「アメリカ 市民たちの選択」 ― 2024-11-21
2024年11月21日 當山日出夫
ETV特集 アメリカ 市民たちの選択
中立的に作ってあるようでいて、だが、基本的にはリベラルより、というあたりのスタンスかなと感じる。まあ、まったく中立ということはありえないので、重要なのは異なる意見の主張がどうして生まれ、それが対立するようになっているのかの、冷静な分析だと思う。
出てきた、民主党支持、共和党支持、それぞれの主張は、これまでも多く報道などで接することのあったものである。特に目新しい主張というのはなかった(と私は見ていて思った。)
印象的だったのは、番組の終わりの方で出てきていた、民主党支持者と共和党支持者の対話。テーマは移民について。これは、妥協できるテーマとして設定したのだろうと思う。
そもそもアメリカが移民の国であることは否定しがたい事実である。また、現実にアメリカの労働力(それは実際には、強いて表現すれば下級の仕事であり、かつては黒人労働者の従事するような仕事であったことになるのだろう)が、移民によって支えられているという現実も否定できない。(これは偏見であるかもしれないとは、思うのではあるが。アメリカの移民労働者の実態ということが、日本ではほとんど報道されていない。)
不法な(合法的な手続きを経ていない)移民は入れないとして、ならば、どのような人数をどのような資格審査で入国を許すのか、そして、アメリカ国内において、どのように処遇するのか……このような論点については、たがいに譲歩と妥協の余地はある。
まったく移民を入れるな、ということは無理があるし、また、無制限、無許可でどんどん入れればいいというのも、現実的ではない。このような意味では、これは、日本のこれからの移民政策(=外国人労働者の受け入れ)についても、考えるべきことになると思っている。
移民については妥協できるテーマである。しかし、これが、妊娠中絶だったら妥協は難しいだろう。これは、認めるか、認めないかの二者択一の判断しかない。
ワシントンでの取材がメインであり、インタビューに出ていたのは、エリート知識人と言っていい人である。フランシス・フクヤマなどは、エスタブリッシュメントということになるだろう。だから、ものの考え方がリベラルよりであるのは、そうかなと思うが、番組の構成として、そこは割り引いて見ることになる。
多様性こそが重要である、これは確かにそのとおりである。DEIの重要性も、そのとおりである。だが、その一方で、極端なPC(政治的タテマエ、渡辺靖の言い方であるが)を抑圧、自分の言いたいことが言えない、と感じている人が少なからずいることも、また事実であろう。ここで問題になるのが、言われていることだが、寛容であるべきと、きわめて不寛容に強行に主張するリベラルへの反感、ということになる。ただし、これは、差別を容認するということではない。
しかし、少なくとも、人間が何を感じるかということの心の内面にまで踏み込んで、それは正しくない間違っていると言われることには、人間はなかなか素直になることはない。これは、人間とは、社会的文化的歴史的存在でもある、ということをどう考えるかことについての、基本的な人間観の問題である。このことは、左派、右派、あるいは、民主党支持、共和党支持、いずれにも言えることだいうのが、私の思うところである。人間は、完全に自由に理想的な考えをいだき行動できるものだ、というわけではない。これは、人間の意志、特に個人の自由意志とは何であるかということの、古来よりの問題でもある。古くからの保守主義の問題でもあるし、また、近年の行動科学の問題でもある。
つまり、民主党の理想を理解できない共和党がバカである、という単純な図式で考えてはいけないということである。(まあ、このような発想は、近年の日本でも多く見られることであるが。その典型が「劣等民族」。)
理念、理想は、ことばで説明されて理解しやすいことである。DEIと言われて、なるほどそうかと思う。だが、それに対して、実際に生活している人間の実感は、なかなか分かりにくい。卵やガソリンの値段が倍になってもさほど生活に影響のない暮らしの人びとと、それが毎日の生活に直結している人びとの生活実感は、異なるというべきだろう。自分は社会から見捨てられていると感じる人びとの感覚は考えられるべきである。これは、マイノリティの人びとについてもそうであるし、ラストベルトの労働者についてもそうである。(あるいは、社会の分断としては、階層対立というよりも、社会から見捨てられていると感じている各種の人びとの間の対立、と見ることもできるかもしれない。BLM、ラストベルトの人びとのことを思うと、そうも考えたくなる。)
重要なことの一つとしては、トランプ支持、共和党支持、という立場をとる人たちも、民主主義の制度にのっとっているということである。二〇〇一年の議会乱入事件をとりあげて、トランプ支持者は民主主義の破壊者であるとレッテル貼りをして見るのは間違っていると、私は思う。
何が正しいのかではない。そうではなく、自分はなぜそのような価値観をもつのかということについての自省と、自分とは異なる意見を持つ他者への想像力であると、私は思うのである。
ちょっと気になったのは、ゲイやトランスジェンダーの友達がたくさんいる、という発言。こういう人たちは、数が少ないからこそ、マイノリティとされるのである。そんなに簡単に見つけて友達になったりできるものなのだろうか。(性的指向も自分の自由意志で選ぶものであり、それが現代ではクールだと思っているということなのだろうか。自分の意志で選ぶことのできない性的指向だからこそ、それによって差別されてはならないというのが、私の理解である。自分で選ぶのであったならば、新自由主義的には自己責任ということになるが。)
2024年11月19日記
ETV特集 アメリカ 市民たちの選択
中立的に作ってあるようでいて、だが、基本的にはリベラルより、というあたりのスタンスかなと感じる。まあ、まったく中立ということはありえないので、重要なのは異なる意見の主張がどうして生まれ、それが対立するようになっているのかの、冷静な分析だと思う。
出てきた、民主党支持、共和党支持、それぞれの主張は、これまでも多く報道などで接することのあったものである。特に目新しい主張というのはなかった(と私は見ていて思った。)
印象的だったのは、番組の終わりの方で出てきていた、民主党支持者と共和党支持者の対話。テーマは移民について。これは、妥協できるテーマとして設定したのだろうと思う。
そもそもアメリカが移民の国であることは否定しがたい事実である。また、現実にアメリカの労働力(それは実際には、強いて表現すれば下級の仕事であり、かつては黒人労働者の従事するような仕事であったことになるのだろう)が、移民によって支えられているという現実も否定できない。(これは偏見であるかもしれないとは、思うのではあるが。アメリカの移民労働者の実態ということが、日本ではほとんど報道されていない。)
不法な(合法的な手続きを経ていない)移民は入れないとして、ならば、どのような人数をどのような資格審査で入国を許すのか、そして、アメリカ国内において、どのように処遇するのか……このような論点については、たがいに譲歩と妥協の余地はある。
まったく移民を入れるな、ということは無理があるし、また、無制限、無許可でどんどん入れればいいというのも、現実的ではない。このような意味では、これは、日本のこれからの移民政策(=外国人労働者の受け入れ)についても、考えるべきことになると思っている。
移民については妥協できるテーマである。しかし、これが、妊娠中絶だったら妥協は難しいだろう。これは、認めるか、認めないかの二者択一の判断しかない。
ワシントンでの取材がメインであり、インタビューに出ていたのは、エリート知識人と言っていい人である。フランシス・フクヤマなどは、エスタブリッシュメントということになるだろう。だから、ものの考え方がリベラルよりであるのは、そうかなと思うが、番組の構成として、そこは割り引いて見ることになる。
多様性こそが重要である、これは確かにそのとおりである。DEIの重要性も、そのとおりである。だが、その一方で、極端なPC(政治的タテマエ、渡辺靖の言い方であるが)を抑圧、自分の言いたいことが言えない、と感じている人が少なからずいることも、また事実であろう。ここで問題になるのが、言われていることだが、寛容であるべきと、きわめて不寛容に強行に主張するリベラルへの反感、ということになる。ただし、これは、差別を容認するということではない。
しかし、少なくとも、人間が何を感じるかということの心の内面にまで踏み込んで、それは正しくない間違っていると言われることには、人間はなかなか素直になることはない。これは、人間とは、社会的文化的歴史的存在でもある、ということをどう考えるかことについての、基本的な人間観の問題である。このことは、左派、右派、あるいは、民主党支持、共和党支持、いずれにも言えることだいうのが、私の思うところである。人間は、完全に自由に理想的な考えをいだき行動できるものだ、というわけではない。これは、人間の意志、特に個人の自由意志とは何であるかということの、古来よりの問題でもある。古くからの保守主義の問題でもあるし、また、近年の行動科学の問題でもある。
つまり、民主党の理想を理解できない共和党がバカである、という単純な図式で考えてはいけないということである。(まあ、このような発想は、近年の日本でも多く見られることであるが。その典型が「劣等民族」。)
理念、理想は、ことばで説明されて理解しやすいことである。DEIと言われて、なるほどそうかと思う。だが、それに対して、実際に生活している人間の実感は、なかなか分かりにくい。卵やガソリンの値段が倍になってもさほど生活に影響のない暮らしの人びとと、それが毎日の生活に直結している人びとの生活実感は、異なるというべきだろう。自分は社会から見捨てられていると感じる人びとの感覚は考えられるべきである。これは、マイノリティの人びとについてもそうであるし、ラストベルトの労働者についてもそうである。(あるいは、社会の分断としては、階層対立というよりも、社会から見捨てられていると感じている各種の人びとの間の対立、と見ることもできるかもしれない。BLM、ラストベルトの人びとのことを思うと、そうも考えたくなる。)
重要なことの一つとしては、トランプ支持、共和党支持、という立場をとる人たちも、民主主義の制度にのっとっているということである。二〇〇一年の議会乱入事件をとりあげて、トランプ支持者は民主主義の破壊者であるとレッテル貼りをして見るのは間違っていると、私は思う。
何が正しいのかではない。そうではなく、自分はなぜそのような価値観をもつのかということについての自省と、自分とは異なる意見を持つ他者への想像力であると、私は思うのである。
ちょっと気になったのは、ゲイやトランスジェンダーの友達がたくさんいる、という発言。こういう人たちは、数が少ないからこそ、マイノリティとされるのである。そんなに簡単に見つけて友達になったりできるものなのだろうか。(性的指向も自分の自由意志で選ぶものであり、それが現代ではクールだと思っているということなのだろうか。自分の意志で選ぶことのできない性的指向だからこそ、それによって差別されてはならないというのが、私の理解である。自分で選ぶのであったならば、新自由主義的には自己責任ということになるが。)
2024年11月19日記
「ふたつの敗戦国 日本 660万人の孤独」 ― 2024-11-21
2024年11月21日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト ふたつの敗戦国 日本 660万人の孤独
まったく余計なことから書いてみるが……ようやくというべきか、NHKの番組のなかでも強姦ということばが使われるようになった。これまで、婉曲的な表現がつかわれることが多かった。せいぜい性的暴行というぐらいだった。ソ連兵による満州の日本人女性への陵辱は、周知のことだったとはいえ、はっきり放送で語るということは、これまであまり無かったと、私は思っている。(おそらく、このようなことは、中国人が日本人に対してもあったと思うが、これは察しろということか。無論、それ以前に、中国や満州や朝鮮でのでの日本人による現地の人たちに対する横暴があったことも確かである。)
私の感覚だと、このテーマで取りあげるとすると、『流れる星は生きている』とか『朱夏』とか『大地の子』とか『ラーゲリより愛を込めて』などを思い浮かべる。これらは、読んでいる。こういう作品にまったく言及することがなかったというのも、これは一つの見識として見ていいことだろう。(私は、これらの本は多く読まれていいと思っているが。)
太平洋戦争が終わって、外地にいた日本人がどうであったか、どのようにして日本に帰還したのか、それからの生活はどうであったのか、このようなことについて、まとまって語られることはあまりなかったように、私は感じている。もし、語られるとしても、それは、戦争の加害者という側面を強調してのものだった。満州での開拓、それから、南洋のサイパンやテニアンなどで暮らした人びと。このような人びとを、現地の人びとに対する侵略者という視点であつかうことが多かった。
たしかに視点をかえれば、そのように見えることは否定しない。しかし、一方的に日本のやったこと、日本人がそこでおこなったことを、悪として断罪するだけでは、この時代の歴史、それから、今にいたる歴史、その大きな流れを把握できないとも思う。
世界での難民、避難民のことが報じられるたびに、私が感じてきたこととしては、かつての外地にいた日本人の人びとが、戦争が終わったあと、どのようであったかということである。難民、避難民ということは、遠い外国のことではなく、自分たちがかつて経験してきたことでもある、という感覚が大事なのだと思うのである。
中国残留孤児やその家族、子どもたちのことも、今日の視点からは、外国人労働者の受け入れ(=移民政策)と、その子供たちの日本での生活や教育という、まさにさしせまった問題につながることでもある。日本人とはいえ、小さいときから中国で育ち、日本語も忘れてしまったような人たちが、日本社会のなかでどう生きていくことができるのか、それをどう支援するのか、これは、これからの日本の問題でもある。
満州の開拓に行った人たちが、戦争で満州を追われ、日本で開拓に従事したが、そこも追われ……という話しは、見ていてなんともいえない気持ちになる。ブラジルにわたった人もいる(結果的にここで開拓に成功したからよかったのだが)。これは、その時代の日本の国策としては、いたしかたないという面もあるかもしれない。しかし、それにしても、もうすこしどうにかならなかったものかという思いが強い。成田空港の問題は、今ではもう忘れ去られてしまった過去のことかもしれない。私は、成田空港は作るべきであったという立場であるが、その歴史的背景については、忘れてはならないことが多くある。福島第一原子力発電所についても、六ヶ所村についても、同様である。これらは、日本にとって必要な施設であったとは認めるが、その土地の歴史を忘れていいということではない。
なかにし礼や野村達雄のことは、強いていえば社会的に成功した人であるから言える、ということもある。著名人のなかにも、その生まれは、旧満州のどこそこである、という事例はよく目にする。こういう人たちにとって、自己のアイデンティティーと創作活動とは、どこかでつながっているのだろう。
そして、このように有名な人ばかりではなく、無名の市井の人びとのことの方が、私としては気になることである。(昔、私が学生のとき下宿していた家の奥さんは、大連の女学校を出たと言っていた。)
それから、この番組では言っていなかったこと。外地にいたのは日本人だけではなかったはずである。朝鮮半島出身や台湾出身という人たちもいたにちがいない。これらの人びとは、どうであったのか、これも考えなければならないことである。しかし、現在の朝鮮半島情勢や中国と台湾の関係などを思うと、軽々にとりあつかうことはためらわれるところがあるかもしれない。
2024年11月20日記
映像の世紀バタフライエフェクト ふたつの敗戦国 日本 660万人の孤独
まったく余計なことから書いてみるが……ようやくというべきか、NHKの番組のなかでも強姦ということばが使われるようになった。これまで、婉曲的な表現がつかわれることが多かった。せいぜい性的暴行というぐらいだった。ソ連兵による満州の日本人女性への陵辱は、周知のことだったとはいえ、はっきり放送で語るということは、これまであまり無かったと、私は思っている。(おそらく、このようなことは、中国人が日本人に対してもあったと思うが、これは察しろということか。無論、それ以前に、中国や満州や朝鮮でのでの日本人による現地の人たちに対する横暴があったことも確かである。)
私の感覚だと、このテーマで取りあげるとすると、『流れる星は生きている』とか『朱夏』とか『大地の子』とか『ラーゲリより愛を込めて』などを思い浮かべる。これらは、読んでいる。こういう作品にまったく言及することがなかったというのも、これは一つの見識として見ていいことだろう。(私は、これらの本は多く読まれていいと思っているが。)
太平洋戦争が終わって、外地にいた日本人がどうであったか、どのようにして日本に帰還したのか、それからの生活はどうであったのか、このようなことについて、まとまって語られることはあまりなかったように、私は感じている。もし、語られるとしても、それは、戦争の加害者という側面を強調してのものだった。満州での開拓、それから、南洋のサイパンやテニアンなどで暮らした人びと。このような人びとを、現地の人びとに対する侵略者という視点であつかうことが多かった。
たしかに視点をかえれば、そのように見えることは否定しない。しかし、一方的に日本のやったこと、日本人がそこでおこなったことを、悪として断罪するだけでは、この時代の歴史、それから、今にいたる歴史、その大きな流れを把握できないとも思う。
世界での難民、避難民のことが報じられるたびに、私が感じてきたこととしては、かつての外地にいた日本人の人びとが、戦争が終わったあと、どのようであったかということである。難民、避難民ということは、遠い外国のことではなく、自分たちがかつて経験してきたことでもある、という感覚が大事なのだと思うのである。
中国残留孤児やその家族、子どもたちのことも、今日の視点からは、外国人労働者の受け入れ(=移民政策)と、その子供たちの日本での生活や教育という、まさにさしせまった問題につながることでもある。日本人とはいえ、小さいときから中国で育ち、日本語も忘れてしまったような人たちが、日本社会のなかでどう生きていくことができるのか、それをどう支援するのか、これは、これからの日本の問題でもある。
満州の開拓に行った人たちが、戦争で満州を追われ、日本で開拓に従事したが、そこも追われ……という話しは、見ていてなんともいえない気持ちになる。ブラジルにわたった人もいる(結果的にここで開拓に成功したからよかったのだが)。これは、その時代の日本の国策としては、いたしかたないという面もあるかもしれない。しかし、それにしても、もうすこしどうにかならなかったものかという思いが強い。成田空港の問題は、今ではもう忘れ去られてしまった過去のことかもしれない。私は、成田空港は作るべきであったという立場であるが、その歴史的背景については、忘れてはならないことが多くある。福島第一原子力発電所についても、六ヶ所村についても、同様である。これらは、日本にとって必要な施設であったとは認めるが、その土地の歴史を忘れていいということではない。
なかにし礼や野村達雄のことは、強いていえば社会的に成功した人であるから言える、ということもある。著名人のなかにも、その生まれは、旧満州のどこそこである、という事例はよく目にする。こういう人たちにとって、自己のアイデンティティーと創作活動とは、どこかでつながっているのだろう。
そして、このように有名な人ばかりではなく、無名の市井の人びとのことの方が、私としては気になることである。(昔、私が学生のとき下宿していた家の奥さんは、大連の女学校を出たと言っていた。)
それから、この番組では言っていなかったこと。外地にいたのは日本人だけではなかったはずである。朝鮮半島出身や台湾出身という人たちもいたにちがいない。これらの人びとは、どうであったのか、これも考えなければならないことである。しかし、現在の朝鮮半島情勢や中国と台湾の関係などを思うと、軽々にとりあつかうことはためらわれるところがあるかもしれない。
2024年11月20日記
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