「12.7Questions」 ― 2024-10-18
2024年10月18日 當山日出夫
ドキュメント20min. 12.7Questions
日本における女性管理職の割合が、12.7%であるという。
管理職に女性が適当かどうか、という問いかけは、今では意味がないだろう。管理職になるということは、別に出世でもない。まあ、給料は上がるかもしれないが、むしろ、仕事の内容が変わることの方が意味としては大きいだろう。その仕事の内容については、それぞれの会社や業務内容によって異なる。一律に管理職だからどうこうという議論は、どうかなと思うところがある。
番組のなかに、理化学研究所の事例が出てきていたが、研究者としては、自分のやりたい研究ができるかどうか、ということがおそらく一番最初にくる問題だと思うので、少なくとも専任の職があって、研究ができるなら、なんでもいい、と思うかなと、私の場合は思うことになる。が、これも、一つの組織のリーダーとして、後進の育成にかかわりたいと思うようになるならば、また違ってくるかもしれないが。(人文学系の研究者の場合であれば、管理職などになって雑務に追われるよりも、自分の読書と思索の時間がほしいと思うのが、普通かなと思っている。これも専任の職があれば、ということではあるが。)
番組の企画としては、男女差の問題、ジェンダーの問題として作ってあるのだろうが、それよりも、今の日本社会のなかでの労働観というものが、まず問われるべきことかもしれないと思うところがあった。少なくとも、この番組のなかに登場してきていた女性たちは、その仕事を通じて自己実現ということをはたしている。自分の働きたい働き方になっている、ということが大前提としてあるように感じる。
今の日本で、労働するということに、自己の充足ということを見出す人がどれぐらいいるだろうか、という気もするのだが、どうなのだろうか。たしかに女性の働く場所を広げることには意味があるのだが、その一方で、働くことの意味、人生観、人間観をどのようにとらえるのか、という視点からも考える必要があるかと思う。
強いていえばであるが、二一世紀の今日には、どのような労働倫理が求められるのか、という観点があってもいいだろうと思っている。その一つの具体的な現れとして、女性管理職の割合ということになるかもしれない。結果的に女性の管理職の割合が男性よりも高くなっても、それはそれでいい。
アファーマティブアクションと数値だけでははかれないものもあるかと思っている。(まあ、こういう考えかたは時代錯誤的かもしれないが。)
2024年10月15日記
ドキュメント20min. 12.7Questions
日本における女性管理職の割合が、12.7%であるという。
管理職に女性が適当かどうか、という問いかけは、今では意味がないだろう。管理職になるということは、別に出世でもない。まあ、給料は上がるかもしれないが、むしろ、仕事の内容が変わることの方が意味としては大きいだろう。その仕事の内容については、それぞれの会社や業務内容によって異なる。一律に管理職だからどうこうという議論は、どうかなと思うところがある。
番組のなかに、理化学研究所の事例が出てきていたが、研究者としては、自分のやりたい研究ができるかどうか、ということがおそらく一番最初にくる問題だと思うので、少なくとも専任の職があって、研究ができるなら、なんでもいい、と思うかなと、私の場合は思うことになる。が、これも、一つの組織のリーダーとして、後進の育成にかかわりたいと思うようになるならば、また違ってくるかもしれないが。(人文学系の研究者の場合であれば、管理職などになって雑務に追われるよりも、自分の読書と思索の時間がほしいと思うのが、普通かなと思っている。これも専任の職があれば、ということではあるが。)
番組の企画としては、男女差の問題、ジェンダーの問題として作ってあるのだろうが、それよりも、今の日本社会のなかでの労働観というものが、まず問われるべきことかもしれないと思うところがあった。少なくとも、この番組のなかに登場してきていた女性たちは、その仕事を通じて自己実現ということをはたしている。自分の働きたい働き方になっている、ということが大前提としてあるように感じる。
今の日本で、労働するということに、自己の充足ということを見出す人がどれぐらいいるだろうか、という気もするのだが、どうなのだろうか。たしかに女性の働く場所を広げることには意味があるのだが、その一方で、働くことの意味、人生観、人間観をどのようにとらえるのか、という視点からも考える必要があるかと思う。
強いていえばであるが、二一世紀の今日には、どのような労働倫理が求められるのか、という観点があってもいいだろうと思っている。その一つの具体的な現れとして、女性管理職の割合ということになるかもしれない。結果的に女性の管理職の割合が男性よりも高くなっても、それはそれでいい。
アファーマティブアクションと数値だけでははかれないものもあるかと思っている。(まあ、こういう考えかたは時代錯誤的かもしれないが。)
2024年10月15日記
『坂の上の雲』「(6)国家鳴動(後編)」 ― 2024-10-18
2024年10月18日 當山日出夫
『坂の上の雲』「(6)国家鳴動(後編)」
日清戦争になる。このドラマの描いた日清戦争は、朝鮮半島の実質的な支配権を、中国(清)がとるか、ロシアがとるか、それとも、日本がとるか、という覇権をめぐっての争いとしている。日本の側から見ると、タテマエ上は、朝鮮の独立をまもるため、ということにはなっているが。
この当時の世界情勢、東アジア情勢として、はたして朝鮮が独自に独立を守り、かつ、近代化をなしとげることができただろうか……という問いかけにもなる。近代的な独立国家を自らの手で作りあげることができなかった、これは、おそらくは現代の韓国の人びとの、歴史観の根底にあるものだろうと、推測することになる。だからこそ、日本に対して、その統治下にあったことを強調し、それからの独立としての現代の国の姿を構築することになる、つまりは、かなり屈折している……流れとしては、こんなところかと思っている。だからといって、現代の価値観として、植民地主義を肯定するわけではないが、しかし、その時代にはそのようにしか国家の生きる道がなかったことも事実として認めねばならないだろう。東アジアにおける諸民族の興亡の長い歴史のなかで考えるべきことの一つかと思っている。その大きな流れのなかで、日本列島にどのような人びとがどのような生活をしてきたのかということが、顧みられるべきであろう。単純に「日本人」がずっと住み続けてきたということではないはずである。もうそのようなことを信じる人は希かもしれないが。
このドラマで描いた日清戦争のはじまりの経緯は、かなり軍の独走という印象がある。川上操六と陸奥宗光の判断で、伊藤博文をだました、といっていいかもしれない。だが、見方によっては、軍の動きを、政治がかろうじてコントロールできていたというふうにも理解できる。このあたりは、いわゆる司馬史観としての、昭和戦前の軍部の独走、統帥権という魔物、というあたりと比べてどうか、ということになるのだろうが。
『坂の上の雲』では、軍人を、ある意味では技術者として描いている。戦争するかどうかを決めるのは、政治の判断であるとしている。これはそのとおりなのだが、その政治の判断の基本になるのが、軍事力についての冷静な評価でもある。伊藤博文は、清に勝てるわけはないという。だが、川上操六たちは、勝てるとは思わなかったかもしれないが、互角の戦いはできると考えていたようである。まあ、結果的には勝ったということになるのだが。
ところで、このドラマを見て感じることの一つとして、秋山兄弟の生活の質素さがある。実際はどうであったかは別にして、真之も好古もきわめて質実剛健の生活ぶりである。好古は多美と結婚して、ようやく茶碗が三つになったことになる。また、好古も真之も決していばらない。武威を誇示して威嚇するような言動はまったくしていない。このあたりは、司馬遼太郎、それから、このドラマの制作の考える軍人としてのあるべき姿を描いた、ということになるのだろう。(軍人がいばって政治に口出しするようになってはいけない、ということでもあるが。)
明治時代には、近代化したとはいえ、都市部には貧民窟があり、地方の農山漁村では、過酷な労働があったことも確かであろう。ただ、過酷というだけではなく、そこに生きる人間のさまざまな喜怒哀楽もあったにはちがいないが。しかし、このドラマでは、そのような人びとの生活は出てこない。これは、現在だから言えることで、そこまでこのドラマに求めることはないとも考える。(だからといって、そのような過酷な近代の生活を考えなくていいということではないが。)
2024年10月16日記
『坂の上の雲』「(6)国家鳴動(後編)」
日清戦争になる。このドラマの描いた日清戦争は、朝鮮半島の実質的な支配権を、中国(清)がとるか、ロシアがとるか、それとも、日本がとるか、という覇権をめぐっての争いとしている。日本の側から見ると、タテマエ上は、朝鮮の独立をまもるため、ということにはなっているが。
この当時の世界情勢、東アジア情勢として、はたして朝鮮が独自に独立を守り、かつ、近代化をなしとげることができただろうか……という問いかけにもなる。近代的な独立国家を自らの手で作りあげることができなかった、これは、おそらくは現代の韓国の人びとの、歴史観の根底にあるものだろうと、推測することになる。だからこそ、日本に対して、その統治下にあったことを強調し、それからの独立としての現代の国の姿を構築することになる、つまりは、かなり屈折している……流れとしては、こんなところかと思っている。だからといって、現代の価値観として、植民地主義を肯定するわけではないが、しかし、その時代にはそのようにしか国家の生きる道がなかったことも事実として認めねばならないだろう。東アジアにおける諸民族の興亡の長い歴史のなかで考えるべきことの一つかと思っている。その大きな流れのなかで、日本列島にどのような人びとがどのような生活をしてきたのかということが、顧みられるべきであろう。単純に「日本人」がずっと住み続けてきたということではないはずである。もうそのようなことを信じる人は希かもしれないが。
このドラマで描いた日清戦争のはじまりの経緯は、かなり軍の独走という印象がある。川上操六と陸奥宗光の判断で、伊藤博文をだました、といっていいかもしれない。だが、見方によっては、軍の動きを、政治がかろうじてコントロールできていたというふうにも理解できる。このあたりは、いわゆる司馬史観としての、昭和戦前の軍部の独走、統帥権という魔物、というあたりと比べてどうか、ということになるのだろうが。
『坂の上の雲』では、軍人を、ある意味では技術者として描いている。戦争するかどうかを決めるのは、政治の判断であるとしている。これはそのとおりなのだが、その政治の判断の基本になるのが、軍事力についての冷静な評価でもある。伊藤博文は、清に勝てるわけはないという。だが、川上操六たちは、勝てるとは思わなかったかもしれないが、互角の戦いはできると考えていたようである。まあ、結果的には勝ったということになるのだが。
ところで、このドラマを見て感じることの一つとして、秋山兄弟の生活の質素さがある。実際はどうであったかは別にして、真之も好古もきわめて質実剛健の生活ぶりである。好古は多美と結婚して、ようやく茶碗が三つになったことになる。また、好古も真之も決していばらない。武威を誇示して威嚇するような言動はまったくしていない。このあたりは、司馬遼太郎、それから、このドラマの制作の考える軍人としてのあるべき姿を描いた、ということになるのだろう。(軍人がいばって政治に口出しするようになってはいけない、ということでもあるが。)
明治時代には、近代化したとはいえ、都市部には貧民窟があり、地方の農山漁村では、過酷な労働があったことも確かであろう。ただ、過酷というだけではなく、そこに生きる人間のさまざまな喜怒哀楽もあったにはちがいないが。しかし、このドラマでは、そのような人びとの生活は出てこない。これは、現在だから言えることで、そこまでこのドラマに求めることはないとも考える。(だからといって、そのような過酷な近代の生活を考えなくていいということではないが。)
2024年10月16日記
「鶴になった男〜釧路湿原・タンチョウふれあい日記〜」 ― 2024-10-18
2024年10月18日 當山日出夫
時をかけるテレビ 鶴になった男〜釧路湿原・タンチョウふれあい日記〜
番組の冒頭で、カイツブリの巣の写真が出ていた。野鳥の巣については、基本的に撮影はしてはいけないはずである。例外は、ツバメだけである。これは、バードウォッチング、野鳥観察の基本的なルールというかマナーであると認識している。
この番組は、紹介する過去の番組はいいのだが、ゲストが邪魔だと感じるときがある。この回の場合であれば、鳥の専門家を招くべきだったと思う。
以前に放送のあった、ホッキョクグマのピースの飼育のこともそうなのだが、本来は野生であるべき動物について、過度の感情移入をしてしまうことは、警戒しておくべきだろう。
とはいえ、この番組としては、非常に面白いものであったことは確かである。
タンチョウの保護のためには、まず自然の状態でどうなのかじっくり観察する。雄と雌で交互に卵をあたためる。それにならって、一定時間おきに卵を少し回転させる。これは、見ていてなるほどと思ったところである。
興味深かったのは、まだひなが卵の中にいるときに、外からの呼び声に反応すること。タンチョウにとって、音声とはどのような意味を持っているのだろうか。
また、大きく育ってからも、高橋さんの声に反応して鳴き声を出す。
空を飛ぶことを教えるために、一緒に湿原を走る。そのうち羽ばたくことを憶え、ついに空を飛ぶ。(このシーンは感動的である。)
保護のかいあって、今ではタンチョウの数も増えている。何よりも、その生育の自然環境を保全することが意味のあることであるにちがいない。
動物の言語の研究というのは、近年になって注目されている分野である。それと同時に、AIの発達もあり、「言語」というものが、人間だけのものではなくなってきている。これまでのように人間のことばを研究する言語学は、広い意味での言語の一つになろうとしているといってもいいかもしれない。
ところで、「ウチのどうぶつえん」で釧路の動物園をあつかって、野生のタンチョウの保護をしているという話しがあった。ケガをするタンチョウの多くは、交通事故によるものだという。できれば、このような話題についても触れてあると良かったと思う。
2024年10月14日記
時をかけるテレビ 鶴になった男〜釧路湿原・タンチョウふれあい日記〜
番組の冒頭で、カイツブリの巣の写真が出ていた。野鳥の巣については、基本的に撮影はしてはいけないはずである。例外は、ツバメだけである。これは、バードウォッチング、野鳥観察の基本的なルールというかマナーであると認識している。
この番組は、紹介する過去の番組はいいのだが、ゲストが邪魔だと感じるときがある。この回の場合であれば、鳥の専門家を招くべきだったと思う。
以前に放送のあった、ホッキョクグマのピースの飼育のこともそうなのだが、本来は野生であるべき動物について、過度の感情移入をしてしまうことは、警戒しておくべきだろう。
とはいえ、この番組としては、非常に面白いものであったことは確かである。
タンチョウの保護のためには、まず自然の状態でどうなのかじっくり観察する。雄と雌で交互に卵をあたためる。それにならって、一定時間おきに卵を少し回転させる。これは、見ていてなるほどと思ったところである。
興味深かったのは、まだひなが卵の中にいるときに、外からの呼び声に反応すること。タンチョウにとって、音声とはどのような意味を持っているのだろうか。
また、大きく育ってからも、高橋さんの声に反応して鳴き声を出す。
空を飛ぶことを教えるために、一緒に湿原を走る。そのうち羽ばたくことを憶え、ついに空を飛ぶ。(このシーンは感動的である。)
保護のかいあって、今ではタンチョウの数も増えている。何よりも、その生育の自然環境を保全することが意味のあることであるにちがいない。
動物の言語の研究というのは、近年になって注目されている分野である。それと同時に、AIの発達もあり、「言語」というものが、人間だけのものではなくなってきている。これまでのように人間のことばを研究する言語学は、広い意味での言語の一つになろうとしているといってもいいかもしれない。
ところで、「ウチのどうぶつえん」で釧路の動物園をあつかって、野生のタンチョウの保護をしているという話しがあった。ケガをするタンチョウの多くは、交通事故によるものだという。できれば、このような話題についても触れてあると良かったと思う。
2024年10月14日記
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