「ヨミョン学校の青春〜韓国・脱北2世の子どもたち〜」2024-10-16

2024年10月16日 當山日出夫

BSスペシャル ヨミョン学校の青春〜韓国・脱北2世の子どもたち〜

これはいい番組だった。

この番組であつかっていたようなことは、韓国ではどのように受けとめられているのだろうか、あるいは、韓国の人たちは脱北者やその子供たちのことを、どう思っているのだろうか。どうも、普通の日本の報道では、ほとんど取りあげられることがないと思うが、どうだろうか。いまだに日本における韓国報道については、加害・被害という発想から自由ではない。何か問題があると、それは、かつての日本の植民地支配のせいである、と(かなり強引に)結びつけて論じたがる。そうではなく、普通の国、隣国の人びとの社会と生活感情を、等身大の人間として対等に見ることが重要であると、私は思う。

アイデンティティーということばは便利な概念である。脱北者の子どもの多くは、中国で生まれ育って、韓国にやってきた。北朝鮮、中国、韓国と、住むところが変化しているなかで、自己のアイデンティティーということが、ゆらぐことになる。

このアイデンティティーという概念があるからこそ、自分の今のあり方を考えることができている。このことばが、日本で広く使われるようになったのは、ちょうど私が大学生だったころ、一九七〇年代後半から八〇年代にかけてだったと記憶する。もともと、アメリカでの社会心理学の用語だったと思うが、どうだったろうか。学生のころ、「現代のエスプリ」で、「アイデンティティー」の特集号があった。それぐらい、その当時としては、新鮮なことばだった。

何気なく出てきていたが、北朝鮮から中国にわたった女性の多くは、人身売買で売られたという。今の時代にそんなことが平然と行われているのかと思うし、また、脱北者の女性も、人身売買と自らの半生について語っていた。

形式的にはということになるが、朝鮮という民族は、三つに分断されていることになる。韓国、北朝鮮、それから、中国の朝鮮族自治区である。このうち、中国にいる朝鮮族の人たちのことは、日本の報道には、まったく登場することがないといっていい。それから、日本にいる、いわゆる在日コリアンの人たち、さらには、アメリカなど世界のいろんなところに住んでいる人たちのこともあるだろう。こういう状況のなかで、それぞれにアイデンティティーをどう自覚することになるのだろうか。

脱北者二世という中国生まれの子供たちにとって、韓国が祖国ということではないらしい。韓国の国籍があって、軍務に服したことがあっても、である。

美術の授業のなかでは、朝鮮語(私は、言語の名称としては朝鮮語ということにしている)と中国語が混ざっていた。番組では、朝鮮語と中国語で、字幕の色を変えていた。

ヨミョン学校に通っているのは、おそらく脱北者二世という子供たちのなかでも、少数なのかもしれない。いったいどれぐらいの脱北者、脱北者二世がいるのか、その全体像について言及されていなかったので、よく分からないと感じたところであるが。この学校を出て、韓国で大学まで進学するというのは、かなり希なケースかとも思うが、どうなのだろうか。番組で見るかぎりでは、登場していた人たちは、生活の水準はかなり高いようだったが、必ずしも、そのような人ばかりということではないかと想像してみる。

親がかつて日本にわたり、北朝鮮に帰還事業でもどり、その子どもが、脱北して韓国にいる。子どものころに親が歌って憶えていた歌が、『青い山脈』であるというのも、なんとも皮肉な感じがする。『青い山脈』は、原作は石坂洋次郎であり、その映画も、主題歌も、ヒットした。戦後の日本の新しい民主主義社会の理想が、この作品にある。今の北朝鮮の人たちは、『青い山脈』の歌詞の意味を知ったら、どう思うだろうか。

「ヨミョン」とは、黎明だと説明があった。登場していた脱北者二世には、明るい夜明けが期待できるだろうか。

2024年10月11日記

「私がメガネをかける理由」2024-10-16

2024年10月16日 當山日出夫

ドキュメント72時間 私がメガネをかける理由

私は中学生のときから眼鏡をかけている。もう半世紀を超える。

もう年をとってきたので、近眼で老眼である。本を読むときは眼鏡をはずさないといけない。家の中を歩くぐらいは、眼鏡なしでもどうにかなるが、外に出るときは必須である。特に、自動車の運転のときは眼鏡がないとどうにもならない。

今、PC(12インチのVAIO)でこの文章を書いているときは、眼鏡ははずしている。使っているのは、エディタはMery、表示設定は16ポイントのメイリオにしてある。

番組のなかで言っていなかったことだが、眼鏡をかけるとき、はずすときは、かならず両手でおこなう。これは鉄則である。それから、たたむときは左側からたたむ。眼鏡というものは、そのように作ってあるものなのである。

眼鏡をかける生活をしていて、あると便利なのは、超音波洗浄機。昔、眼鏡屋さんに行くことがあると、サービスで洗ってくれた。自分でも欲しいと思っていた。通信販売のカタログにあったので、さっそく買った。今から二〇年以上も前になるだろうか。今のようにネット通販で、ピンポイントで欲しいものが買えるという時代ではなかった。これは、いまでも重宝してつかっている。が、使い捨ての眼鏡クリーナーを使うことも多いが。眼鏡を拭くための専用の布も使っていたことがあるが、今ではあまり使わなくなった。

統合失調症の子どもをもつ親の姿があった。見ると、まだ若い。今は、その子どもを病院などで受け入れてくれるが、これが、親が年をとってくると、かなり大変なことになる。子どもの行く末をどうすることになるのか、思案しなければならない。個人的にたまたま知り合うことのできた人は、そのような子どもの親である。そういう問題を抱えた親たちのつながりの組織はあるのだが、そのメンバーの多くは、定年退職した人たちというのが、実際の姿でもある。

片方の目が見えなくても、あるいは、足が片方しか自由に動かなくても、自動車の運転は可能である。でなければ、今の日本で郊外では暮らしていけない。この番組に出てきた人たちは、みな自動車で来店していた。もし、自分がそうなったらどうするだろうか。たぶん、子どもにでも頼んで運転してもらうことにしたい、とは思うのだが。

2024年10月12日記

「If I must die ガザ 絶望から生まれた詩」2024-10-16

2024年10月16日 當山日出夫

NHKスペシャル If I must die ガザ 絶望から生まれた詩

この詩や番組については、さまざまに語られていることだろうから、特に付けくわえて何か書いてみたいとは思わない。ただ、番組を見ていて、どうしても気になったことがある。それは、

(make it white with a long tail)

の部分について、まったく言及されていなかったことである。詩の全文はテレビの画面でも出てきていた。日本語訳も朗読であったのだが、この部分だけは、黙っていた。どうしてなのだろう。英語として、そんなに難しいというものではない。

これは、何を象徴しているのだろうか。

しっぽのあるものとして思いうかぶのは悪魔かもしれないが、しかし、それを白いと表現してある(黒ではなく)。はたして、これは、何を象徴しているのだろうか。イスラム、ユダヤ教、キリスト教、これらの宗教のなかでは、どう理解されることになるのだろうか。

この部分は、原文でも、( )のなかに入れてあるので、特別の扱いであることは見て分かる。

NHKとしては、ここの解釈まで踏み込むことは避けたのか、多様な解釈が可能で分からないのか、はたしてどうなのだろうか。

2024年10月15日記