「ハリス対トランプ 〜2024年 アメリカの選択〜」後編 ― 2024-10-31
2024年10月31日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「ハリス対トランプ 〜2024年 アメリカの選択〜」後編
昨日の続きで後編である。二〇二四年、アメリカの制作。
形式的には、ハリスとトランプと、それぞれに使う時間を同じように配分して、公平なように作ってある。しかし、内容はというと、明らかに、ハリス支持の方向になっている。
見て思うこととしては、どちらが勝ってもアメリカ社会の分断と対立を解消する方向には向かっていかないだろうということである。この番組の場合、ハリスよりの立場で編集してあることは確かなのだが、ハリスの主張する正義や公正ということは、たしかにリベラルな価値観によるものだだが、それは同時に、その主張に必ずしも賛同しない人びとへの敵対(場合によっては侮蔑的意識)をふくむものになっている。番組では、描かれていなかったことだが、同じようなことはトランプについてもいえるだろう。
移民問題、国境の管理についていうならば、番組のなかではハリスは適切な提案をできないでいる。完全に封鎖するか、さもなくば、自由に出入りできるようにするか、というようなことで考えているように判断される。しかし、現実的な問題としては、合法的で適切な管理、であるはずである。その程度がどの程度のものなのかは、立場によって異なるだろうが、意見の対立する側との妥協点を見出すという方向には描かれていない。
完璧な理想主義者は気に入らないだろうが、政治はどこで妥協するかということでしかない。その妥協をどれほど多くの国民が納得するか、である。この意味では、どちらの候補も自分の主張する正しさのために戦う姿勢は見せていることになるのだが、現実的な妥協点を探るしたたかさという面は、省略されている。どっちが勝っても、現実的な安定路線は期待できないといえる。
こうなると、どっちを支持するかというよりも、どっちが嫌いか、よりマシな方はどっちか、という選択肢にならざるをえない。(このような状況は日本の選挙でも似たようなものかもしれないが。)
選挙の結果がどうなろうと、それは主張が支持されたというよりも、それを嫌った人が少し少なかっただけ、ということにしかならないだろう。この番組をアメリカの人びとはどう思って見るのか。ハリスについても、トランプについても、嫌いな人はより嫌いになるだけのことで終わったように思える。
2024年10月31日記
BS世界のドキュメンタリー 「ハリス対トランプ 〜2024年 アメリカの選択〜」後編
昨日の続きで後編である。二〇二四年、アメリカの制作。
形式的には、ハリスとトランプと、それぞれに使う時間を同じように配分して、公平なように作ってある。しかし、内容はというと、明らかに、ハリス支持の方向になっている。
見て思うこととしては、どちらが勝ってもアメリカ社会の分断と対立を解消する方向には向かっていかないだろうということである。この番組の場合、ハリスよりの立場で編集してあることは確かなのだが、ハリスの主張する正義や公正ということは、たしかにリベラルな価値観によるものだだが、それは同時に、その主張に必ずしも賛同しない人びとへの敵対(場合によっては侮蔑的意識)をふくむものになっている。番組では、描かれていなかったことだが、同じようなことはトランプについてもいえるだろう。
移民問題、国境の管理についていうならば、番組のなかではハリスは適切な提案をできないでいる。完全に封鎖するか、さもなくば、自由に出入りできるようにするか、というようなことで考えているように判断される。しかし、現実的な問題としては、合法的で適切な管理、であるはずである。その程度がどの程度のものなのかは、立場によって異なるだろうが、意見の対立する側との妥協点を見出すという方向には描かれていない。
完璧な理想主義者は気に入らないだろうが、政治はどこで妥協するかということでしかない。その妥協をどれほど多くの国民が納得するか、である。この意味では、どちらの候補も自分の主張する正しさのために戦う姿勢は見せていることになるのだが、現実的な妥協点を探るしたたかさという面は、省略されている。どっちが勝っても、現実的な安定路線は期待できないといえる。
こうなると、どっちを支持するかというよりも、どっちが嫌いか、よりマシな方はどっちか、という選択肢にならざるをえない。(このような状況は日本の選挙でも似たようなものかもしれないが。)
選挙の結果がどうなろうと、それは主張が支持されたというよりも、それを嫌った人が少し少なかっただけ、ということにしかならないだろう。この番組をアメリカの人びとはどう思って見るのか。ハリスについても、トランプについても、嫌いな人はより嫌いになるだけのことで終わったように思える。
2024年10月31日記
歴史探偵「日本人とごはん 2000年の秘密」 ― 2024-10-31
2024年10月31日 當山日出夫
歴史探偵 日本人とごはん 2000年の秘密
言っていることの一つ一つはウソではないのだろうが、全体をとおしてみると、なんだかなあ、という気になる。
たしかに、弥生時代から日本の地において、稲作が始まったことは確かなことなのだろう。ここも、縄文時代との連続、非連続というあたりを考えると、議論はいろいろあるだろう。
弥生時代にそのようにして土器で御飯を炊いていたということは、まあ、たぶんそのとおりかもしれない。だが、御飯だけ食べて人は生きていたのではないはずである。その他に何を食べていたのか、その調理法はどんなだったのか、これらを総合的に考えないと、御飯のことだけ調べてもそう意味のあることではない。
今の歴史学や考古学では、弥生時代イコール米作、ということで考えていいのだろうか、まずこのあたりのことから問題かなと思う。プラントオパールから稲作の歴史を考えるという研究は、しばらく前からはじまったと憶えているが、現在ではどこまで分かっているのだろうか。今なら、DNAの解析などから、もっといろんなことが分かるようになっているだろうと思うが。
古墳時代になって、気候変動のせいでお米がとれなくなった。これは、年輪年代学などから、昔の気候は推定することが可能になってきている。だから、お米を蒸すという調理法に変わったというのは、ちょっと短絡的に思える。お米がとれなくなったという気象条件のもとで、より潤沢な燃料……その原料は樹木であるが……が手に入ったということなのだろうか。薪に適した樹木の歴史ということも、同時に考えるべきかと思う。また、薪をつくる労働力のことも、どう考えるということになる。
江戸時代、釜の蓋が重くなったというのは、そのとおりなのだろう。その結果、今にいたる御飯の炊き方のスタイルが定着したということは、そうかと思う。
釜で御飯をたくには、まずかまどが必要である。古墳時代から使われたというのだが、これはどのような史料から判断できることなのだろうか。それから、今のような鉄製の釜の製法は、どうやって可能になったのだろうか。その釜も、日本において、どこで製造されて流通したものなのだろうか。
弥生時代から日本で米作をおこなってきたことは確かだとしても、米というものがどういう意味の植物であり食物であったかは、そう簡単なことではないかと思う。これは、民俗学などの分野の問題かもしれない。
江戸時代の藩の規模を、~~石と、お米の取れ高で言うようになった。つまり、お米を基準に経済の規模を計るようになったのは、どのような歴史的背景があってのことなのだろうか。日本中で米作ばかりをしていたわけではない。米作のできない山間部もあり、また漁村などもあった。
江戸時代のこととしては、各地で作られた米は、どのように流通してどう消費されていたのだろうか。
日本の歴史と米作については、いろいろと考えるべきことが多いと思う。ただ、日本人=米作、という図式にとらわれずに考えることが求められているのが、今日の歴史学であろうと思っている。強いていうならば、米をめぐる言説の歴史をたどること……米作と日本の起源、農業=米作、米を経済の単位としたこと……など、いわゆる「想像の共同体」という観点から考えなおしてみる必要があるかとも思うのである。
2024年10月24日記
歴史探偵 日本人とごはん 2000年の秘密
言っていることの一つ一つはウソではないのだろうが、全体をとおしてみると、なんだかなあ、という気になる。
たしかに、弥生時代から日本の地において、稲作が始まったことは確かなことなのだろう。ここも、縄文時代との連続、非連続というあたりを考えると、議論はいろいろあるだろう。
弥生時代にそのようにして土器で御飯を炊いていたということは、まあ、たぶんそのとおりかもしれない。だが、御飯だけ食べて人は生きていたのではないはずである。その他に何を食べていたのか、その調理法はどんなだったのか、これらを総合的に考えないと、御飯のことだけ調べてもそう意味のあることではない。
今の歴史学や考古学では、弥生時代イコール米作、ということで考えていいのだろうか、まずこのあたりのことから問題かなと思う。プラントオパールから稲作の歴史を考えるという研究は、しばらく前からはじまったと憶えているが、現在ではどこまで分かっているのだろうか。今なら、DNAの解析などから、もっといろんなことが分かるようになっているだろうと思うが。
古墳時代になって、気候変動のせいでお米がとれなくなった。これは、年輪年代学などから、昔の気候は推定することが可能になってきている。だから、お米を蒸すという調理法に変わったというのは、ちょっと短絡的に思える。お米がとれなくなったという気象条件のもとで、より潤沢な燃料……その原料は樹木であるが……が手に入ったということなのだろうか。薪に適した樹木の歴史ということも、同時に考えるべきかと思う。また、薪をつくる労働力のことも、どう考えるということになる。
江戸時代、釜の蓋が重くなったというのは、そのとおりなのだろう。その結果、今にいたる御飯の炊き方のスタイルが定着したということは、そうかと思う。
釜で御飯をたくには、まずかまどが必要である。古墳時代から使われたというのだが、これはどのような史料から判断できることなのだろうか。それから、今のような鉄製の釜の製法は、どうやって可能になったのだろうか。その釜も、日本において、どこで製造されて流通したものなのだろうか。
弥生時代から日本で米作をおこなってきたことは確かだとしても、米というものがどういう意味の植物であり食物であったかは、そう簡単なことではないかと思う。これは、民俗学などの分野の問題かもしれない。
江戸時代の藩の規模を、~~石と、お米の取れ高で言うようになった。つまり、お米を基準に経済の規模を計るようになったのは、どのような歴史的背景があってのことなのだろうか。日本中で米作ばかりをしていたわけではない。米作のできない山間部もあり、また漁村などもあった。
江戸時代のこととしては、各地で作られた米は、どのように流通してどう消費されていたのだろうか。
日本の歴史と米作については、いろいろと考えるべきことが多いと思う。ただ、日本人=米作、という図式にとらわれずに考えることが求められているのが、今日の歴史学であろうと思っている。強いていうならば、米をめぐる言説の歴史をたどること……米作と日本の起源、農業=米作、米を経済の単位としたこと……など、いわゆる「想像の共同体」という観点から考えなおしてみる必要があるかとも思うのである。
2024年10月24日記
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