「底のない暗闇へ イスラエルとガザの1年」2024-11-16

2024年11月16日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「底のない暗闇へ イスラエルとガザの1年」

二〇二四年、イギリスの制作。

前後編、録画しておいて続けて見た。

イスラエルとパレスチナをめぐっては、いろいろとドキュメンタリー番組が作られている。そのいくつかは見たのだが、これほど、人の憎しみの感情をあからさまにとらえたものはなかったと感じる。

ガザについては、そこでの悲惨な状況、特に子どもが戦争の被害者である、ということが多く報道され、あつかわてきている。これは、たしかに事実としてそのとおりなのであるから、と思う。

この番組では、子どもの犠牲者の映像も映っているが、それ以上に印象的なのは、イスラエルの側、パレスチナの側、双方の相手に対する憎悪の感情である。憎しみの表情をインタビューでとらえるというのは、あまり日本のテレビではしないことである。怒りとか悲しみ、あるいは、喜びといった感情は表現するが。

憎悪の連鎖、それを断ち切るにはどうすればいいか……というのは、ありきたりの発想ではあるが、しかし、現実にはこの方向で模索するしかない。でなければ、強権的に紛争に武力介入して、壁を作ってしまうかである。これは、イスラエルとパレスチナの問題については、現実的ではないだろう。

ただ、この戦争については、やはりハマスの行ったことを非難することが必要であると思うところがある。人質をとって、それを解放しないで捕らえたままにしてあるというのは、イスラエルに対して戦争を継続させたい、アラブ諸国と戦争させたい、世界の国々がイスラエル(それからアメリカ)を非難するようにもっていきたい、つまりは、イスラエルとパレスチナの共存ということを望んではいない、ということに思える。(このあたりのことは、専門家はどう考えているのか気になるところであるが。)

その結果、パレスチナの人びとのなかに生まれた、再生産され増幅されたというべきかもしれないが、イスラエルに対する憎悪の感情は、容易に消し去ることができない。不可能といってもいいだろうか。同じことは、イスラエルの側についてもいえる。

軍事作戦は、達成すべき目標を設定することが肝要であるが……それが達成できなければ次のプランに移行しなければならない……ハマス殲滅という目標は、とうてい達成不可能であるように思える。パレスチナの人びとの心のなかに生まれた憎悪の感情が源泉にある以上、また、ハマスという組織が正規の統治や軍の組織ではない以上、組織的に崩壊し無くなるということはありえないだろう。

この戦争のゆくえがどうなるかは、素人判断ではなんとも言うことはできないが、人びとの心の中の憎悪を消し去るのは容易なことではない。そして、現実にある人びと(イスラエルとパレスチナの両方)の憎悪の心情をふまえないでは、和平も実現しない。ここを直視しないでいる、日本のマスコミ(NHKをふくめて)の報道姿勢は、(古めかしいことばになっているが)平和ボケと言われてもしかたないだろう。アメリカがイスラエル支援を止めればいいとの主張もよく目にするが、しかし、報道は希望的観測を語ることではない。(先般のアメリカ大統領選挙がそうであったように。)

ただ、この番組では触れていなかったが、イスラエル中にも現政権の強硬姿勢を必ずしも支持しない、という立場がある。また、周辺のアラブ諸国も、イスラエルとの全面戦争は望んでいない(憶測であるが)ということぐらいは、かすかな望みとしてあるといっていいのかもしれない。

2024年11月15日記

『坂の上の雲』「(9)留学生(前編)」2024-11-16

2024年11月16日 當山日出夫

『坂の上の雲』「(9)留学生(前編)」

録画しておいたのをようやく見た。見ながら思ったことを書いてみる。

秋山真之、それから、秋山好古、この二人については、可能な限り軍服で登場させようとしているようだ。無論、軍人なのだから軍服を着ているのは当たり前であるが、その登場する場面は、なるべくそれを着用していることが不自然ではないところを選んで作ってある。

この回で、真之が軍服以外の服装だったのは、アメリカに渡る船の上。ここは、軍人とはいっても、一般の客船に乗るのだから、普通の服装ということだったのだろう。それから、米西戦争の新聞を手にした街角。しかし、マハンのもとを訪問したときは、軍服であった。ここは、軍人同士としての礼節と理解することになる。

好古が自分の家に帰って、くつろいでいるときは着物姿に着替えていた。さすがに、家の中でも軍服ではないだろう。

真之にしても、好古にしても、それぞれその役割をはたした人物として、このドラマでは描かれている。ドラマは、原作の司馬遼太郎の『坂の上の雲』もそうだが、その後の日露戦争後のことはほとんで描かれない。日露戦争をピークとして、あっけなく終わる。軍人としての役割を終えてしまったのちのことは、もう描く必要がないかのようである。言いかえると、ドラマのなかに登場しているかぎりは、軍人としての役割……戦争を勝利にみちびくため……をはたすだけの存在である。

これは、司馬遼太郎の作品に多く見られることでもある。歴史上の人物を、その時代がもとめた役割をはたす存在として、いわば技術者のように描く。古くは、源義経もそうだし、『国盗り物語』の斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、これらの武将はみな、それぞれの役割をはたして、それがなしとげられたのちは退場する(=死ぬ)ことになる。幕末をあつかったものでも、竜馬もそうであるし、大村益次郎もそうであるし、松本良順もそうである。西郷隆盛も、その役割をおえて最期をむかえる。

このドラマにおいても、真之と好古は、日露戦争の勝利という役割のためだけに、歴史上に存在したということになっている。これはこれで、一つの歴史小説の描き方である。

今から一〇年ほど前のドラマである。今、もし作るとしたら、どうだろうか。ロシアの帝国主義、東アジアにおける侵略主義、という側面をもっと露骨に描くことになるかもしれない。このドラマのことを批判的に見るならば、朝鮮の視点がはいっていないということが指摘できるだろう。閔妃暗殺事件のことが出てきていたが、これは親露政策をとってもらっては困るという、日本の思惑からそうなったということであった。なぜ、朝鮮の閔妃が親露的であったのかというあたりの事情にはふみこんで語ることがなかった。さらには、なぜ、朝鮮が日本のように近代化できなかったのか、という問いかけにつながる問題がある。だが、このような視点をもちこむには、このドラマの枠では無理かもしれないが。

真之はアメリカに渡るとき、どの航路をとったのだろうか。ニューヨークの自由の女神を船から見ているので、大西洋を渡ったことになるのだろう。昔に書いたことだが、ペリーが幕末に日本にやってきたときは、大西洋からインド洋を経て太平洋にはいって日本に来ている。これは、メルヴィルの『白鯨』の航路と重なる。

この時代、太平洋横断の航路でアメリカに行くということは、一般的ではなかったのだろうか。西海岸まで行ったとしても、東の方まで行くには大変だったかもしれない。ただ、この時代には、アメリカの大陸横断鉄道は開通はしている。

臥薪嘗胆というのは、子どものときに学校の教科書に出てきたので憶えている。今の時代の価値観からするならば、日本が帝国主義、軍国主義であった時代として、批判的に見ることになるのだが、明治という時代を肯定的に見るという、司馬遼太郎の発想にしたがうならば、国家予算のかなりを軍事費に使うことは、否定されるべきことではないことになる。この時代、国民もまたそれを理解していた、という描き方である。

『アメリカにおける秋山真之』と『ロシヤにおける広瀬武夫』は、買って持っている本なのだが、しまったままである。これらの本が出たのは、私が学生のころだったろうか。

2024年11月15日記