『光る君へ』「刀伊の入寇」 ― 2024-12-02
2024年12月2日 當山日出夫
『光る君へ』「刀伊の入寇」
紫式部は『源氏物語』を書き終えたあと、どうしていたのだろうか。
まひろ/藤式部は、「源氏の物語」を書き終わって、都を離れて旅に出る。このあたりの心情は、なんとなく分かるような気がする。一つ大きな仕事をなしとげた後、あらためて自分の生き方を探すことになる。そのために旅に出る。
ただ、旅というものを、このドラマではかなり現代的な感覚でとらえていることはたしかである。いにしえより、漂泊の詩人、歌人という存在はあった。だが、まひろは創作をもとめて旅に出たのではない。このドラマにおけるまひろの旅は、近代以降の旅行、観光、というような雰囲気がする。これはこれとして、ドラマの作り方だろう。
ふり返って先週の回、須磨の海岸を走るまひろの姿は、後宮でのつとめ、「源氏の物語」の執筆から解放された、その感情のほとばしりというべきものであった。このシーンは、歴代の大河ドラマのなかでの名シーンとして残るものになるかもしれない。
まひろはいったい何のために旅に出たのだろうか。道長から距離をとりたかったから、ということでいいのだろうか。都に居場所はないし、ものを書く気もしない。自分はもう終わってしまったと言っていた。書くことがすべてだったとも言っていた。
大宰府で乙丸が紅を買っていた。お土産なのだろう。このとき、銭はつかっていなかった。
紫式部が太宰府に行って、そこで刀伊の入寇の事件に巻きこまれるというのは、当然ながらフィクションであるにちがいないが、ドラマとしては面白い。それは、『源氏物語』ほどの作品を書き終わった後、これぐらいの大きな出来事に遭遇することでもないと、おさまりがつかない。それほど『源氏物語』というのは、偉大な文学作品である、ということになる。
刀伊の入寇については、『光る君へ』の放送が決まってから、NHKのいくつかの番組で取りあげていた。それまで、たしか学校の歴史の教科書に出ていたのを憶えているぐらいであった。これを契機に、平安時代の中期から後期にかけて、武士の時代の到来ということになる。
このとき、隆家は、現地の責任者の判断で行動したということになる。とてもかっこいい。
また、大宰府の隆家は、まいないを取らない、これは清廉な政治ということなのだが、しかし、これは、現代の政治の価値観を持ち込みすぎのような気もする。
しかるべく時代考証してのことだろうが、武士たちの武器は、弓矢と槍が主であった。刀剣を抜いての斬りかかるということにはなっていない。大宰府で、双寿丸がもっていたのは、棒であった。
それにしても刀伊の入寇のことまで描くことになるとは、『光る君へ』が始まったころは思っていなかった。たぶん時代考証で一番難しいのは、敵側の武器とか服装とかだろう。日本側の武士については、ある程度は史料が残っているはずだが、相手がどんなだったか、これは分からないかと思う。刀伊の敵兵は弩をつかっていた。歴史学に詳しいひとは、どう見るだろうか。
京の都では、赤染衛門が『栄華物語』を書いた、ということである。これを「歴史」であると言っていた。たしかに、『源氏物語』『枕草子』と並べると、「歴史」ということになる。そのなかでも、仮名文で書いた「歴史」ということになる。この原稿(?)であるが、まひろの場合と同じように、バラバラの紙に書かれて積み重ねてあった。これでは、運ぶ途中でうっかりしたら、床に落としたりして、とんでもないことになりそうである。
倫子が赤染衛門が話しをしているとき、猫がひもにつながれていた。この猫は、倫子の猫として何代目なのだろうか。
平安時代のこのころに、茶が飲まれていたということは、どうなのかと思うのだが、大宰府でならあり得たかな。始めて茶を飲んだ日本人は、いったいどんな顔をしただろうか。
次週、まひろは再び女房装束を着ることになるらしい
2024/12/01記
『光る君へ』「刀伊の入寇」
紫式部は『源氏物語』を書き終えたあと、どうしていたのだろうか。
まひろ/藤式部は、「源氏の物語」を書き終わって、都を離れて旅に出る。このあたりの心情は、なんとなく分かるような気がする。一つ大きな仕事をなしとげた後、あらためて自分の生き方を探すことになる。そのために旅に出る。
ただ、旅というものを、このドラマではかなり現代的な感覚でとらえていることはたしかである。いにしえより、漂泊の詩人、歌人という存在はあった。だが、まひろは創作をもとめて旅に出たのではない。このドラマにおけるまひろの旅は、近代以降の旅行、観光、というような雰囲気がする。これはこれとして、ドラマの作り方だろう。
ふり返って先週の回、須磨の海岸を走るまひろの姿は、後宮でのつとめ、「源氏の物語」の執筆から解放された、その感情のほとばしりというべきものであった。このシーンは、歴代の大河ドラマのなかでの名シーンとして残るものになるかもしれない。
まひろはいったい何のために旅に出たのだろうか。道長から距離をとりたかったから、ということでいいのだろうか。都に居場所はないし、ものを書く気もしない。自分はもう終わってしまったと言っていた。書くことがすべてだったとも言っていた。
大宰府で乙丸が紅を買っていた。お土産なのだろう。このとき、銭はつかっていなかった。
紫式部が太宰府に行って、そこで刀伊の入寇の事件に巻きこまれるというのは、当然ながらフィクションであるにちがいないが、ドラマとしては面白い。それは、『源氏物語』ほどの作品を書き終わった後、これぐらいの大きな出来事に遭遇することでもないと、おさまりがつかない。それほど『源氏物語』というのは、偉大な文学作品である、ということになる。
刀伊の入寇については、『光る君へ』の放送が決まってから、NHKのいくつかの番組で取りあげていた。それまで、たしか学校の歴史の教科書に出ていたのを憶えているぐらいであった。これを契機に、平安時代の中期から後期にかけて、武士の時代の到来ということになる。
このとき、隆家は、現地の責任者の判断で行動したということになる。とてもかっこいい。
また、大宰府の隆家は、まいないを取らない、これは清廉な政治ということなのだが、しかし、これは、現代の政治の価値観を持ち込みすぎのような気もする。
しかるべく時代考証してのことだろうが、武士たちの武器は、弓矢と槍が主であった。刀剣を抜いての斬りかかるということにはなっていない。大宰府で、双寿丸がもっていたのは、棒であった。
それにしても刀伊の入寇のことまで描くことになるとは、『光る君へ』が始まったころは思っていなかった。たぶん時代考証で一番難しいのは、敵側の武器とか服装とかだろう。日本側の武士については、ある程度は史料が残っているはずだが、相手がどんなだったか、これは分からないかと思う。刀伊の敵兵は弩をつかっていた。歴史学に詳しいひとは、どう見るだろうか。
京の都では、赤染衛門が『栄華物語』を書いた、ということである。これを「歴史」であると言っていた。たしかに、『源氏物語』『枕草子』と並べると、「歴史」ということになる。そのなかでも、仮名文で書いた「歴史」ということになる。この原稿(?)であるが、まひろの場合と同じように、バラバラの紙に書かれて積み重ねてあった。これでは、運ぶ途中でうっかりしたら、床に落としたりして、とんでもないことになりそうである。
倫子が赤染衛門が話しをしているとき、猫がひもにつながれていた。この猫は、倫子の猫として何代目なのだろうか。
平安時代のこのころに、茶が飲まれていたということは、どうなのかと思うのだが、大宰府でならあり得たかな。始めて茶を飲んだ日本人は、いったいどんな顔をしただろうか。
次週、まひろは再び女房装束を着ることになるらしい
2024/12/01記
ドキュメント20min.「嘘つき誰だ?」 ― 2024-12-02
2024年12月2日 當山日出夫
ドキュメント20min. 嘘つき誰だ?
企画の意図は分かるけれど、すこし時代遅れかなという気がしてしまう。SNSなどにおいて、人間が多重人格となりうることは、今さら言うほどのことではない。こんな言説は昔のパソコン通信の時代からあったことである。なぜ、人間は仮想空間のなかでは、別人格となってしまうのかということの意味、あるいは、そうなる人間についての、文化的、地域的、階層的、男女差、年齢差、その他の多様な面からの考察だろう。
もう今では、AIが勝手にメッセージを書いたり、RTしたり、という時代になっているということで考えなければならないと、私は思っている。
この番組では、「嘘つき」ということを悪いことという価値観で扱っている。しかし、ネット、仮想空間において、「本当」と「ウソ」を区別することの意味があるのだろうか。
素朴な意味でのリアルな人間社会における、「本当」と「ウソ」はあるし、それは、維持されなくてはならないものである。しかし、その規範意識をそのままネット空間に投影することは、ほとんど意味がない。一昔前、「ネチズン」あるいは、「WEB2.0」などということばで語られることのあった時代なら、まだかろうじて意味があったかもしれないが、もはやそんな時代ではない。
人間とはそういうものだというふうに、従来の人間観を根本的に考えなおさないといけなくなっているのが、今のネット社会であるというのが、私の認識である。人間を考えるとき、「本当」と「ウソ」というような、真と偽ではかれるような価値観では、考えることができない。虚実皮膜の間にあるというべきだろうか。
なお、番組を見ていて、PCに貼ってあったラベルには気がついた。文字を読むだけの時間的余裕はなかったけれど。
2024年11月30日記
ドキュメント20min. 嘘つき誰だ?
企画の意図は分かるけれど、すこし時代遅れかなという気がしてしまう。SNSなどにおいて、人間が多重人格となりうることは、今さら言うほどのことではない。こんな言説は昔のパソコン通信の時代からあったことである。なぜ、人間は仮想空間のなかでは、別人格となってしまうのかということの意味、あるいは、そうなる人間についての、文化的、地域的、階層的、男女差、年齢差、その他の多様な面からの考察だろう。
もう今では、AIが勝手にメッセージを書いたり、RTしたり、という時代になっているということで考えなければならないと、私は思っている。
この番組では、「嘘つき」ということを悪いことという価値観で扱っている。しかし、ネット、仮想空間において、「本当」と「ウソ」を区別することの意味があるのだろうか。
素朴な意味でのリアルな人間社会における、「本当」と「ウソ」はあるし、それは、維持されなくてはならないものである。しかし、その規範意識をそのままネット空間に投影することは、ほとんど意味がない。一昔前、「ネチズン」あるいは、「WEB2.0」などということばで語られることのあった時代なら、まだかろうじて意味があったかもしれないが、もはやそんな時代ではない。
人間とはそういうものだというふうに、従来の人間観を根本的に考えなおさないといけなくなっているのが、今のネット社会であるというのが、私の認識である。人間を考えるとき、「本当」と「ウソ」というような、真と偽ではかれるような価値観では、考えることができない。虚実皮膜の間にあるというべきだろうか。
なお、番組を見ていて、PCに貼ってあったラベルには気がついた。文字を読むだけの時間的余裕はなかったけれど。
2024年11月30日記
「“百人一首” (4)時空と国境を超えて」 ― 2024-12-02
2024年12月1日 當山日出夫
100分de名著 “百人一首” (4)時空と国境を超えて
日本の古典文学の受容の歴史の流れのなかにあって、『百人一首』が今どのようであるか、また、これからどうなっていくだろうか、という観点からは面白いものであった。
学問的には、そもそも古文の現代語訳ということの歴史から、たどる必要のあることである。本居宣長などの国学者の仕事、それから、近代になってからの国文学という学問の成立と、古典文学作品の一般への教育と普及、これらの流れのなかの一つとして、『百人一首』をとらえなければならない。この意味では、超訳といわる大胆な訳についても、日本文学研究の研究テーマである。『百人一首』以外では、近年話題の作品としては、『源氏物語』がある。これは、たくさんの現代語訳があるので、これについて研究することになる。
この『百人一首』のことで重要だと思うことは、歌を声に出して読む、という行為についてである。今、日本の学校の古典教育では、作品の音読ということを、あまり重視しない。(テキストの音読ということは、英語教育でも意味のあることだと思っているが、このごろの会話重視の英語教育ではどうなのだろうかとも思う。)
古めかしい言い方かもしれないが、ことばのリズムや感触といったものは、音読して分かる、という側面がある。一方、文字として表記から感じとる部分もある。総合して、文学教育、言語教育であると、私などは思う。こういうことは、このごろの新しい国語教育では、あまりかえりみられないことになっている。近年、日本語学という研究が、国語教育と距離をおくようになってきたということもある。(そのかわり、日本語を知らない外国人への日本語教育が大きくあつかわれるようになってきている。)
ところで、『百人一首』は、特にその成立論をめぐっては、近年になってから格段に研究のすすんだ作品である。しかし、この「100分de名著」では、成立論については触れることがなかった。強いてここの点について言及しなかったということは、これはこれで一つの見識であったとは思う。
2024年11月30日記
100分de名著 “百人一首” (4)時空と国境を超えて
日本の古典文学の受容の歴史の流れのなかにあって、『百人一首』が今どのようであるか、また、これからどうなっていくだろうか、という観点からは面白いものであった。
学問的には、そもそも古文の現代語訳ということの歴史から、たどる必要のあることである。本居宣長などの国学者の仕事、それから、近代になってからの国文学という学問の成立と、古典文学作品の一般への教育と普及、これらの流れのなかの一つとして、『百人一首』をとらえなければならない。この意味では、超訳といわる大胆な訳についても、日本文学研究の研究テーマである。『百人一首』以外では、近年話題の作品としては、『源氏物語』がある。これは、たくさんの現代語訳があるので、これについて研究することになる。
この『百人一首』のことで重要だと思うことは、歌を声に出して読む、という行為についてである。今、日本の学校の古典教育では、作品の音読ということを、あまり重視しない。(テキストの音読ということは、英語教育でも意味のあることだと思っているが、このごろの会話重視の英語教育ではどうなのだろうかとも思う。)
古めかしい言い方かもしれないが、ことばのリズムや感触といったものは、音読して分かる、という側面がある。一方、文字として表記から感じとる部分もある。総合して、文学教育、言語教育であると、私などは思う。こういうことは、このごろの新しい国語教育では、あまりかえりみられないことになっている。近年、日本語学という研究が、国語教育と距離をおくようになってきたということもある。(そのかわり、日本語を知らない外国人への日本語教育が大きくあつかわれるようになってきている。)
ところで、『百人一首』は、特にその成立論をめぐっては、近年になってから格段に研究のすすんだ作品である。しかし、この「100分de名著」では、成立論については触れることがなかった。強いてここの点について言及しなかったということは、これはこれで一つの見識であったとは思う。
2024年11月30日記
最近のコメント