100分de名著『源氏物語』2024-09-05

2024年9月5日 當山日出夫

100分de名著 『源氏物語』

今年の春ごろに放送だったのを録画して、おいてあった。『光る君へ』では、『源氏物語』を書き始めたところだし、「100分de名著」では、ウェーリー版の『源氏物語』になるし、というようなことで、録画を見ておくことにした。

二〇一二年の放送である。今から一二年前ということになる。おそらく、現代の視点で『源氏物語』を一般に語るとすれば、おおむね妥当な内容だったかなと思う。桐壺の更衣のこと、光源氏の出生のときのことからはじまって、葵上や六条の御息所、明石の君、そして、紫上という女性たちのこと、女三宮のこと、さらに宇治十帖になって、薫や匂宮のこと、大君や浮舟のこと……などなど、ざっと『源氏物語』の全体をたどってあった。

『源氏物語』の成立については、夫の宣孝の死後、物語を書き始めてそれが話題になり、やがて道長の目にとまって彰子のもとに女房として出仕することになった、ということであった。これは、『光る君へ』の設定とは違っている。このあたりのこおとは、よく分からないことなので、想像するしかないことだと思うが。

林望が出てきていた。慶應の国文で、私より数年の先輩になる。(個人的には、もし林望が書誌学者として仕事をしていれば、日本の古典文学研究が少しは変わったものになったかもしれないと思うところがある。)番組のなかで、落葉宮のことについて言っていたが、たしかにそうである。ああでもない、こうでもない、やっぱりああしようか、それともこうするべきなのだろうか……延々と、こころのなかの描写がある。『源氏物語』は、登場人物のこころのなかを細かに描いているが、特に「若菜」が終わってからの巻になると、ある意味ではこれが非常にくどくなる。このあたりは、作者(紫式部)が、登場人物のこころのなかのことを描くことの面白さに気づいた、と理解するべきなのかもしれない。そして、この意味では、物語の最後のヒロインである浮舟の生き方、決意、というところにつながっていくのだろう。

人間のこころのなかを描くことに成功した文学であるからこそ、『源氏物語』は今にいたるまで古典として読み継がれてきている、と考えるべきだろう。これを「もののあはれ」と表現したのは、宣長ということになる。

2024年9月3日記

「ゲッベルス 狂気と熱狂の扇動者」2024-09-05

2024年9月5日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ゲッベルス 狂気と熱狂の扇動者

現代社会では(少なくとも日本では)「プロパガンダ」ということばは悪いイメージのことばになっている。おそらく、この悪いイメージからなるべく離れて距離を置いて、歴史や社会、その中に生きる人間というものを考えてみる必要がある。そして、そのうえで、プロパガンダの手法についての冷静な分析が重要だろう。人間とメディアの関係を、歴史としてふりかえる必要がある。

番組の冒頭で言っていたこと、プロパガンダはそれをプロパガンダと気づかせないようにしなければならない……これは至言であると思う。この意味では、これは左翼の(あるいは右翼でもいいが)のプロパガンダだと、言い合っているうちは、まだしも平穏無事ということになるかもしれない。

ヒトラーの手法については、メディア史の方面から膨大な研究があるはずで、その一部は、今では手軽に読めるものとして本になっているかと思う。

ゲッベルスの事跡を研究すること、プロパガンダの歴史を明らかにすることは、視点をかえると、それにだまされた無辜のドイツ市民という構図になる。やはり、ここでは、だまされたとしても、だまされた側に責任はないのか、という論点を設定して考えてみることは意味があると、私は考える。ただプロパガンダがたくみであった、市民はバカであった、という図式で歴史を描くことは、無理がある。

ドイツの場合は、ナチの思想が明確であり(その是非は別にして)、それを普及するためのプロパガンダについても、ゲッベルスは自覚的であったというべきだろう。それを、同じように日本にもあてはめて考えることができるかどうかは、また異なるかと思う。

同じことは、昭和戦前の日本についてもいえることである……と一般に言われる。軍部が悪い、政治家が悪い、ジャーナリズムも悪い、日本国民はだまされていたのである、という歴史観……これが今にいたるまで昭和史を語る常道になっているが……これは、司馬遼太郎の語ったことにも通じることである……統帥権という魔物ということになる……から、距離を置いて考えることも必要であると私は思うのである。ドイツのように明確な思想と、プロパガンダについての自覚が、政府や軍部にあったかどうかは、議論の余地があるだろう。そうはいっても、確かに昭和戦前の時期は、かなり言論が制限された時代であった。日本の言論、表現、思想の歴史については、日本なりの事情があったことになる。

ゲッベルスがやったように日本国民はだまされていた、ということではなく、日本における言論の歴史は、別に考えなければならないことだと思う。それを「空気」といっていいかどうかは分からないが、一つの見方であるとは思う。少なくとも、日本の場合、プロパガンダが悪いといって説明できることではなかっただろうと思っている。

2024年9月4日記