「出稼ぎ先は戦場 〜ネパール〜」2024-11-07

2024年11月7日 當山日出夫

Asia Insight 出稼ぎ先は戦場 〜ネパール〜

ロシアとウクライナが戦争するとしても、国民国家どうしの戦争として、戦場に行くのは自国民だけである……ということにはならないのが、現実の姿ということである。ロシアについては、ワグネルなどの軍事会社のことが言われていたし、また、囚人の軍役ということも伝えられている。だが、それ以外に傭兵として、外国からの出稼ぎ労働としての軍役もあることは、広く報じられていいことだと思う。(おそらく同じようなことは、ウクライナについてもあるのかもしれないが。)

戦争が「国民」によるものであるというのは、『坂の上の雲』から太平洋戦争までの日本の感覚にすぎないのだろう。ベトナム戦争になると、東西冷戦の時代である、アメリカ軍が戦った相手は、ベトナム人のベトコン(いまどきこんなことばは使わなくなっているが)だけではなかったはずであると思うが、どうだったろうか。

ネパールという国が、まともな生活をおくろうとするならば、外国に出稼ぎにいくしかない貧しい国である、ということは認識しておくべきだろう。そのうちの一部は日本にも来ている。ちなみに、日本での自動車の二種免許にネパール語が追加されたのは、最近のニュースである。

ネパールという国の政策の問題でもあるし、また、ロシアの問題でもある。少なくとも、戦場にいる兵士がどのような人びとであるのか、これはもっと知られていいことだと思う。

北朝鮮がロシアに派兵するということらしい。現代における戦争が、当事国の国民だけによるものではなくなっていることを、認識しておくべきことになる。また、もしイスラエルがさらに戦闘を拡大するとしたら、そこで戦う兵士はどのような人間で構成されたものであるのかとも思う。

傭兵として出稼ぎに外国に行く、ということがリアルには感じられないのは、それだけ日本が平和にすごしてきたということになるのだろう。

2024年11月1日記

「“百人一首” (1)「外から」見た魅力と謎」2024-11-07

2024年11月7日 當山日出夫

100分de名著 “百人一首” (1)「外から」見た魅力と謎

今から半世紀ほど前の昔、私が大学生になったときのことである。慶應の文学部であった。一年目は日吉のキャンパスで、教養課程になる。ちょうど私が入学した年からのことだったと思うが、三田の方から各学科から一人ずつ専門の先生がきて、特別に一コマ(通年)の講義があった。そのとき、国文科からは池田彌三郎先生の講義があった。教材は「百人一首」であった。

つかったテキストは、その当時の角川文庫版の『百人一首』(島津忠夫訳注)であった。これは、その当時において、「百人一首」の注釈書としては最高水準のものであった。その後、改訂新版が出て、これは、今でも「百人一首」の注釈書としては不動の地位にあるといっていいだろう。学生のときに使った、旧版の角川文庫の『百人一首』は、今でもしまってある。

池田彌三郎先生は、「ひゃくにんいっしゅ」とは言わなかった。「ひゃくにんしゅ」と言っていた。江戸っ子の言い方を伝えていたということである。

そのころ、国文学を勉強する学生が読んでおくべき本としてあったのが、岩波文庫の『百人一首一夕話』である。江戸時代に書かれた、啓蒙的な「百人一首」の解説であり、おもにその作者をめぐるいろんなエピソードが紹介されている。この本は、二回ぐらい読んだ。

「百人一首」は、近年になって急速に研究の進んだ文学作品の一つである。その成立、また、受容の歴史については、さまざまなことが分かってきている。特に成立論については、学生のころに学んだ知識では、追いつかなくなってきている。

第一回を見て思うこと、というか言いたいことはいくつかある。

山部赤人の「田子の浦……」の歌であるが、これは、『万葉集』にあるが、「百人一首」では改められている。(このようなことは、「百人一首」の注釈書なら書いてあることである。)「百人一首」にはこのような改作がある。それは、和歌の歴史、日本語の歴史をふまえて、理解しなければならないことになる。

番組の中で、和歌を書くと言っていた。おそらく「百人一首」は書かれたものとして成立したといっていいだろう。しかし、和歌の歴史をさかのぼれば、そもそもは書くものではなかった。まず、声に出して詠むものであったはずである。『万葉集』の歌の多くは、まず声に出して詠むものとして成立したと考える。ただ、全部がそうであるということではなく、一部には書かれたものもあったろう。そして、それは木簡が使われたとおぼしい。歌木簡の出土例などから、そう考えるのが、現在では妥当だろう。

昔は妻問婚で歌が必須であった。まあ、たしかにそうなのだろうが、これはやはり貴族階層に限って、と考えておくべきことかと思っている。一般の庶民にとって歌とはどんなものだったのか、これは分からないとすべきかもしれない。

ただ、日本文学における歌の歴史、受容ということを考えるとき、「百人一首」を手がかりとして、勉強することが有効であることは、これは私が学生だった昔も今も変わらないと思う。

2024年11月6日記

ザ・バックヤード「東京国立近代美術館」2024-11-07

2024年11月7日 當山日出夫

ザ・バックヤード 東京国立近代美術館

ここには何度か足をはこんでいる。高畑勲展は行った。東京で学会か何かあったときだったろうか。

番組のなかで紹介されていた、岸田劉生の「道路と土手と塀」は、その前に立ってしばらくの時間見ていたことを思い出す。強調していうならば、この絵を見てから、風景というものを人間がどのように認識するのか、ということについて改めて考えることになったといってもいいだろう。あるいは、芸術家がものを見る目とは何であるか、といってもいいかもしれない。

文化財の修復が可逆的なものでなければならない、というのは常識的なことだろう。近代の絵画に限らず、日本の古来からの絵画などについても、表装してある場合、将来において、それをやりなおすことができるように、そのときに作品を損傷することのないように、これは基本であると思っている。

絵を壁にかけるときのフックが映っていたが、見ると「MOMAT」と刻印してあった。つまり、これらは東京国立近代美術館の特注品であるということになる。

専門家は知っていることだが、東京国立近代美術館のみならず、国立西洋美術館や東京国立博物館などは、書物などの文献資料も多くコレクションしている。専門の研究者向けには、基本的にオープンなものとして運営されているはずである。

2024年10月31日記