「“百人一首” (3)リメイクの広がり」 ― 2024-11-22
2024年11月22日 當山日出夫
100分de名著 “百人一首” (3)リメイクの広がり
一般的な教養番組という枠で作ってあるので、そんなに細かなことを気にしなくてもいいことかとは思うが、ちょっと気になるところがあった。
番組のはじめで、芭蕉の俳句と言っていたが、これは、俳諧であるべきだろう。まあ、今では俳諧なんて用語は、日本文学を専門に勉強するような人でなければ使わないかもしれないけれど。俳諧から俳句、という変化は、日本文学史のなかでも重要なことの一つにちがいない。
「ちはやふる」の歌。この歌は、最初の回のときにも出てきたかと思う。最後が「みずくくるとは」となっていた。この部分、最近は「くくる」であるが、私の学生のころ(今から半世紀ほど前のころになるが)では、「くぐる」という本があった。国語史、日本語史の研究の結果、「くくる」に変わって、これが今では一般的になっている。だから、この歌を紹介するときには、これでいい。
しかし、落語の「崇徳院」の場合は、「くぐる」でないといけない。水のなかに身投げをするという強引な解釈を生むためには、「くぐる」でないと、意味が通じない。
とはいえ、このようなところまで、説明するとなると、この番組の範囲を超えたことになるのかと思う。(渡辺泰明さんが監修ということなのだが、いったいどう思っているのだろうか。)
江戸時代に『百人一首』が広く庶民の間に流行した、これは確かなことである。だが、それと同時に、江戸時代の出版文化のなかで、多くの古典(『万葉集』や、平安時代の多くの物語作品、『源氏物語』や『枕草子』、さらには『徒然草』とか、その他多くの、いわゆる古典文学作品)が、刊行されたということがある。こういう時代の背景、出版文化ということがあって、そのなかの一つに『百人一首』がある。おそらく、現在の常識的な日本文学史の理解としては、このようなものだろう。(このようなことがあって、国学が生まれ、近代になって国文学になっている。)
ことさらに『百人一首』だけを取りあげるのでは、大きな文化史的な背景を見ていないことになる。
2024年11月21日記
100分de名著 “百人一首” (3)リメイクの広がり
一般的な教養番組という枠で作ってあるので、そんなに細かなことを気にしなくてもいいことかとは思うが、ちょっと気になるところがあった。
番組のはじめで、芭蕉の俳句と言っていたが、これは、俳諧であるべきだろう。まあ、今では俳諧なんて用語は、日本文学を専門に勉強するような人でなければ使わないかもしれないけれど。俳諧から俳句、という変化は、日本文学史のなかでも重要なことの一つにちがいない。
「ちはやふる」の歌。この歌は、最初の回のときにも出てきたかと思う。最後が「みずくくるとは」となっていた。この部分、最近は「くくる」であるが、私の学生のころ(今から半世紀ほど前のころになるが)では、「くぐる」という本があった。国語史、日本語史の研究の結果、「くくる」に変わって、これが今では一般的になっている。だから、この歌を紹介するときには、これでいい。
しかし、落語の「崇徳院」の場合は、「くぐる」でないといけない。水のなかに身投げをするという強引な解釈を生むためには、「くぐる」でないと、意味が通じない。
とはいえ、このようなところまで、説明するとなると、この番組の範囲を超えたことになるのかと思う。(渡辺泰明さんが監修ということなのだが、いったいどう思っているのだろうか。)
江戸時代に『百人一首』が広く庶民の間に流行した、これは確かなことである。だが、それと同時に、江戸時代の出版文化のなかで、多くの古典(『万葉集』や、平安時代の多くの物語作品、『源氏物語』や『枕草子』、さらには『徒然草』とか、その他多くの、いわゆる古典文学作品)が、刊行されたということがある。こういう時代の背景、出版文化ということがあって、そのなかの一つに『百人一首』がある。おそらく、現在の常識的な日本文学史の理解としては、このようなものだろう。(このようなことがあって、国学が生まれ、近代になって国文学になっている。)
ことさらに『百人一首』だけを取りあげるのでは、大きな文化史的な背景を見ていないことになる。
2024年11月21日記
「ネズミの“楽園”実験 切り取られた研究成果」 ― 2024-11-22
2024年11月22日 當山日出夫
フランケンシュタインの誘惑 ネズミの“楽園”実験 切り取られた研究成果
これはいろいろと考えるところがあった。
見終わって、WEBを、カルフーンの名前で検索してみると、ユニバース25の実権に言及したものが見つかる。過密が、あるいは、ユートピアが、人類を滅ぼす、ということになっている。
科学(サイエンス)の問題として、ネズミについて分かったことが、そのまま人間社会にあてはまるのかどうか、という基礎的なところから、科学ジャーナリズム、科学コミュニケーションの問題まで、現代のわれわれが課題とすべき種々の問題におよんでいることになる。
すなおに研究結果をうけとめれば、ネズミと人間を単純に同一視はできないはずである。また、その一方で、行動シンクを抑制することも可能である、ということもある。これらを総合的に考えたうえで、では人間ではどうなのか、ということになるはずだが、そうならなかった、いや、今でもなっていないという現実がある。
はたして、現在の日本の、また、先進諸国で深刻化している人口減少を、カルフーンの研究と安直に結びつけて論じるてあいが、いるだろうか。(いてもおかしくはないと思うが、どうなのだろうか。強いて検索して探してみようとは思わないでいるけれど。)
人口減少については、歴史人口学の立場からの研究の方が有益であるように、私には思える。たとえば、ポール・モーランド『人口で語る世界史』。近代化がすすみ、女性の教育水準があがり、働く女性が増えれば、出産は減り、人口は減少する。ざっくばらんにいってこういうことだと思っているのだが、この考え方の方が説得力があると思える。
たしかに、今から数十年前は、爆発的に増える世界の人口が問題視された時代もあった。私も、そういう時代があったことを記憶している。そして、特に、都市の過密ということも、大きな社会問題であった。その時代を背景として、カルフーンの研究は、社会に受容されたということになる。
番組を見て興味深かったのは、行動シンクを抑制するには、ネズミに役割を与え、協力しなければ水が飲めないようにする、ということ。人間の社会での役割の変化というのは、現代社会の大きな課題である。急速な近代化、グローバル化、そして、さらにはAIの発達。人間の社会での意味が大きく変わろうとしている。
さて、このとき、カルフーンの実験はヒントになるだろうか。
ところで、科学の研究成果を分かりやすく人びとに伝えるということは、難しい。おそらく、今の社会で最も一般に誤解されている概念は、進化、ということかもしれない。(私自身、はっきりいって正しく理解してるとは思っていない。)
また、近年の問題でいえば、遺伝子と生育環境のことがある。親ガチャ、教育格差が問題となっているが、人間の能力は、生まれつきによるものなのか、教育によるものなのか、話題になることである。生物学や心理学などでの研究が、一般に広まるとき、どのような社会の価値観のバイアスをうけることになるのか、これらについては、より慎重でなければならないと思う。
動物の行動に人間の感情を投影して見てしまう。これはよくあることである。たとえば、雄と雌が、一夫一婦制である場合、あるいは、一夫多妻である場合、おそらく無意識のうちに、人間ではどうかという性倫理について考えてしまう、というところがある。NHKの動物をあつかった番組などでも、このような傾向を感じることが多い。いや、そうではなく、人間の考えることというのは、そういうものなのだ、ということになるのかもしれない。
2024年11月19日記
フランケンシュタインの誘惑 ネズミの“楽園”実験 切り取られた研究成果
これはいろいろと考えるところがあった。
見終わって、WEBを、カルフーンの名前で検索してみると、ユニバース25の実権に言及したものが見つかる。過密が、あるいは、ユートピアが、人類を滅ぼす、ということになっている。
科学(サイエンス)の問題として、ネズミについて分かったことが、そのまま人間社会にあてはまるのかどうか、という基礎的なところから、科学ジャーナリズム、科学コミュニケーションの問題まで、現代のわれわれが課題とすべき種々の問題におよんでいることになる。
すなおに研究結果をうけとめれば、ネズミと人間を単純に同一視はできないはずである。また、その一方で、行動シンクを抑制することも可能である、ということもある。これらを総合的に考えたうえで、では人間ではどうなのか、ということになるはずだが、そうならなかった、いや、今でもなっていないという現実がある。
はたして、現在の日本の、また、先進諸国で深刻化している人口減少を、カルフーンの研究と安直に結びつけて論じるてあいが、いるだろうか。(いてもおかしくはないと思うが、どうなのだろうか。強いて検索して探してみようとは思わないでいるけれど。)
人口減少については、歴史人口学の立場からの研究の方が有益であるように、私には思える。たとえば、ポール・モーランド『人口で語る世界史』。近代化がすすみ、女性の教育水準があがり、働く女性が増えれば、出産は減り、人口は減少する。ざっくばらんにいってこういうことだと思っているのだが、この考え方の方が説得力があると思える。
たしかに、今から数十年前は、爆発的に増える世界の人口が問題視された時代もあった。私も、そういう時代があったことを記憶している。そして、特に、都市の過密ということも、大きな社会問題であった。その時代を背景として、カルフーンの研究は、社会に受容されたということになる。
番組を見て興味深かったのは、行動シンクを抑制するには、ネズミに役割を与え、協力しなければ水が飲めないようにする、ということ。人間の社会での役割の変化というのは、現代社会の大きな課題である。急速な近代化、グローバル化、そして、さらにはAIの発達。人間の社会での意味が大きく変わろうとしている。
さて、このとき、カルフーンの実験はヒントになるだろうか。
ところで、科学の研究成果を分かりやすく人びとに伝えるということは、難しい。おそらく、今の社会で最も一般に誤解されている概念は、進化、ということかもしれない。(私自身、はっきりいって正しく理解してるとは思っていない。)
また、近年の問題でいえば、遺伝子と生育環境のことがある。親ガチャ、教育格差が問題となっているが、人間の能力は、生まれつきによるものなのか、教育によるものなのか、話題になることである。生物学や心理学などでの研究が、一般に広まるとき、どのような社会の価値観のバイアスをうけることになるのか、これらについては、より慎重でなければならないと思う。
動物の行動に人間の感情を投影して見てしまう。これはよくあることである。たとえば、雄と雌が、一夫一婦制である場合、あるいは、一夫多妻である場合、おそらく無意識のうちに、人間ではどうかという性倫理について考えてしまう、というところがある。NHKの動物をあつかった番組などでも、このような傾向を感じることが多い。いや、そうではなく、人間の考えることというのは、そういうものなのだ、ということになるのかもしれない。
2024年11月19日記
「筒井康隆の世界 〜文学界の巨人 90歳のメッセージ〜」 ― 2024-11-22
2024年11月22日 當山日出夫
筒井康隆の世界 〜文学界の巨人 90歳のメッセージ〜
見ていて思ったことなど、思いつくままに書いてみる。
まず、現役の作家……筒井康隆は存命であり、引退したというわけではない……について、このような番組を作ることは異例である。それだけ、筒井康隆という作家が、特に若い人を中心に読まれているということなのだろう。そうはいっても、かなり特殊な事例だという印象はある。死んでから特番を作るよりも、生きているうちにインタビューを撮っておいた方が、面白いものができるということはあるかもしれない。
荻野アンナが出てきていた。若いころ、学生だったとき、三田のキャンパスで顔を覚えている。たしか仏文だったはずである。芥川賞をとったとき、あああの女の子か、と思ったものである。そのころの慶應の文学部の雰囲気として、文学に興味関心のある学生にとって、筒井康隆は注目すべき作家の一人だったと。その時代は、一方で吉本隆明も広く読まれていた時代でもあった。(ちなみに、宗教社会学の宮家準先生は、『共同幻想論』を受業で読んでいた。これは、その当時としては珍しい例ということになるが。)
学生のとき、筒井康隆はかなり読んだ。その風刺、笑い、皮肉、そして、時代と社会に対する強烈な批判……これらは、たしかに筒井康隆の世界として、文学部の学生(文学に関心のある)に受容されていたものである。
私としては、どうしても、『朝のガスパール』のことは忘れることはできない。極端にいえばであるが、『朝のガスパール』のことをきっかけに、筒井康隆といえども、この程度の作家であったかと思ったことは確かなことである。
当時、今のアサヒネットがパソコン通信であったころのことである。これは、それまでのパソコン通信が、匿名(ハンドルネーム)であったのに対して、実名表示というシステムであった。朝日新聞社が、雑誌『朝日パソコン』を創刊するのにあわせてはじまった。たぶん、私は、これに申し込んだ最初期のユーザであったはずである。(いろいろとあって、その初代の社長の島戸一臣さんとも親しく話しをしたこともある。)
朝日新聞に筒井康隆が『朝のガスパール』連載するのにあわせて、パソコン通信で「電脳筒井線」というコーナーができた。これは、閉じたグループとして、その存在は隠されていた。参加していたユーザから見ると、新聞連載の小説と、パソコン通信上でのメッセージのやりとりが、同時並行してあって、パソコン通信でのことが小説に反映されていく(かのように作ってあった)、ということになる。
ここでは、かなり過激なやりとりがあったと私は記憶する。途中から、私は、「電脳筒井線」のなかで非常に批判的なスタンスで書くようになった。その一つの論点は、番組のなかで出てきた用語でいえば、メタフィクションということをめぐってであった。パソコン通信のなかで、その参加者のほとんどは、朝日新聞に連載の『朝のガスパール』という小説の「作者」が「筒井康隆」という作家であり、その同一の人物がパソコン通信「電脳筒井線」のなかでも発言している、という大前提であった。リアルな「筒井康隆」という作家が、パソコン通信のなかにもいるということである。
これはおかしいと私は感じた。パソコン通信「電脳筒井線」の中の「筒井康隆」と、朝日新聞に『朝のガスパール』を書いている「筒井康隆」が同一であるという保証がどこにあるのだろうか。「電脳筒井線」で言っている『朝のガスパール』と、朝日新聞に連載の『朝のガスパール』が同じ小説だと思いこんでいるのは、幻想にすぎないのではないか。どちらか、あるいは、両方がそれぞれに、フィクションの存在であってもかまわないのではないか。そうであるにもかかわらず、同じと見なしているだけのことである。
ここに参加している人の多くは、筒井康隆とパソコン通信上でやりとりできることを、何かの特権であるかのように感じている。これが、私には、どうにも我慢できないことであった。
「電脳筒井線」が始まるまえに、東京で参加者の会合があって出かけていったことがある。そのとき、挿絵を担当する真鍋博さんも出ていた。
パーティの席上で、私はこう言ったのを憶えている。これまでの、作者と読者の関係は、「1:N」の関係であった。それが、パソコン通信の世界では、「N:N」になる。まあ、このような発想は、インターネット以降、現代のSNSの時代になって当たり前になってきたことではあるが、その当時、このように考えている人間はまだ希だった。この世界では、「筒井康隆」といっても、「N」のなかの一つにすぎない存在となる。
この「N:N」の世界のなかでは、もはや中心は存在しない。「筒井康隆」を中心にした世界の一員であることに満足しているようではいけない。この「N:N」の世界のなかでは、自分自身が中心になった世界しか見ることができない。(このように予言的に言ったのだったが、これは、まさに今のSNSの世界でそうなってしまっていることになる。ユーザの数だけタイムラインがある。中心もなければ、正しいタイムラインなどは存在しない。)
朝日新聞連載の『朝のガスパール』が本物で、「電脳筒井線」はその影のような存在とほとんどの参加者が思っていたようだったのだが、これもおかしい。「電脳筒井線」こそが本体であって、その影が朝日新聞連載の『朝のガスパール』であってもおかしくない。この当時、まだネット上のことは虚構で、リアルの社会とは別のものであるという感覚が一般的だった。それが、現在では、ネットのなかにこそリアルを感じる社会に変貌してきてしまっているのは、周知のとおりである。
だが、上記のような考え方は、その当時の筒井康隆ファンであるような人たち、「電脳筒井線」のメンバーでもある、には理解してもらえなかったことになる。
初期のパソコン通信、PC-VANなどからはじめて、朝日ネットなどを経て、今のインターネットの時代まで、見てきて体験してきたというのが、私の経験してきたことである。そのなかで考えたこと、感じたことは、いろいろとある。そのなかでも、やはり、『朝のガスパール』のときに考えたことが、今の時代になっても、私がインターネットやSNSについて、考えるときの基本にあると感じるところである。
朝日ネットで「電脳筒井線」を始める前に、朝日ネットの社長の島戸一臣さんがこんなことを言っていたのを記憶している。メンバーのなかに人工知能を配置して応答するようにしたら面白い。これは、その当時としては、まさにSF的な話しであって、不可能なことであった。だが、これも、今ではAIの発達によって現実のものになってきている。
『朝のガスパール』でいろいろと発言していた、その多くは私に対して非常に敵対的であった、その人たちは今はどうしているだろうかと、考えてみることもある。
その他、この番組で触れなかった作品としては、『文学部唯野教授』のことなど、いろいろと思うことはある。また、教科書に採録の作品をめぐって、断筆宣言をしたときのことも、別の観点から考えるならば、文部省の教科書の検定のあり方についての問題でもあったことになる。しかし、世間ではこの論点からの議論がまったくなかったといってよい。
思うことは多々あるが、これぐらいにしておきたい。
2024年11月18日記
筒井康隆の世界 〜文学界の巨人 90歳のメッセージ〜
見ていて思ったことなど、思いつくままに書いてみる。
まず、現役の作家……筒井康隆は存命であり、引退したというわけではない……について、このような番組を作ることは異例である。それだけ、筒井康隆という作家が、特に若い人を中心に読まれているということなのだろう。そうはいっても、かなり特殊な事例だという印象はある。死んでから特番を作るよりも、生きているうちにインタビューを撮っておいた方が、面白いものができるということはあるかもしれない。
荻野アンナが出てきていた。若いころ、学生だったとき、三田のキャンパスで顔を覚えている。たしか仏文だったはずである。芥川賞をとったとき、あああの女の子か、と思ったものである。そのころの慶應の文学部の雰囲気として、文学に興味関心のある学生にとって、筒井康隆は注目すべき作家の一人だったと。その時代は、一方で吉本隆明も広く読まれていた時代でもあった。(ちなみに、宗教社会学の宮家準先生は、『共同幻想論』を受業で読んでいた。これは、その当時としては珍しい例ということになるが。)
学生のとき、筒井康隆はかなり読んだ。その風刺、笑い、皮肉、そして、時代と社会に対する強烈な批判……これらは、たしかに筒井康隆の世界として、文学部の学生(文学に関心のある)に受容されていたものである。
私としては、どうしても、『朝のガスパール』のことは忘れることはできない。極端にいえばであるが、『朝のガスパール』のことをきっかけに、筒井康隆といえども、この程度の作家であったかと思ったことは確かなことである。
当時、今のアサヒネットがパソコン通信であったころのことである。これは、それまでのパソコン通信が、匿名(ハンドルネーム)であったのに対して、実名表示というシステムであった。朝日新聞社が、雑誌『朝日パソコン』を創刊するのにあわせてはじまった。たぶん、私は、これに申し込んだ最初期のユーザであったはずである。(いろいろとあって、その初代の社長の島戸一臣さんとも親しく話しをしたこともある。)
朝日新聞に筒井康隆が『朝のガスパール』連載するのにあわせて、パソコン通信で「電脳筒井線」というコーナーができた。これは、閉じたグループとして、その存在は隠されていた。参加していたユーザから見ると、新聞連載の小説と、パソコン通信上でのメッセージのやりとりが、同時並行してあって、パソコン通信でのことが小説に反映されていく(かのように作ってあった)、ということになる。
ここでは、かなり過激なやりとりがあったと私は記憶する。途中から、私は、「電脳筒井線」のなかで非常に批判的なスタンスで書くようになった。その一つの論点は、番組のなかで出てきた用語でいえば、メタフィクションということをめぐってであった。パソコン通信のなかで、その参加者のほとんどは、朝日新聞に連載の『朝のガスパール』という小説の「作者」が「筒井康隆」という作家であり、その同一の人物がパソコン通信「電脳筒井線」のなかでも発言している、という大前提であった。リアルな「筒井康隆」という作家が、パソコン通信のなかにもいるということである。
これはおかしいと私は感じた。パソコン通信「電脳筒井線」の中の「筒井康隆」と、朝日新聞に『朝のガスパール』を書いている「筒井康隆」が同一であるという保証がどこにあるのだろうか。「電脳筒井線」で言っている『朝のガスパール』と、朝日新聞に連載の『朝のガスパール』が同じ小説だと思いこんでいるのは、幻想にすぎないのではないか。どちらか、あるいは、両方がそれぞれに、フィクションの存在であってもかまわないのではないか。そうであるにもかかわらず、同じと見なしているだけのことである。
ここに参加している人の多くは、筒井康隆とパソコン通信上でやりとりできることを、何かの特権であるかのように感じている。これが、私には、どうにも我慢できないことであった。
「電脳筒井線」が始まるまえに、東京で参加者の会合があって出かけていったことがある。そのとき、挿絵を担当する真鍋博さんも出ていた。
パーティの席上で、私はこう言ったのを憶えている。これまでの、作者と読者の関係は、「1:N」の関係であった。それが、パソコン通信の世界では、「N:N」になる。まあ、このような発想は、インターネット以降、現代のSNSの時代になって当たり前になってきたことではあるが、その当時、このように考えている人間はまだ希だった。この世界では、「筒井康隆」といっても、「N」のなかの一つにすぎない存在となる。
この「N:N」の世界のなかでは、もはや中心は存在しない。「筒井康隆」を中心にした世界の一員であることに満足しているようではいけない。この「N:N」の世界のなかでは、自分自身が中心になった世界しか見ることができない。(このように予言的に言ったのだったが、これは、まさに今のSNSの世界でそうなってしまっていることになる。ユーザの数だけタイムラインがある。中心もなければ、正しいタイムラインなどは存在しない。)
朝日新聞連載の『朝のガスパール』が本物で、「電脳筒井線」はその影のような存在とほとんどの参加者が思っていたようだったのだが、これもおかしい。「電脳筒井線」こそが本体であって、その影が朝日新聞連載の『朝のガスパール』であってもおかしくない。この当時、まだネット上のことは虚構で、リアルの社会とは別のものであるという感覚が一般的だった。それが、現在では、ネットのなかにこそリアルを感じる社会に変貌してきてしまっているのは、周知のとおりである。
だが、上記のような考え方は、その当時の筒井康隆ファンであるような人たち、「電脳筒井線」のメンバーでもある、には理解してもらえなかったことになる。
初期のパソコン通信、PC-VANなどからはじめて、朝日ネットなどを経て、今のインターネットの時代まで、見てきて体験してきたというのが、私の経験してきたことである。そのなかで考えたこと、感じたことは、いろいろとある。そのなかでも、やはり、『朝のガスパール』のときに考えたことが、今の時代になっても、私がインターネットやSNSについて、考えるときの基本にあると感じるところである。
朝日ネットで「電脳筒井線」を始める前に、朝日ネットの社長の島戸一臣さんがこんなことを言っていたのを記憶している。メンバーのなかに人工知能を配置して応答するようにしたら面白い。これは、その当時としては、まさにSF的な話しであって、不可能なことであった。だが、これも、今ではAIの発達によって現実のものになってきている。
『朝のガスパール』でいろいろと発言していた、その多くは私に対して非常に敵対的であった、その人たちは今はどうしているだろうかと、考えてみることもある。
その他、この番組で触れなかった作品としては、『文学部唯野教授』のことなど、いろいろと思うことはある。また、教科書に採録の作品をめぐって、断筆宣言をしたときのことも、別の観点から考えるならば、文部省の教科書の検定のあり方についての問題でもあったことになる。しかし、世間ではこの論点からの議論がまったくなかったといってよい。
思うことは多々あるが、これぐらいにしておきたい。
2024年11月18日記
最近のコメント