『おむすび』「うち、ギャル、やめるけん」 ― 2024-11-10
2024年11月10日 當山日出夫
『おむすび』「うち、ギャル、やめるけん」
結は農業を継ぐと言い出して、家の仕事を手伝っている。その結の姿は、翔也の目には、もとのさびしそうな顔に見える。後継者不足が心配な糸島の農業としては、結が後を継ぐと言い出したのは、喜ぶべきことであったには違いない。
だが、このドラマは最終的には、結は栄養士になる、という設定のはずだから、農業は継がない、ということになる。このあたりの筋書きは、地方出身の女性が都会に仕事を求めて出て行く……大きく見れば、現代の時代の流れを描いているということなのだろうと思う。
このドラマでは、一九九五年の震災のことを、そうリアルに描くということはないが、しかし、それが、それを体験した人びとにどのような気持ちの負担として残っているのか、ということを丁寧に描いていると感じる。結もそうであるが、姉の歩も、また父親も母親も、なにがしか神戸での出来事を背負って生きている。こういう人間の心情を描くのには、効率的な手段はなじまない。時間をかけてじっくりと描いていくのが一番いい。それにつきあうというのも、ドラマを見ていくことの楽しみである。
人間の気持ちは、時間の経過によって変わっていくものである……当たり前のことなのだが、これをドラマで描くのは、かなり難しいことである。作り手としては、主人公として変わらないキャラクターを設定した方が楽にはちがいないと思うが、このドラマは、そのような安直な方法をとっていない。(だが、一方で、登場人物のなかには、変わらないキャラクターがいることは、安心感につながる。糸島の祖父母であったり、さらには、神戸の人たちということになるのだろう。)
次週、結は栄養士になる、と言っていたが、どういう経緯でその資格を取ることになるのだろうか。
2024年11月9日記
『おむすび』「うち、ギャル、やめるけん」
結は農業を継ぐと言い出して、家の仕事を手伝っている。その結の姿は、翔也の目には、もとのさびしそうな顔に見える。後継者不足が心配な糸島の農業としては、結が後を継ぐと言い出したのは、喜ぶべきことであったには違いない。
だが、このドラマは最終的には、結は栄養士になる、という設定のはずだから、農業は継がない、ということになる。このあたりの筋書きは、地方出身の女性が都会に仕事を求めて出て行く……大きく見れば、現代の時代の流れを描いているということなのだろうと思う。
このドラマでは、一九九五年の震災のことを、そうリアルに描くということはないが、しかし、それが、それを体験した人びとにどのような気持ちの負担として残っているのか、ということを丁寧に描いていると感じる。結もそうであるが、姉の歩も、また父親も母親も、なにがしか神戸での出来事を背負って生きている。こういう人間の心情を描くのには、効率的な手段はなじまない。時間をかけてじっくりと描いていくのが一番いい。それにつきあうというのも、ドラマを見ていくことの楽しみである。
人間の気持ちは、時間の経過によって変わっていくものである……当たり前のことなのだが、これをドラマで描くのは、かなり難しいことである。作り手としては、主人公として変わらないキャラクターを設定した方が楽にはちがいないと思うが、このドラマは、そのような安直な方法をとっていない。(だが、一方で、登場人物のなかには、変わらないキャラクターがいることは、安心感につながる。糸島の祖父母であったり、さらには、神戸の人たちということになるのだろう。)
次週、結は栄養士になる、と言っていたが、どういう経緯でその資格を取ることになるのだろうか。
2024年11月9日記
『カーネーション』「移りゆく日々」 ― 2024-11-10
2024年11月10日 當山日出夫
『カーネーション』「移りゆく日々」
このドラマの映像には、色気がある。あるいは、けれんみがある。いまどき、このようなことを感じるドラマは少ない。
糸子は生地屋につとめることになる。そこで生地を売るとき、採寸して型紙を作るという過程を省略して、直接、人の体に布をあてて裁断するという方法をとる。これは、生地を売る、あるいは、縫製をするという観点からは、合理的な方法であるかと思うのだが、残した型紙の再利用ということができない。はたして、総合的にはどう考えるべきことなのだろうか。
だが、このとき、糸子が考え出した方法が、後に役立つことになる。それは、ドラマが進んで、娘たちの時代になってからのことである。
このドラマの良さの一つは、何度でも書くことになるが、説明的な台詞やナレーションではなく、映像と演技、演出で表現していることである。さりげないことであったが、呉服店で売るものがなくなったので、タワシを売っていた。それを母親の千代が怪訝そうな顔つきで手にしていた。これだけで、もう呉服店ではなくなってしまったことが伝わってくる。
これは、岸和田の街、というところから離れないでドラマを作るという方針で、その岸和田の町並みや、小原の家のこと、近所の家のことなど、限定してそこを非常に細かく作ってある、という姿勢が成功したということになると思っている。(このドラマを見るのは、三度目ぐらいになるはずだが、最後まで岸和田の街と、小原の家が舞台になる作り方をしている。)
クリスマスケーキのシーンは非常に印象に残る。糸子の思いのみならず、おばあちゃんや、母親、それから妹たち、そして、父親の善作、これらの人びとの気持ちの錯綜を、じっくりと描いていた。それから、神戸の家に行って、年老いた祖父母の姿を目にして、世代の移り変わりを実感することになる。このあたりの脚本、演出は、とてもうまいと思うところである。
昭和の初めのころ、岸和田でクリスマスケーキが売られていたかどうか気にならないではない。しかし、善作がひっくりかえしてしまったケーキをひろって、それをお箸で(スプーンやフォークではなく)食べているところを見ると、さもありなんという気になる。こういうところが、このドラマの作り方の良さだと感じる。
糸子は自分で洋裁師と言ってはいるが、依然として着物姿のままである。神戸の家に行くと、洋服姿の家族もいる。岸和田の街が、時代のながれのなかでおくれている、いや、神戸のお金持ちの家が進んでいる、ということがよく分かる。
2024年11月9日記
『カーネーション』「移りゆく日々」
このドラマの映像には、色気がある。あるいは、けれんみがある。いまどき、このようなことを感じるドラマは少ない。
糸子は生地屋につとめることになる。そこで生地を売るとき、採寸して型紙を作るという過程を省略して、直接、人の体に布をあてて裁断するという方法をとる。これは、生地を売る、あるいは、縫製をするという観点からは、合理的な方法であるかと思うのだが、残した型紙の再利用ということができない。はたして、総合的にはどう考えるべきことなのだろうか。
だが、このとき、糸子が考え出した方法が、後に役立つことになる。それは、ドラマが進んで、娘たちの時代になってからのことである。
このドラマの良さの一つは、何度でも書くことになるが、説明的な台詞やナレーションではなく、映像と演技、演出で表現していることである。さりげないことであったが、呉服店で売るものがなくなったので、タワシを売っていた。それを母親の千代が怪訝そうな顔つきで手にしていた。これだけで、もう呉服店ではなくなってしまったことが伝わってくる。
これは、岸和田の街、というところから離れないでドラマを作るという方針で、その岸和田の町並みや、小原の家のこと、近所の家のことなど、限定してそこを非常に細かく作ってある、という姿勢が成功したということになると思っている。(このドラマを見るのは、三度目ぐらいになるはずだが、最後まで岸和田の街と、小原の家が舞台になる作り方をしている。)
クリスマスケーキのシーンは非常に印象に残る。糸子の思いのみならず、おばあちゃんや、母親、それから妹たち、そして、父親の善作、これらの人びとの気持ちの錯綜を、じっくりと描いていた。それから、神戸の家に行って、年老いた祖父母の姿を目にして、世代の移り変わりを実感することになる。このあたりの脚本、演出は、とてもうまいと思うところである。
昭和の初めのころ、岸和田でクリスマスケーキが売られていたかどうか気にならないではない。しかし、善作がひっくりかえしてしまったケーキをひろって、それをお箸で(スプーンやフォークではなく)食べているところを見ると、さもありなんという気になる。こういうところが、このドラマの作り方の良さだと感じる。
糸子は自分で洋裁師と言ってはいるが、依然として着物姿のままである。神戸の家に行くと、洋服姿の家族もいる。岸和田の街が、時代のながれのなかでおくれている、いや、神戸のお金持ちの家が進んでいる、ということがよく分かる。
2024年11月9日記
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