「アメリカ“中絶論争”の再燃 女性の権利をめぐり深まる分断」2024-11-28

2024年11月28日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「アメリカ“中絶論争”の再燃 女性の権利をめぐり深まる分断」

二〇二四年、フランスの制作。

日本にいて感じることとしては、母体の危険がある場合は(その程度にもよるかもしれないが)中絶は認められるべきだということになる。また、生まれてくる赤ちゃんが、無事に育つ見込みがない絶望的な状況についても、認められるだろう。

中絶をめぐる議論は、なかなか現実的な妥協点が見出しにくい。非常に観念的な対立になっている。自分の体は自分のものだから自分の自由にする権利があるという主張と、受胎したときから生命であり人間であるから中絶は認めるべきではないという主張との間には、へだたりがある。せめて、望まない妊娠、母体に危険がせまっている、という状況についてぐらいは、なんとなならないものかと思うが、妥協は難しい。

この番組を作ったのは、フランスの会社である。フランスはカトリックの国であるが、宗教的価値観と世俗的価値観の分離について厳格な国でもある、という認識でいる。人工妊娠中絶は認められている国であると承知しているのだが、実際のところはどうなのだろうか。社会の人びとの意識としては、どう感じているのだろうか。

アメリカの場合は、保守的な福音派キリスト教の影響が強い、ということになる。番組を見ていて、そこまで厳格に考えなくてもいいだろうとは思ってしまうのであるが、これは日本での感覚との違いということになるのかと思う。その一方で、自分の体のことは自分で決めるという主張にも、やや違和感を感じるところがある。中絶を支持するとしても、その理由であるリベラルな原理主義には、それがきわめて理念的なものであるがゆえに、素直に受けとめることができない部分もある。私の感覚では、中絶を容認する理由としては、母体の安全と子どもの幸福のため、というかなり現実的なところから考えることになる。

自分のことは自分で決めるので、他者の介入を許さない、というリベラル原理主義は、ものの考え方としてどうかなと思うところがある。人間は、そんなに完全な自由意志など持てるものでもない。また、個々の人間の生き方は尊重されなければならないが、社会の一員であるという側面もある。リベラルの原則にのっとることと、社会全体の調和ということとは、どこかで妥協しなければならないところがあるというのが、私の感じているところである。

宗教的価値観……この番組ではキリスト教のことが出てきていたのだが、これからはイスラムのことなども視野にいれて考えなければならない……、リベラルな価値観、また、実際の医療の場面における生命の尊重、これらの間に、対話の余地はないのだろうか、と思うのが見て感じるところである。

人工妊娠中絶の賛否については、まずそれが医学として十分に実用的で安全なものとして確立してからのことだろう。医学の歴史と、その賛否についての言説の歴史はどうなのだろうか。これは、歴史や文化的背景とともに、考えるべきテーマであるだろう。

私は人工妊娠中絶は認める立場である。しかし、すべての病院がそうであるべきとは思わない。熊本慈恵病院は、こうのとりのゆりかご、の病院として有名であるし、匿名出産もおこなっている。しかし、カトリックの方針として、この病院は中絶はおこなっていない。このような病院の方針は尊重されるべきであると考える。

2024年11月25日記

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