「秘められたメッセージ 〜清少納言 枕草子の真実〜」 ― 2024-10-30
2024年10月30日 當山日出夫
英雄たちの選択 秘められたメッセージ 〜清少納言 枕草子の真実〜
『枕草子』をとりあげているわけだが、どうかなあ、と思うところがいくつかある。
まず、書名の「枕草子」の意味がよく分からない。「枕」はいったい何を意味しているのだろうか。これについては、諸説あると思うが、これといった定説はないかと思うが、どうなのだろうか。
定子のことを「ていし」と読んでいた。やはり私には子の方がしっくりくる。
この番組では一貫して「春はあけぼの」から始まる『枕草子』を前提としてあったのだが、はたしてこの順番で書いたものなのかどうか。『枕草子』の各章段の執筆の順序、それから、編集の過程、さらには、同時代や後世の受容の問題として、総合的に考えなければならないところだと思うが、はたしてどうなのだろうか。(ただ、もっとも広まった、今日まで受容されているテキストが、三巻本であるということにはなるのだろうが。)
平安時代の女房文学といわれる作品については、女房という女性がどういう人たちであったか、また、その女房のなかでの階層ということなど、考えなければならないことは多い。清少納言は、トップクラスの地位の女房ではなく、同僚の女房たちからすれば、嫉妬の対象になりやすかったという指摘は、たぶんそのとおりかと思う。
この時代、『枕草子』はどのような受容のされかたをしたのか。定子をめぐる中関白家のことは、貴族たちにとって同時代のこととして周知のことだったはずだから、『枕草子』に何が書いていないか、という観点で読まれたはずである、というあたりは納得できるところである。
ただ、実態として、平安時代の貴族たちにとって、『枕草子』とはどんな読み物であったのか、そのあたりのことが、今ひとつわからない。『古今和歌集』はれっきとした勅撰和歌集として権威があったことは理解できる。現存する古筆などからも確かなことである。このような意味では『和漢朗詠集』も価値の認められた書物であったと考えることになる。このようななかで『枕草子』はどのように読まれただろうか。
一条帝の定子サロンがいったいどんなものだったのか、『枕草子』に書かれていること、逆に、書かれていないこと、これを想像してみることになる。
この回でも磯田道史の言っていることは、面白いところがある。
日本の宮廷が採用しなかったものが、宦官と科挙である。これは、いろんなところでいろんな人が言っていることなのだが、その持つ意味はもっと考えられてもいいかと思う。宦官がいなかったのは、私の思うところでは、日本の朝廷が開放的であることに起因するかなと思う。宦官が存在するためには、閉鎖的な空間でなければ意味がない。日本の内裏は、城ではない。物理的な構造として閉鎖するのは無理である。
実際どうであったかは議論のあるところかと思うが、『源氏物語』で光源氏は藤壺と不義の関係になる。少なくとも、これがまったく不可能な状況では、このような物語が生まれないだろう。
また、平安貴族の性的な倫理観は、今日のそれとはかなり異なっている。はっきりいえば、今日よりも非常に自由である、と言ってもいいだろう。このあたり、平安貴族の婚姻制度のことと、性的倫理観のことは、あまり現代の価値観で考えない方がいいかもしれない。
『枕草子』は『源氏物語』と同様に、今からおよそ一〇〇〇年前のものである。磯田道史が言ったように、社会にとって重要なのは、散文のインフラがあるかどうかである、これは、たしかにそのとおりだと思う。ただ、私の視点から付けくわえるとするならば、『枕草子』『源氏物語』は仮名文であって、それを読めた人びとは、社会のごく一部にすぎなかったことも確かである。日本語学の立場からいってみるならば……社会インフラとしての散文としては、もう少しあとの『今昔物語集』や鎌倉時代以降になるが『平家物語』などを考えた方がいい。それから、表記のこととしては漢字仮名交じり文の普及ということが重要である。さらにいえば、変体漢文や、漢文の訓読ということも視野にいれる必要がある。
社会インフラとしての散文という視点は、言語と社会の歴史を考えるときに重要なことにちがいない。「想像の共同体」にとってインフラとしての散文の重要性もある。
2024年10月25日記
英雄たちの選択 秘められたメッセージ 〜清少納言 枕草子の真実〜
『枕草子』をとりあげているわけだが、どうかなあ、と思うところがいくつかある。
まず、書名の「枕草子」の意味がよく分からない。「枕」はいったい何を意味しているのだろうか。これについては、諸説あると思うが、これといった定説はないかと思うが、どうなのだろうか。
定子のことを「ていし」と読んでいた。やはり私には子の方がしっくりくる。
この番組では一貫して「春はあけぼの」から始まる『枕草子』を前提としてあったのだが、はたしてこの順番で書いたものなのかどうか。『枕草子』の各章段の執筆の順序、それから、編集の過程、さらには、同時代や後世の受容の問題として、総合的に考えなければならないところだと思うが、はたしてどうなのだろうか。(ただ、もっとも広まった、今日まで受容されているテキストが、三巻本であるということにはなるのだろうが。)
平安時代の女房文学といわれる作品については、女房という女性がどういう人たちであったか、また、その女房のなかでの階層ということなど、考えなければならないことは多い。清少納言は、トップクラスの地位の女房ではなく、同僚の女房たちからすれば、嫉妬の対象になりやすかったという指摘は、たぶんそのとおりかと思う。
この時代、『枕草子』はどのような受容のされかたをしたのか。定子をめぐる中関白家のことは、貴族たちにとって同時代のこととして周知のことだったはずだから、『枕草子』に何が書いていないか、という観点で読まれたはずである、というあたりは納得できるところである。
ただ、実態として、平安時代の貴族たちにとって、『枕草子』とはどんな読み物であったのか、そのあたりのことが、今ひとつわからない。『古今和歌集』はれっきとした勅撰和歌集として権威があったことは理解できる。現存する古筆などからも確かなことである。このような意味では『和漢朗詠集』も価値の認められた書物であったと考えることになる。このようななかで『枕草子』はどのように読まれただろうか。
一条帝の定子サロンがいったいどんなものだったのか、『枕草子』に書かれていること、逆に、書かれていないこと、これを想像してみることになる。
この回でも磯田道史の言っていることは、面白いところがある。
日本の宮廷が採用しなかったものが、宦官と科挙である。これは、いろんなところでいろんな人が言っていることなのだが、その持つ意味はもっと考えられてもいいかと思う。宦官がいなかったのは、私の思うところでは、日本の朝廷が開放的であることに起因するかなと思う。宦官が存在するためには、閉鎖的な空間でなければ意味がない。日本の内裏は、城ではない。物理的な構造として閉鎖するのは無理である。
実際どうであったかは議論のあるところかと思うが、『源氏物語』で光源氏は藤壺と不義の関係になる。少なくとも、これがまったく不可能な状況では、このような物語が生まれないだろう。
また、平安貴族の性的な倫理観は、今日のそれとはかなり異なっている。はっきりいえば、今日よりも非常に自由である、と言ってもいいだろう。このあたり、平安貴族の婚姻制度のことと、性的倫理観のことは、あまり現代の価値観で考えない方がいいかもしれない。
『枕草子』は『源氏物語』と同様に、今からおよそ一〇〇〇年前のものである。磯田道史が言ったように、社会にとって重要なのは、散文のインフラがあるかどうかである、これは、たしかにそのとおりだと思う。ただ、私の視点から付けくわえるとするならば、『枕草子』『源氏物語』は仮名文であって、それを読めた人びとは、社会のごく一部にすぎなかったことも確かである。日本語学の立場からいってみるならば……社会インフラとしての散文としては、もう少しあとの『今昔物語集』や鎌倉時代以降になるが『平家物語』などを考えた方がいい。それから、表記のこととしては漢字仮名交じり文の普及ということが重要である。さらにいえば、変体漢文や、漢文の訓読ということも視野にいれる必要がある。
社会インフラとしての散文という視点は、言語と社会の歴史を考えるときに重要なことにちがいない。「想像の共同体」にとってインフラとしての散文の重要性もある。
2024年10月25日記
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