『カーネーション』「切なる願い」 ― 2024-12-08
2024年12月8日 當山日出夫
『カーネーション』「切なる願い」
この週もいろいろとあった。
まず、糸子はモンペ教室を始める。元の着物に戻せる、という方法の教室である。このことを思いついたのは、神戸の祖父母が岸和田の家に来て帰るとき、おばあちゃんの着ていたのが、大島紬を使ったモンペだった。それに気づくシーンの演出がいい。祖父母が来たときは雨が降っていた。家のなかで家族で話しをしているシーンで、窓の外は雨だった。そして雨が止んで、神戸に帰る祖父母を見送りに外に出たとき、雨あがりの太陽の光で、おばあちゃんの来ていた大島のモンペに気づくということになっていた。この部分の脚本と演出は見事だと思う。雨あがりの新鮮な光で見てこそ、大島の価値が発揮される。(たしか台詞としては、雨のことは一言も言っていなかったと思うが。)
三女の聡子が生まれる。このとき、父親の善作は、火傷で隣の部屋で寝ていた。無事に出産が終わってからも、糸子は多忙である。赤ちゃんをあやしながら、おにぎりを食べていた。ゆっくり食事もできない、落ち着かない日常を、少しの演出で見事に表現していたと感じる。
モンペ教室に八重子が来たときのことは、印象に残る。定員になっているところに、八重子がやってくる。このとき、糸子は、八重子の表情を見ただけで、何にも聞かずにメンバーに加えることになる。教室が終わるまで、八重子も糸子も、泰蔵の名前はまったく口に出さない。このとき、最後まで、泰蔵のことを黙ったままで八重子が店を出てもよかったかと思うところである。その方が、より余韻の残るシーンになっただろう。しかし、それでは、泰蔵の出征の見送りに糸子たちが出ることにつながらないことになる。泰蔵の出征に糸子がいることにつながるためには、洋装店での糸子と八重子のシーンは、必要だったということになる。
泰蔵の出征のとき、父親の善作も、火傷が治っていないのに出ていた。泰蔵が出発するとき、善作は「ばんざい」という。しかし、自らは火傷のせいで、手を上げることができない。声だけであった。声だけでも「ばんざい」と唱えたくなる善作の気持ちが、ここに集まった人たちの気持ちをよく表していた。
週の最後で、長女の優子が小学校に入学することになった。ちょっと気になったのは、この時代は、小学校ではなく国民学校であったはずである。現代では、戦争の時代は、学校教育の理念も変わって国民学校となったことは、もう歴史のかなたのことになってしまったということかもしれない。
善作は湯治に石川県の温泉までいくが、そこで亡くなることになる。その前に、店の帳面に、「小原洋装店 店主小原糸子」と自分の手で書いていた。わがままで頑固な父親であったが、すでに店の主が変わったことを、善作自身が納得していたことになる。
2024年12月7日記
『カーネーション』「切なる願い」
この週もいろいろとあった。
まず、糸子はモンペ教室を始める。元の着物に戻せる、という方法の教室である。このことを思いついたのは、神戸の祖父母が岸和田の家に来て帰るとき、おばあちゃんの着ていたのが、大島紬を使ったモンペだった。それに気づくシーンの演出がいい。祖父母が来たときは雨が降っていた。家のなかで家族で話しをしているシーンで、窓の外は雨だった。そして雨が止んで、神戸に帰る祖父母を見送りに外に出たとき、雨あがりの太陽の光で、おばあちゃんの来ていた大島のモンペに気づくということになっていた。この部分の脚本と演出は見事だと思う。雨あがりの新鮮な光で見てこそ、大島の価値が発揮される。(たしか台詞としては、雨のことは一言も言っていなかったと思うが。)
三女の聡子が生まれる。このとき、父親の善作は、火傷で隣の部屋で寝ていた。無事に出産が終わってからも、糸子は多忙である。赤ちゃんをあやしながら、おにぎりを食べていた。ゆっくり食事もできない、落ち着かない日常を、少しの演出で見事に表現していたと感じる。
モンペ教室に八重子が来たときのことは、印象に残る。定員になっているところに、八重子がやってくる。このとき、糸子は、八重子の表情を見ただけで、何にも聞かずにメンバーに加えることになる。教室が終わるまで、八重子も糸子も、泰蔵の名前はまったく口に出さない。このとき、最後まで、泰蔵のことを黙ったままで八重子が店を出てもよかったかと思うところである。その方が、より余韻の残るシーンになっただろう。しかし、それでは、泰蔵の出征の見送りに糸子たちが出ることにつながらないことになる。泰蔵の出征に糸子がいることにつながるためには、洋装店での糸子と八重子のシーンは、必要だったということになる。
泰蔵の出征のとき、父親の善作も、火傷が治っていないのに出ていた。泰蔵が出発するとき、善作は「ばんざい」という。しかし、自らは火傷のせいで、手を上げることができない。声だけであった。声だけでも「ばんざい」と唱えたくなる善作の気持ちが、ここに集まった人たちの気持ちをよく表していた。
週の最後で、長女の優子が小学校に入学することになった。ちょっと気になったのは、この時代は、小学校ではなく国民学校であったはずである。現代では、戦争の時代は、学校教育の理念も変わって国民学校となったことは、もう歴史のかなたのことになってしまったということかもしれない。
善作は湯治に石川県の温泉までいくが、そこで亡くなることになる。その前に、店の帳面に、「小原洋装店 店主小原糸子」と自分の手で書いていた。わがままで頑固な父親であったが、すでに店の主が変わったことを、善作自身が納得していたことになる。
2024年12月7日記
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/12/08/9738076/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。