時代のことからドラマを作るべきであった。寅子の年齢なら、関東大震災のことは体験的に記憶しているはずである。あるいは、東京での日常生活のなかに、朝鮮人差別のシーンを入れることがあってもよかった。寅子の家族や身の回りの人たちの日常のさりげない一言でいいのである。差別というのは、日常の生活のなかにあるのだということをこそ、描くべきである。ことさら、関東大震災が起こったから差別になったということではない。むしろ、人びとの日常の視点からこそ描かなければならない。寅子のこれまでの人生において、身の回りに差別の気持ちを持つ人が、まったくいなかったということは不自然である。朝ドラとしてチャレンジするなら、そこまでしないと意味がないだろう。せいぜい、明律大学の同級生の崔香淑のこととして、少し出てきただけである。

差別を描こうとするならば、事件としてではなく、日常として描かなければならない。おそらく、これが、現在の差別をめぐるいろんな議論のしめすところかと思う。

見方によっては、このドラマでは、田舎の人を見下している。近代的な法意識に乏しい田舎の人という価値観は、日本の習俗になじまない朝鮮からから人たち、に連続する。だが、これらの差別意識を自覚的にドラマで描いているとは思えない。脚本の本音が知らず知らずのうちに出てしまっているとしか感じられない。まさに、これこそが、差別なのである。(この意味では、このドラマは反面教師として見ることができる。)

事件としての関東大震災と朝鮮人虐殺はドキュメンタリーで描くことができる。しかし、人びとの日常生活の感覚なかにある差別はドラマでこそ描くべきことである。『虎に翼』は、このことが分かっていないか、あきらめたか、出来なかったのか、どうだろうか。

航一の気持ちも理解できない。

総力戦研究所のことは、私はたまたま知ってはいたが、あまり一般になじみのないことではあろう。しかし、その当時、アメリカと戦争して勝てると思っていなかったことについては、政府や軍の上層部においては常識的な判断であったということは、歴史の教えてくれるところでもある。航一たちだけが特権的に知っていたことではない。泥沼化する日中戦争、国際情勢のなかで、様々な判断が交錯するなかで、結果的に戦争につきすすまざるをえなかった。また、それを、適切な時期に終わらせることがが出来なかった。歴史から多くのことを学びうるのだが、総力戦研究所もその一コマである。

もし、航一が、その一員であったことに責任を感じていたとしても、それは、ドラマで描いたような「ごめんなさい」ということばで表すのが適当だろうか。私の感覚としては、戦争に敗れた日本の民主化のために、法律の場において尽力するということになるかもしれない。あるいは、官からしりぞいて、市井の一市民として静かに生きていくことになるだろうか。どうかんがえても、子どもを育てるために裁判官を続けるという判断は、理解できない。

そして、何よりも航一にもとめられるのは沈黙である。人が沈黙せざるを得ない、ということの意味をこのドラマはわかっているのだろうか。

航一の論理にしたがうならば、専門家がシミュレーションして、勝てる戦争だったらよかったのか、という疑問が残ることになる。つまり、航一のエピソードは、反戦のメッセージになっていないのである。

戦時中、寅子の猪爪の家では、火薬をあつかい軍需工場としてもうけていたはずなのだが、そのことについて、寅子は、まったく責任を感じている様子はない。まあ、ある意味では、このひらきなおり、無頓着さも、この時代を生きていくには必要なことだったかもしれないが。(さんざん人を批判するわりには、都合のいいときだけ無責任になるともとれるけれど。)

また、航一は、法律は裏切らないからという意味のことを言っていた。だが、このドラマでは、以前に多岐川が、法律なんてすぐに変わる、そんなもののために死んではいけない、という意味のことを語っていた。法律観は人それぞれにはちがいないが、いったいこのドラマは、法律というものをどのようなものとして描きたいのだろうか。そして、寅子の法律観は、どうなのだろうか。

前にも書いたことだが、このドラマでは、東京裁判のことに触れなかった。また、朝鮮戦争のこともまったく言及がない。新聞記事でもラジオも、何にもなかった。この時代、朝鮮戦争のことを抜きにして朝鮮人差別のことを描くのは無理があると思わざるをえない。

寅子は裁判官である。しかも、戦前に法曹の資格を得ている。その人間にとって、太平洋戦争の敗戦、GHQによる支配、民主化、東京裁判、日本の独立、これらはどう受けとめられていたのだろうか。ドラマで大きくあつかっていたのは、新しい憲法のことだけ……特にその14条だけ……だったといってよい。このような時代の流れのなかにあって、国家の連続性、一体性、そして、法律の安定的な継続性ということは、どのように意識されていたのだろうか。

憲法ががらりと変わってしまうような状況で、法律の安定性ということは、大きな課題だったと思うが、このことについて寅子が何か考えたような形跡はまったくなかった。あるいは、民主的な国家になって司法の役割とはと考えたこともない。逆に、三権分立を理解できているかどうかもあやしい。

他にも思うことはかなりあるが、とりあえずこれぐらいにしておきたい。

2024年8月3日記

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706654/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。