『光る君へ』「揺らぎ」2024-10-28

2024年10月28日 當山日出夫

『光る君へ』「揺らぎ」

まひろ/藤式部は、紫の上はどうなるのかと聞かれて、死にましたと答えていた。これは、『源氏物語』では「御法」の巻のことになる。ということは、もし順番に書いていったのだとしたら、「若菜」(上下)をすでに書き終えていた、ということになるのだけれど、はたしてどうだろうか。ドラマのなかのできごととしては、特に「若菜」の巻を連想させるようなことは起きていないように見える。

歴史学の方からどう考えられているのか、気になることとしては、この時代の天皇の政治的な実権はどうだったのか、ということがある。三条天皇(まだ諡号が決まったわけではないので、この名前で呼ぶのはどうかとも思うが)は、道長に対してかなり敵対的であり、自分の意志を通そうとしている。摂関政治の時代、天皇は政治の実権から遠ざけられていた、藤原氏が権力を掌握していた、というイメージが強いのだが、実際はどうだったのだろうか。藤原氏の内部においても、また、貴族たちの間においても、さらには、天皇においても、さまざまな権力争いが繰り広げられていたということなのかと思う。このドラマでは、そのような平安貴族の姿を描くことになっている。

しかし、特に比較して考えるということではないが、権力にかける執念の無残さとでもいうことについては、以前の『鎌倉殿の13人』が、凄みをもって描いていたと感じる。

双寿丸が登場していた。この時代、平安時代の中期から後期にかけてのころになれば、武士(武者)という存在が、その存在感を示し始めたころということになるだろうか。もうすこし時代が下って『今昔物語集』のころになると、武士とはどんな生き方をする人間なのか、非常に興味深く描かれることになる。

清少納言が中宮彰子に会いにやってきていた。せいいっぱいの嫌みを言って帰ったということだが、このことを、まひろ/藤式部はあまり快く思わなかったようである。『紫式部日記』に書かれる清少納言への評価は、このあたりのことに起因する……このドラマでは、そう描いている。

賢子のところに双寿丸が御飯を食べにやってきていた。その食事のシーンを見ると、まひろの家の食事は質素である。為時が越後守になったからといって、そう家が豊かになったというわけではないようである。この時代から、ご飯をたいてお茶碗にもってお箸で食べていた……ということなのだろうと思うが、たぶんそうだったのだろうと思う。

武者たちが行列してあるく姿が映っていたが、弓を持っていたが、刀は持っていなかった。双寿丸たちお供のものが手にしていたのは、棍棒のようなものであった。この時代の武者は、どのように武装していたのだろうか。

彰子のサロンで女房たちが歌を詠んでいた。このとき、朗唱してはいなかった。また、紙に書いてもいなかった。歌を詠むということが、ドラマのなかで出てきたようにただ口頭で声に出すだけのものだったのだろうか。

最後の紀行のときに『北山抄』が映っていた。この文献のことが、テレビで紹介されることは、珍しいかなと思う。平安時代のことを考えるには、基本的な文献の一つである。

2024年10月27日記

コメント

_ Britty ― 2024-10-28 14時41分21秒

『光る君へ』素晴らしいのですがひとつだけ怨み言をいえば、この人たち朗詠しませんね。そこだけ残念だなと思ってしまいます。まあ尺の都合もあるのでしょうけど。

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