「吉田茂 占領下のワンマン宰相」2024-11-27

2024年11月27日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 吉田茂 占領下のワンマン宰相

吉田茂が死んで国葬になったときのことは記憶している。ニュースになったことは憶えているのだが、その国葬に合わせて黙祷したという記憶はない。このとき、全国的にはたしてどういう対応だったのだろうかと、今になって思い返すことになる。(余談ながら、国葬とはこういうものだというかすかな記憶のあることもあって、先般の安倍晋三元首相の国葬については、いろいろと賛成しかねると感じたものである。)

この番組に限らないが、最後まで見る。スタッフの名前を確認する。この回の場合、井上寿一の名前があった。やはり、吉田茂という、現代日本のさまざまな問題につながる人物を、その時代とともにふり返るとなると、ただ発掘してきた映像をつなげればいいというわけにはいかないだろう。

結果としては、吉田茂の事跡を、肯定的にも、また、マイナス面も、ふくめて総合的にとらえることができていたかと思う。無論、この番組の枠内であるから、比較的穏健な視点からであったという印象はあるが。

日本を独立に導いた英雄的宰相ともとれるし、日本をアメリカに売り渡した売国奴とも、評価できるかもしれない。

憲法のことについては、その制定のプロセスを見れば、アメリカ主導であったということになるが、それを押しつけであると否定的には考えていなかったようである。むしろ、アメリカにいいたいことをいわせて、実質的に日本の立場も守る、ということであっただろうか。白洲次郎のことばは、吉田茂のしたたかさについての証言ととらえることができると思う。

これは今にいたる議論であるが、日本の対米独立というテーマがある。これは、左派からも右派からも言われていることである。しかし、独立するということは、自前の軍備に金がかかるということでもある。

この番組では触れていなかったが、吉田茂は、後の六〇年安保闘争のとき、どのようであったのだろうか。条約を日米で対等なものにしようということは、決して理不尽なことではない。しかし、当時の国際情勢としては、冷戦のさなかにあって、反対意見に国民世論が傾いたということは、確かなことでもある。

こういう言い方がいいかどうかと思うが、吉田茂は、ナショナリスト、愛国者、それも、理念的にではなく実質的にどうであるかを見る現実的な……であったと感じるところがある。「戦争に負けても外交で勝つ」ということは、外交官としての実感の裏付けがあってのことだろう。(おそらく、この背景としては、第一次世界大戦後のヨーロッパの状況ということを、熟知してのことであったにちがいない。)

サンフランシスコ平和条約のときの、フィリピン代表の演説が印象に残る。たまたまであるにちがいないが、宮崎駿の発言が新聞などで報じられて話題になっているときである。

戦争について、賠償を求めないという方針であったことは、画期的なことだったと思うが、これは、その後の世界政治のなかで、どう評価されるべきことなのだろうか。

吉田茂のサンフランシスコでの演説が、英語ではなく日本語でなされた。それは、白洲次郎の進言によるものであった。これは、いろいろと考えることになる。(強いていえば、言語のナショナリズムというテーマになるだろうが。)

GHQの占領下にあって、日本の人びとは何を感じていたのか、どう思って暮らしていたのか、政治家は何を考えていたのか……ついこの前のことであるが、これを歴史として、どう考えるか重要な意味をもつようになってきている。

2024年11月26日記

「シリコン・デザート インド 砂漠化するIT都市」2024-11-27

2024年11月27日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「シリコン・デザート インド 砂漠化するIT都市」

二〇二四年、フランスの制作。

たまたまであるが、私の育った家は、小学校の低学年ぐらいまでだったと思うが、上水道が無かった。二〇〇メートルほどはなれたところに水道があって、そこまで水を汲みに行っていた。だから、上水道が完備していて、そこから飲める水がいつでも出てくるということが、当たり前であるということは、とても貴重なものであるということが、生活の実感として分かる。そのせいもあって、今でも、水を大切に使うという習慣は続いている。今から六〇年ほど昔の話しである。

インドのIT産業都市のことがテーマであるが、このような問題は、世界の各地で起こっていることであろう。地域の自然環境、生態系を無視して、強引に開発をすすめればどこかで無理が生じる。そして、そのしわ寄せは、この世のならいとして、貧しい人、弱い人ののところにくる。

IT企業で働く人たちがオフィスで仕事をする。その街では、水を売って金儲けをする人もいる。周辺の農地は水不足で仕事ができなくなり、都市部のスラムに住むしかなくなる。インドは、人口が増え経済大国へと進もうとしているが、同時に、自然環境の破壊と、社会的格差が増大している。

持続可能な都市、産業ということを考えなければならない。水の利用は計画的でなければならない。その一つの解決案は、水の再利用のシステムの確立ということになるのだろうが、これを新しい社会インフラとして整備するのは、なかなか大変そうである。

このような問題があるからといって、では、グローバルサウスの国々において、経済発展の政策を見なおせ、とは言えない。世界的な経済格差があるなかで、貧しい国は貧しいままでいろとは、言えることではない。せめて、計画的にことをすすめるように、というぐらいがせいぜいということになろう。

これは日本でも無関心でいることはできない問題である。水道事業の再編ということが課題になっている。人口の減少、地方の衰退、というようなことが言われるなかで、地方で人が生活するのに最低限のインフラは、水道と電気、それから、道路、さらには情報通信網、いうことになる。その数十年先のインフラ整備と、人口の問題は、深く関係することであるにちがいない。

水の無いところに人は住めない。この当たり前のことを、災害などのときには経験することになるが、災害時という特殊な事例のことにしてしまってはいけない。普通の生活をするために必要なことなのである、これは、未来に生きる人たちの人権の問題であり、社会正義の問題なのだ、という感覚を持つことが必要である。

2024年11月24日記

「ペリーならぬペリュー襲来!?長崎・フェートン号事件」2024-11-27

2024年11月27日 當山日出夫

英雄たちの選択 ペリーならぬペリュー襲来!?長崎・フェートン号事件

NHKの作る歴史番組のなかでは、この番組はよく見る。特に共感するということではないが、なるほどなあ、と思って見ていることが多い。それは、人間の判断(選択)ということに視点をおいて、歴史上の事件を描いているからである。私の若いころ、学生のとき、まだ唯物史観が強かったといっていいだろう。それが、科学的で正しい歴史学である、と喧伝するむきもあった。特に、大学で講じられるような歴史には、そのような傾向があったというべきだろうか。(そうではない研究もあったことは確かではあるが。)このような歴史には、人間の判断で動くものという考え方が、あまり入りこむ余地がない。

フェートン号事件であるが、江戸時代にイギリスとの間であった事件ということ以上の知識をもちあわせていない。

江戸時代の日本は「鎖国」をしていた、ということは、一般的に今でもいわれていることであり、一方では、見直しもなされていることである、ぐらいの知識である。まあ、ざっと考えても、「鎖国」とはいっても、オランダ以外にも清、朝鮮とは交易があった。また、ロシアともつながりがあったこともいわれるようになっている。「鎖国」というのは、国を閉ざすというよりも、幕府による外交の管理……相手国を極めて制限するもの……といった方が適切かもしれないぐらいに思っている。

江戸時代の幕府のインテリジェンスは、いったいどうであったのか、ということが、今回の番組の一つのテーマということになるだろう。番組のなかでは、インテリジェンスということばはつかっていなかったが。

これも、江戸幕府は、海外の事情をそれなりに収集してして知っていた、ということもあるかもしれないし、今回の番組でいわれたように、それは不十分なものであった、ということになるかもしれない。少なくとも、フランス革命以後のヨーロッパ諸国の動きが、ロシアをふくめて、日本にどういう影響があったのか、という大きな視点から歴史を見る必要はあるにちがいない。

ロシアの脅威、その東方政策、南下政策、そして、最近では北極海の覇権……このようなことについては、近年のロシアのウクライナ侵略(と書いておくが)から、大きく議論されるようになってきたと感じる。今のロシアのあり方は、さかのぼれば帝政ロシアの時代から、日本に大きな影響があたえてきた、ということになる。

近世の外交史、対外交易史、という分野は、とても興味深い研究テーマで、これからどんどん新たな知見が生み出されていくことだろうと思う。また、オランダという国の歴史から見た対日交易史というのは、東インド会社がつぶれたことなど、ほとんど一般に知られていないことであろう。

フェートン号事件のことについては、まずイギリスの船が、オランダの国旗をかかげている時点で、国際法違反だと思うのだが、ここのところはどうなのだろうか。それから、イギリスは、最終的にどのような目的で、この事件をおこしたのだろうか。日本におけるオランダの権益を奪いにきた、ということなのだろうか。それにしては、あっさりと引き下がってしまったように思える。

長崎奉行の松平康英は、運が悪かったというべきかもしれない。公家出身で旗本の養子になったという経歴だから、より武士であろうとした、という解釈はなるほどそういうものかなと思うところがある。

江戸時代、いや、それ以前においてもであるが、中央の江戸幕府とそう簡単に通信ができる時代ではない。つまり、現地の責任者が、現場の判断でことにあたらなければならない、という時代であった。こういう時代の責任者の判断についての感覚というのは、現代のように、いつでも中央省庁や本国と通信可能(これは傍受される危険性もあるのだが)である状況からは、かなり想像しにくいものになっているかもしれない。このあたりに、歴史のなかにおける人間というものについての想像力の必要ということになるのかと思う。これは、長崎奉行の松平康英にとっても、イギリスのペリューにとっても同じだったはずである。(だからといって、現場の独断専行が許されるということにはならないけれど。)

フェートン号事件のあと、いろいろとあって、最終的にはアメリカのペリーがやってきて、日本の開国になった。結果的に、日本は植民地になることなく、明治の時代をむかえたことになるが、そこにいたるまでの過程をみると、歴史の運不運、偶然というようなことを感じずにはいられない。

この番組の面白いところの一つには、ゲストに、鈴木康子が出てくるのは当然として(近世外交史の専門家として)、島田久仁彦が登場していることである。国際的な事件において、公式、非公式に、さまざまな交渉を経験している、その道のプロということになる。情報収集の重要さ、それから、どうやって相手の要求を理解するのか、どうコミュニケーションすることが可能か、そのテクニックというべきものは、なるほど今も昔も人間というものは変わらないものだな、という気になる。ただ、相手の政治的歴史的文化的背景ということも、重要なファクターであるにちがいないが。その時々のおかれた状況の見極めこそが重要なポイントかと思う。

捨足軽という存在は、もっと知られていていいことだと思う。状況にもよるが、人間の考えることは、そう変わらないということになるのかとも思ってしまう。

たまたま、『坂の上の雲』を見ていると、ちょうど日英同盟のところにさしかかっている。江戸時代から日本の世界のなかでのあり方として、アングロサクソン……つまりは米英ということになるが……とどうつきあうかという歴史であったとも見ることができようか。

日本が列強の植民地にならずにすんだことの歴史というのは、さまざまに面白いものである。

日本語学の立場からすると興味深いのは、フェートン号事件をきっかけにして、オランダ語以外に英語など他の外国語を学習するようになったことがある。このあたりは、日本語学のなかでも、かなり特殊な研究分野になる。私の若いころに勉強した範囲では、ほとんど言及されることのなかったことになる。日本における外国語の学習史というのは、これから重要な研究テーマになっていくかと思う。キリシタン文献、それから、漢文についての訓読については、非常に精緻な研究があるのだが、これは、他の言語や文献にもひろがっていくべきだろう。

2024年11月23日記