「幻の地震予知 〜大森房吉と関東大震災〜」2024-12-04

2024年12月4日當山日出夫

英雄たちの選択 幻の地震予知 〜大森房吉と関東大震災〜

再放送である。最初の放送は、いつだったか番組のHPでは書いていないのだが、杉浦アナウンサーだったので、一年ぐらい前になるのだろうか。

たまたまであるが、録画してあったのを順番に見ていって、「サイエンスZERO」の能登半島地震のことをあつかったのを見た、その連続で見ることになった。P波から震源地を特定するという方法は、明治の時代に、大森房吉が考案していたことであるのは、とても興味深い。サイエンスとしての地震学ということと、その研究の結果を地震予知ということで、社会に発表することの問題、これについて、いろいろ考えることになる。

私の考えることとしては、地震学は、基本はあくまでもサイエンスであるべきである。だが、その学問に求められる社会的責任ということについて、無自覚であってはならないだろう。このことは、科学者もそうであるが、一般社会の方でも理解しておくべきことである。

この放送(再放送)の時期としては、今年の夏の南海トラフ地震についてのニュースがあって、来年には能登半島地震から一年になる。朝ドラで『おむすび』では、阪神淡路大震災のことが出てきている。番組表を見ると、英雄たちの選択の次回は、今村明恒のことをとりあつかう。

磯田道史が言ったことだが、東大のトップにいるような立場では、無謬であること、ミスをしないことの責任があると同時に、社会に対するお知らせ責任、説明責任がある……これはそのとおりだと思うのだが、サイエンスというものは、そもそもそのような思考法ではできあがってはないはずである。むしろ、ここは、(近年のことばでいえば)サイエンス・コミュニケーション、というような概念で考えるべきことのように思う。あるいは、一般社会におけるサイエンスへの理解というべきかもしれない。

税金を使ってやっている研究なのだから、その結果については、責任をもって社会に説明すべきである……とばかりは言えない、というのが私の思うところである。サイエンスは、あくまでもサイエンスであるべきである。

だが、今日では、説明責任という部分の多くは、行政とマスコミやジャーナリズムにかかわることが多くなってきている。だからといって、サイエンスが何をやってもいいということではない。今日の問題としては、生命倫理にかかわるようなことは、社会全体の合意が求められる。地球環境問題や、原子力利用についても、社会的合意なしには、進められないことである。

この番組は科学番組ではないのであるが、大森房吉が日本でゼロから地震学を構築していったあゆみについては、興味深いものがある。考案した地震計の仕組みについても知りたい。

それにしても、大森房吉教授は、今村明恒助教授を、二〇年以上、無給のままにしておいたというのは、むかしの帝国大学は、そんなものだったのかという思いである。(まあ、私の知りうる範囲だと、金田一京助が万年東京大学助教授で貧乏で苦労したというのは、金田一春彦先生が語っていたことであるが。)

現代の地震学者は甘やかされている、というのは磯田道史の言ったことであるが、これはちょっと厳しすぎるのではないかと感じるところでもある。かつて、大森房吉の感じていたプレッシャーはものすごいものだったにはちがいないが。

必要なのは、科学史についての重厚な知見と、冷静な科学ジャーナリズム、である。また、COVID-19パンデミックのときに思ったことであるが、専門的知識をもつものの社会的責任ということも、確かにある。

2024年12月2日記

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