『光る君へ』「輝きののちに」2024-11-11

2024年11月11日 當山日出夫

『光る君へ』「輝きののちに」

見ながら思ったことを、思いつくままに書いてみる。

『源氏物語』執筆の流れとしては、宇治十帖を書いているころにことになるのかと思うが、はっきりとそれをうかがわせるところはなかった。『源氏物語』を読んでいると、確実に宇治十帖になって、何かが変わったと感じる。物語の構成、登場人物の境遇など、それまでとは違う。宇治十帖の別作者説には、一定の説得力があると思っている。だが、『源氏物語』を書けるほどの作者でないと、宇治十帖は書けないだろうと感じるところもある。

ドラマの作り方としては、宇治十帖の別作者説、場合によっては大弐三位説を、採用してはいない、ということになる。『源氏物語』は、作者(紫式部)「桐壺」から順番に書いていったという設定にしてある。これはこれで、一つの立場である。(もっとも無難な選択だろう。)

政とは何か、道長と実資が話しをする場面は面白かった。実際に平安時代の貴族にとっての政治とはどんなものであったか、どのように考えられていたか、ということはあるには違いないが、まあ、ここはドラマである。現代の目から見て、政治家はどのようであるべきか、一つの考え方が示されていたと理解しておいていいだろう。

志をもっているものが権力を手にすれば変わる……これは、今も昔も、洋の東西を問わず、そのとおりかと思う。今の日本でもそうだろう。

ただ、平安時代の貴族にとっては、民とは何だったのだろうかとは思う。少なくとも、国家とか国民とかという概念はまだなかったにちがいない。このような概念が生まれてくるのは、『坂の上の雲』の時代のことだろうと思う。

三条天皇は、天皇親政を望んでいるのだが、平安時代の天皇と政治の実態とは、どのようなことであったのか、気になるところではある。

この回でも、道長は、三条天皇の譲位を仲間の公卿たちに相談していた。宮中で内々に根回しをするということである。イメージとしては、摂関政治のころ、道長の独占的な権力と考えがちなのだが、実際は合議を経て決めたことであった……という描き方である。

賢子と双寿丸は恋仲といっていいのだろうが、それを見て、母親のまひろは、新しい若い人の時代だということを言っていた。平安貴族は、概して尚古的、つまり昔の時代の方が良かったと考えるものだと思うのだが、ここのところは、時代が変わることによって、新しい感覚になっていくということであった。

そういえばであるが、この時代は、末法思想が貴族たちの間で流行した時代と一般には認識されているはずだが、このドラマでは、そのような気配は感じさせない。

偏つぎの遊びをしていたが、このとき、東宮は七才と言っていた。この時代としては、数え年だろうから、今でいう五才から六才ぐらいになる。小学校に入るかどうかの年齢である。この年齢で、漢字を知っているというのは、とても賢いというべきだろうか。

オウムが登場していたが、あの時のオウムなのだろうか。

倫子が赤ちゃんを抱いているシーンは、微笑ましいのだが、しかし、この時代の貴族なら、乳母が側にいないといけないと感じる。(演出の都合で画面に入れたくなかったということでいいだろうか。)

清少納言がなんだかおだやかな感じになっていた。清少納言の人生の終わりはよく分かっていないはずと思っているが、はたしてどんなだったろうか。ドラマとしては、幸福に定子なきあとの人生をすごしたということのようである。

琵琶をひくまひろとそれを聞く賢子が、なんともいえずしんみりとしてよかった。

まひろの家での宴会のシーン。芸能としては架空のものにちがいないが、なんとなくあんなものだったろうかと思わせるところがあった。これはこれで面白い。

『光る君へ』が始まったときから感じていることであるが、この脚本は、人名を訓読させる方針である。たしかに、道長を「みちなが」と読んでいるのに、彰子を「しょうし」と音で読むのは、整合性に欠ける。とはいえ、その人名の読み方の根拠、つまり「名乗り」であるが、これはいったいどういう考証によっているのだろうか。このあたりのことが、気にはなっている。(説明しておくと、人名でだけ用いる漢字の訓のことを「名乗り」という。現代では、漢和辞典で多く示されるようになったが、少し前までは、古い『大字典』が便利だった。さかのぼれば、それ専用の辞書の類もあった。)

まひろの父親の為時は、越後守の任を終えて帰ってきた。受領として、がっぽりと儲けて帰ってきたのだろうと思うのだが、まひろの家の様子は、さほど豊かになったようには見えない。

双寿丸は太宰府に行くという。武者なのだが、太刀は持っていない。そのような上の身分の武士ではない、下っ端ということなのだろうか。

さて、次週は、道長が「この世をば……」の歌を詠むらしい。『源氏物語』はどうなるだろうか。

2024年11月10日記

「もうひとつの源氏物語 〜王朝の武者 源頼光・頼信兄弟〜」2024-11-11

2024年11月11日 當山日出夫

英雄たちの選択 シリーズ平安時代 (2)もうひとつの源氏物語 〜王朝の武者 源頼光・頼信兄弟〜

再放送である。最初のときのを見損ねていた。

この番組の良さというか面白さは、おそらく歴史学としてはそこそこのレベル(といっては失礼かもしれないが)であって、同時に、まあ人間とはそういうものだよなあ、という感想をいだくところにあると思っている。これは社会科学(とあえていってみるが)としての歴史学というのとは、ちょっと違った視点であろう。

武士というのが、平安時代にその源流がある、ということは知られていることである。それを、下から、つまり在地の実力のある土豪たち(といっていいのかどうか、歴史学の用語はしらないのだが)から考えるか、上から、つまり番組のなかで出てきたことばでいえば、軍事貴族ということから考えるのか、おそらく二つの方向があるだろうと思う。この両者の利害が一致したところに武士という人たちが歴史のなかに登場するということだと、理解していいかと思っている。

武士といっても人間である。ボスが必要になる。そのボスとして軍事貴族が頭角を現してくる。ボスに対しては、命令に従わなければ殺されるという恐怖から従うことになるのか、それとも、ボスのことを信頼してついていけば自分のことを守ってくれるから従うことになるのか……このようなことは、平安時代からあったにちがいない。この意味では、軍事貴族が地方の武士たちを従えていく過程として、それを守ってやるということで実力をつけてきた、ということになる。これが、この番組での理解である。

それから、磯田道史は、歴史学の専門家としては、江戸時代の武士が主な研究対象であるとしていいだろう。現在、一般に思われている武士の忠義というものが、いつごろどのようにして形成されてきたものなのか、ということも興味がある。

江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃などに描かれた武士の忠義、これは、近代以降になって講談や時代劇映画などで、広く認識されるようになったものだろう。では、それ以前はどうだったのか。『太平記』など読んだ印象としては、ちょっと違う。確かに主君に対しての忠誠心はあるのだが、同時に非常に功利的でもある。『平家物語』における武士の生き方は、読んで共感するところもあるが、しかし、いわゆる武士道というものとは違っている。

平安時代の武士はどうだったのか。自分たちが生きのこるためには、ボスである主人を選ぶ。それも、同時にいくつかの関係をもって、リスクヘッジをしていた。これは、まあなるほどそういうものだったろうと思う。一途な主君と従者という関係ではなかったようである。

武士のボスになるのに必要な要件は、調停者としてすぐれていたということ。これは、そうかなと思う。在地の武士たちの所領争いの調停能力がすぐれていたものが、権力をもつようになる。そうして出来上がったのが鎌倉幕府であると考えると、そうかなあと思う。

この番組を見て思ったことの一つは、受領というのは、いったいどれぐらい儲けていたのだろうか、ということである。『光る君へ』を見ていると、紫式部の父親の為時は、清廉な学者として描いてあるが、実際はどうだったのだろう。がっぽりと儲けていて、その財力があったから、紫式部は『源氏物語』を書くことが出来た、ということであってもいいかなと思う。『源氏物語』を読むと、明石の入道などは、在地の実力者で、相当かせいでいるようである。

『今昔物語集』などに出てくる武士も面白い。テレビの時代劇でイメージする江戸時代の武士とは違って、なまぐさく躍動感がある。

2024年11月5日記