「有吉佐和子スペシャル (1)埋もれた「女たちの人生」を掘り起こす」2024-12-06

2024年12月6日 當山日出夫

100分de名著 有吉佐和子スペシャル (1)埋もれた「女たちの人生」を掘り起こす

有吉佐和子の作品のいくつかは、高校生から大学生ぐらいのときに読んだ。『華岡青洲の妻』も読んだ作品である。

番組のなかで紹介されていた、留学から帰ってきた夫の清州をむかえたときの、嫁と姑の様子は、印象に残る場面である。朗読では出ていなかったが、その後の描写を憶えている。姑に先をこされた、妻の加恵が、一人残され自分の用意してきたたらいのお湯を捨てて、そこから湯気がたちのぼるシーンである。(まったく記憶で書いているのであるけれど。)

ちょっと気になったことがある。番組では、この作品を家をあつかった作品、そのなかにおける女性の存在を描いた作品と言っていた。ことばとしては使っていなかったが、いわゆる家父長制的封建的前近代的な家の悪習として描いたということになるだろうか。

私は、この解釈はありうるもので、特に否定しようとは思わない。だが、その一方で、家というものが、そのようなものとして意識されるようになったのは、歴史的経緯があってのことだとは思っている。おそらく江戸時代までの、日本の人びとの暮らしは、もっと多様であったにちがいない。地域差、身分差、階層差、職業の違い(武士とか農民とか、また農民のなかでの様々な違い)、これらを総合して見なければならないだろう。

独断的に言ってみればということであるが、家というのが強く意識されるようになったのは、明治になってから旧民法の規定があり、その余韻が強くのこっていた、昭和の戦後のしばらくの時代……これは、まさに有吉佐和子の活躍した時代であるが……戦後の高度経済成長に合わせて、あるべき家庭の姿としてイメージされたのが、旧来からの家であり、それが、日本の古来よりの姿であると考えられるようになった、いわばかなり社会構築的なものである、今の私はこのように考えている。日本に住んでいた多くの人びとの生活の実態は、歴史学(歴史人口学や民俗学)において、あらためて考えられるべきこととであると思う。

人びとの生活の実態(それは多様であったはずだが)、イメージとしての家や社会のあるべき姿、法的な規範(特に民法)、どこに視点をおくかによって、見えるものや問題意識は異なってくるはずである。

『華岡青洲の妻』は、まさに戦後の時期において、日本の人びとがいだいていた、古来からの日本の家というもののイメージを文学として表現したもの、それを時代小説に投影したもの、そう考えていいだろう。

有吉佐和子を今日のフェミニズムの先駆的な存在として読むことも可能であろうが、この番組では、かならずしもその立場をとっていない。フェミニズムも、いろんな考え方のなかの一つである、という立場であった。

それから、どうでもいいことだが、『華岡青洲の妻』が刊行された当時の新聞の広告が映っていたが、値段が三五〇円だった。いまでは、文庫本でもそんな値段では買えない。

2024年12月3日記

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