「渋谷に、核が落ちたら。」 ― 2024-10-10
2024年10月10日 當山日出夫
ドキュメント20min. 渋谷に、核が落ちたら。
渋谷に核がが落ちたらのARは、TVニュースでもとりあげれていたので記憶している。そのニュースを見たときの感想としては、あまり意味がないなあ、と思ったのが正直なところである。
今のコンピュータ技術で作るなら、少なくとも、核が落ちたその後のことのシミュレーションでなければならないだろう。そして、それは、さほど難しいことではないかもしれない。今見えているビルが崩壊し、地面に横たわる無数の死体、をまずイメージすることになる。また、これは、東京の都市の機能の麻痺であり、日本全体の生活が破壊されることになる。無論、時間がたっても、放射能の影響は残る。さらには、東アジアを始めとして国際情勢の不安定化を招き、世界レベルでの危機になる。ちょっと考えてみただけでも、これぐらいは容易に想像できる。
核兵器廃絶をうったえるために、それが使用された場合の悲惨さを強調することは、確かに、そのような方法が有効であるとしても、同時にジレンマも含む。そのように強力な兵器であるならば、自分の国でも所有したい、それを持つことで、自国の権威と影響力をたかめたいと思うことにつながる。だからこそ、今の世界で、核兵器を開発している国があり、その国の独裁者がいることになる。
現実的に可能なのは、今ある核兵器をどうコントロールするか、可能ならどう削減するか、その使用についてのハードルをどう高めるか、というあたりのことである。
渋谷に核が落ちたらのARが全くの無意味だとは思わないが、そこから実際に人びとが何を考えることになるか、また、上述したジレンマをどうすれば乗り越えられるか、というあたり、さらに踏み込んでいく必要がある。それはたやすいことではないだろうが。
余計なことかもしれないが、もし渋谷に核が落とされることがあるとしたら、それはどこの仕業だろうか。北朝鮮か、中国か、ロシアか、あるいは、アメリカか、こういうことは考えなくてもいいことなのだろうか。
2024年10月8日記
ドキュメント20min. 渋谷に、核が落ちたら。
渋谷に核がが落ちたらのARは、TVニュースでもとりあげれていたので記憶している。そのニュースを見たときの感想としては、あまり意味がないなあ、と思ったのが正直なところである。
今のコンピュータ技術で作るなら、少なくとも、核が落ちたその後のことのシミュレーションでなければならないだろう。そして、それは、さほど難しいことではないかもしれない。今見えているビルが崩壊し、地面に横たわる無数の死体、をまずイメージすることになる。また、これは、東京の都市の機能の麻痺であり、日本全体の生活が破壊されることになる。無論、時間がたっても、放射能の影響は残る。さらには、東アジアを始めとして国際情勢の不安定化を招き、世界レベルでの危機になる。ちょっと考えてみただけでも、これぐらいは容易に想像できる。
核兵器廃絶をうったえるために、それが使用された場合の悲惨さを強調することは、確かに、そのような方法が有効であるとしても、同時にジレンマも含む。そのように強力な兵器であるならば、自分の国でも所有したい、それを持つことで、自国の権威と影響力をたかめたいと思うことにつながる。だからこそ、今の世界で、核兵器を開発している国があり、その国の独裁者がいることになる。
現実的に可能なのは、今ある核兵器をどうコントロールするか、可能ならどう削減するか、その使用についてのハードルをどう高めるか、というあたりのことである。
渋谷に核が落ちたらのARが全くの無意味だとは思わないが、そこから実際に人びとが何を考えることになるか、また、上述したジレンマをどうすれば乗り越えられるか、というあたり、さらに踏み込んでいく必要がある。それはたやすいことではないだろうが。
余計なことかもしれないが、もし渋谷に核が落とされることがあるとしたら、それはどこの仕業だろうか。北朝鮮か、中国か、ロシアか、あるいは、アメリカか、こういうことは考えなくてもいいことなのだろうか。
2024年10月8日記
「映像詩 里山 命めぐる水辺」 ― 2024-10-10
2024年10月10日 當山日出夫
時をかけるテレビ 映像詩 里山 命めぐる水辺
素朴な感想として、こういう生活、地域のあり方は、残していきたいものであると強く思う。特に里山の自然環境というのは、人間の生活とともにあるものである。そこに住む人びとの生活のスタイルが変われば、自然もまた変わっていかざるをえないだろう。
いろんなことを思うが、まず、映像としていい。カエルと花火、鯉の産卵、川端のヨシノボリ、など、よくこんな映像がとれたなと感じるものが多い。
制作のスタッフのなかに、今森光彦の名前があった。日本の里山の風景を写し続けている第一人者である。何気ない、日本のなかの普通の人びとの暮らしの中にある、自然とのかかわりは、それと気づかなければ見逃してしまう。そこには、地道な観察力が必要である。
ナレーションは山根基世。山根基世もまた、ドキュメンタリー番組などにおけるナレーションのあり方について、一つのスタイルを作り出した一人といっていいのかと思う。親しみのある落ち着いた言い方なのだが、しかし、毅然としたところがある。
最近のニュースで、スズメが絶滅危惧という。日本の里山の暮らしも、いよいよ転換点にきているというべきだろうか。
2024年10月9日記
時をかけるテレビ 映像詩 里山 命めぐる水辺
素朴な感想として、こういう生活、地域のあり方は、残していきたいものであると強く思う。特に里山の自然環境というのは、人間の生活とともにあるものである。そこに住む人びとの生活のスタイルが変われば、自然もまた変わっていかざるをえないだろう。
いろんなことを思うが、まず、映像としていい。カエルと花火、鯉の産卵、川端のヨシノボリ、など、よくこんな映像がとれたなと感じるものが多い。
制作のスタッフのなかに、今森光彦の名前があった。日本の里山の風景を写し続けている第一人者である。何気ない、日本のなかの普通の人びとの暮らしの中にある、自然とのかかわりは、それと気づかなければ見逃してしまう。そこには、地道な観察力が必要である。
ナレーションは山根基世。山根基世もまた、ドキュメンタリー番組などにおけるナレーションのあり方について、一つのスタイルを作り出した一人といっていいのかと思う。親しみのある落ち着いた言い方なのだが、しかし、毅然としたところがある。
最近のニュースで、スズメが絶滅危惧という。日本の里山の暮らしも、いよいよ転換点にきているというべきだろうか。
2024年10月9日記
「ロフティング“ドリトル先生航海記” (1)ドリトル先生の「フェアネス」」 ― 2024-10-10
2024年10月10日 當山日出夫
100分de名著 ロフティング“ドリトル先生航海記” (1)ドリトル先生の「フェアネス」
『ドリトル先生航海記』は、子どものときに読んだ記憶がある。だが、はっきりいってその内容は憶えていない。
見ながら思ったことを書いてみる。
伊集院光が、『人間失格』を読んだときのことを言っていた。この作品は、読む人を選ぶ。まあ、私は、その範疇に入らなかったのだが。ここで、福岡伸一が、「普遍性」と「個別性」ということを言っていた。これはそのとおりである。人文学にかかわる分野でも、一般的に語るべきことと、個別の事例……作品とか事件とか事例とか……について語ることがある。両方にまたがった視点をもつ必要がある。
猫肉屋と出てきたのだが、(本を読んで確認すべきことかと思うが)この時代の英国では、猫の肉を食べたのだろうか。
フェアネスが、この作品を読み解くキーワードであると言っていた。対等の関係で見る、あつかう、ということといえるだろうか。ドリトル先生は、スタビンズ少年を対等にあつかっている。(番組のなかでは言っていなかったが、この時代は、たぶん『マイ・フェア・レディ』の時代になるだろう。階級社会というものが、いやおうなくあった時代ということになる。)
さかなクンの名前が出てきていた。海の生きものについて詳しい、と同時に、お魚を食べることも上手である。ドリトル先生は、博物学者として生きものについて詳しいが、同時に、ソーセージも食べる。決してベジタリアンというわけではない。
スタビンズ君は、読み書きができない。この時代の階級としては、そうなのだろう。まさに『マイ・フェア・レディ』の時代である。
ダーウィンの名前が出てきていたが、ダーウィンはその時代にどのように評価されていたのだろうか。これは、近代における生物学史として多くの研究書や入門書などがある。
注意深い観察者、a good noticer、と言っていた。これは、生物学のみならず、人文学の分野においても重要なことである。ことばの研究においても、まさに、観察力が必要である。現代語についても、古典語についても、ことばについての観察力がまず問われることになる。(無論、その後の調査や考察ということも大切であるが。)
ドリトル先生は、博物学者として登場している。この時代だと、まだ学問の世界が今日のように細分化していない、また、現在の日本のように理系、文系と分けられるような時代ではなかった。まず、幅広く身の周りのもの……自然であれ、社会であれ、芸術であれ……についての、細かな観察力必要であることになる。それを基盤として、ナチュラリストが生まれることになる。(これは私見であるが、おそらく真の意味のナチュラリストには、人文学的基礎教養が必須であると思っている。)
斜めの関係の大人は重要である。福岡伸一が昆虫少年だったとき、虫を持って国立科学博物館に行った話しは、いい話しである。そして、この時の福岡伸一少年はとても幸運であったことになる。
ところで、ドリトル先生は、動物のことばが分かる。動物の言語は、今まさに研究が始まったばかりの分野である。代表的な研究は、シジュウカラのことばについてということになるだろうが、さてこの番組はどう展開していくことになるだろうか。
2024年10月8日記
100分de名著 ロフティング“ドリトル先生航海記” (1)ドリトル先生の「フェアネス」
『ドリトル先生航海記』は、子どものときに読んだ記憶がある。だが、はっきりいってその内容は憶えていない。
見ながら思ったことを書いてみる。
伊集院光が、『人間失格』を読んだときのことを言っていた。この作品は、読む人を選ぶ。まあ、私は、その範疇に入らなかったのだが。ここで、福岡伸一が、「普遍性」と「個別性」ということを言っていた。これはそのとおりである。人文学にかかわる分野でも、一般的に語るべきことと、個別の事例……作品とか事件とか事例とか……について語ることがある。両方にまたがった視点をもつ必要がある。
猫肉屋と出てきたのだが、(本を読んで確認すべきことかと思うが)この時代の英国では、猫の肉を食べたのだろうか。
フェアネスが、この作品を読み解くキーワードであると言っていた。対等の関係で見る、あつかう、ということといえるだろうか。ドリトル先生は、スタビンズ少年を対等にあつかっている。(番組のなかでは言っていなかったが、この時代は、たぶん『マイ・フェア・レディ』の時代になるだろう。階級社会というものが、いやおうなくあった時代ということになる。)
さかなクンの名前が出てきていた。海の生きものについて詳しい、と同時に、お魚を食べることも上手である。ドリトル先生は、博物学者として生きものについて詳しいが、同時に、ソーセージも食べる。決してベジタリアンというわけではない。
スタビンズ君は、読み書きができない。この時代の階級としては、そうなのだろう。まさに『マイ・フェア・レディ』の時代である。
ダーウィンの名前が出てきていたが、ダーウィンはその時代にどのように評価されていたのだろうか。これは、近代における生物学史として多くの研究書や入門書などがある。
注意深い観察者、a good noticer、と言っていた。これは、生物学のみならず、人文学の分野においても重要なことである。ことばの研究においても、まさに、観察力が必要である。現代語についても、古典語についても、ことばについての観察力がまず問われることになる。(無論、その後の調査や考察ということも大切であるが。)
ドリトル先生は、博物学者として登場している。この時代だと、まだ学問の世界が今日のように細分化していない、また、現在の日本のように理系、文系と分けられるような時代ではなかった。まず、幅広く身の周りのもの……自然であれ、社会であれ、芸術であれ……についての、細かな観察力必要であることになる。それを基盤として、ナチュラリストが生まれることになる。(これは私見であるが、おそらく真の意味のナチュラリストには、人文学的基礎教養が必須であると思っている。)
斜めの関係の大人は重要である。福岡伸一が昆虫少年だったとき、虫を持って国立科学博物館に行った話しは、いい話しである。そして、この時の福岡伸一少年はとても幸運であったことになる。
ところで、ドリトル先生は、動物のことばが分かる。動物の言語は、今まさに研究が始まったばかりの分野である。代表的な研究は、シジュウカラのことばについてということになるだろうが、さてこの番組はどう展開していくことになるだろうか。
2024年10月8日記
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