「有吉佐和子スペシャル (2)「老い」を直視できない人々」 ― 2024-12-11
2024年12月11日 當山日出夫
100分de名著 有吉佐和子スペシャル (2)「老い」を直視できない人々
今、酒井順子の『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)を読んでいる。このなかにも、『恍惚の人』は取りあげられている。日本文学の歴史……それを古代までさかのぼるとして……のなかで、「老い」ということを、どのように文学作品で描いてきたのか、これは重要なテーマである。近年では、「老い」というよりも、高齢者介護の担い手である女性ということで、フェミニズムから読むという動きがあるが、それだけでは「老い」というものを捕らえることはできない。さらに新たな視点をもつ必要がある。
おりしも、政府が、新しい認知症観、ということを提唱している。これは、社会の流れとしては、当然あるべき方向だと私は思う。社会の誰でもなり得る、認知症にもなる可能性があり、それを支える立場にもなりうる、この前提で考えなければならなくなっていることは確かである。
認知症……かつては痴呆症といわれたが……が、大きく日本の人びとの意識のなかに定着するきっかけをつくったのが、『恍惚の人』であることは確かなことである。
だが、この小説に描かれた認知症の症状は、かなり進行した段階のものである。実際には、徐々に症状が現れてくるものであり、その症状や、進行の度合いも、個人差があるというのが、今日の一般的な理解かと思う。
この小説の主人公は、昭子という名前であるが、これは、有吉佐和子が原稿執筆の段階で、もとは違う名前であったものを、改めてこうしたはずである。
2024年12月10日記
100分de名著 有吉佐和子スペシャル (2)「老い」を直視できない人々
今、酒井順子の『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)を読んでいる。このなかにも、『恍惚の人』は取りあげられている。日本文学の歴史……それを古代までさかのぼるとして……のなかで、「老い」ということを、どのように文学作品で描いてきたのか、これは重要なテーマである。近年では、「老い」というよりも、高齢者介護の担い手である女性ということで、フェミニズムから読むという動きがあるが、それだけでは「老い」というものを捕らえることはできない。さらに新たな視点をもつ必要がある。
おりしも、政府が、新しい認知症観、ということを提唱している。これは、社会の流れとしては、当然あるべき方向だと私は思う。社会の誰でもなり得る、認知症にもなる可能性があり、それを支える立場にもなりうる、この前提で考えなければならなくなっていることは確かである。
認知症……かつては痴呆症といわれたが……が、大きく日本の人びとの意識のなかに定着するきっかけをつくったのが、『恍惚の人』であることは確かなことである。
だが、この小説に描かれた認知症の症状は、かなり進行した段階のものである。実際には、徐々に症状が現れてくるものであり、その症状や、進行の度合いも、個人差があるというのが、今日の一般的な理解かと思う。
この小説の主人公は、昭子という名前であるが、これは、有吉佐和子が原稿執筆の段階で、もとは違う名前であったものを、改めてこうしたはずである。
2024年12月10日記
ザ・バックヤード「海上災害防止センター」 ― 2024-12-11
2024年12月11日 當山日出夫
ザ・バックヤード 海上災害防止センター
この組織のことは知らなかった。そのHPを見てみると、一般財団法人である。海上保安庁や消防庁などとは別の民間の組織であるが、実際の海上での火災などで、現場の対応にあたるなど、多様な活動をしているらしい。
東京湾の「海堡」が、国防のために作られたということは知っていたが、その一つが、今ではこの番組で紹介のような使われ方をしていることを知った。たしかに、危険な作業であり訓練であるから、海のなかにポツンとあるこのようなところが適しているということにはちがいないが。
消火にあたって、炎に直接水をかけるのではなく、冷やすことを目的にする、ということは、なるほどそうなのか、と思った。
危険物の事故の処理訓練の様子など、これはかなり大変な仕事であると感じる。
こういう組織や人たちの存在も、社会のためには必要なものであるということを、確認したことになる。
2024年12月6日記
ザ・バックヤード 海上災害防止センター
この組織のことは知らなかった。そのHPを見てみると、一般財団法人である。海上保安庁や消防庁などとは別の民間の組織であるが、実際の海上での火災などで、現場の対応にあたるなど、多様な活動をしているらしい。
東京湾の「海堡」が、国防のために作られたということは知っていたが、その一つが、今ではこの番組で紹介のような使われ方をしていることを知った。たしかに、危険な作業であり訓練であるから、海のなかにポツンとあるこのようなところが適しているということにはちがいないが。
消火にあたって、炎に直接水をかけるのではなく、冷やすことを目的にする、ということは、なるほどそうなのか、と思った。
危険物の事故の処理訓練の様子など、これはかなり大変な仕事であると感じる。
こういう組織や人たちの存在も、社会のためには必要なものであるということを、確認したことになる。
2024年12月6日記
「ラストベルト アメリカ 忘れられた人々」 ― 2024-12-11
2024年12月11日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト ラストベルト アメリカ 忘れられた人々
今年になってから読んだ本で印象に残っている野が、金成隆一の『ルポ トランプ王国』『ルポ トランプ王国 2』(岩波新書)であり、『記者、ラストベルトに住む トランプ王国、冷めぬ熱狂』(朝日新聞出版)である。それから、『ヒルビリーエレジー』『壁の向こうの住人たち』も買ってあるが、これはまだ読んでいない。
私の趣味としては、トランプを支持するという気持ちにはなかなかなれないが、しかし、なぜ、人びとはあれほどまでに熱狂的にトランプ支持なのか、という理由は理解しておくべきだと思う。(強いていえば、これと同じことは、日本の安倍晋三にも、中国の習近平にもいえることだと思うし、次がどうなるか分からないが、韓国の大統領についても、考えなければならないことだと思う。)
ラストベルトといわれる地域に住む、「普通」の人びと……その多くは、白人のブルーカラーになるが、白人だけではなく黒人なども含む……が、どのように暮らしてきて、今の暮らしがどんなふうで、そして、どのようなことを政治に望んでいるのか、その生活の実感こそが重要である。かつて、このような人びとの声を代表するのが民主党だったが、いまでは、すっかり変わってしまっている。番組の中で出てきたケネディの演説は、今のリベラルな価値観につながるものだが、その視野のなかには、労働者の人びとのことがはいっている。(そして、今のアメリカのリベラルは、これを失っている。)
この回の大半は、アメリカの自動車産業と、その労働者たちの労働運動の話しであった。ウォルター・ルーサーという人物のことは、この番組で名前を知った。アメリの政治史のなかで、重要な位置をしめる人物である。
鉄鋼とか自動車とか、もうアメリカの工場で作るようなものではないのかもしれない。もし作るとしても、非常に付加価値の高い高級なものに限られるだろう。これから先、自動車を作ることから、日本とかドイツのメーカが苦境に立たされるだろうか。悲観的に考えれば、トヨタがつぶれるかもしれないが、レクサスは生きのこるということになる。
番組の冒頭で出てきた、ガラス工場のことは印象的である。元のGMの工場で、中国の企業が操業する。賃金は、かつての三分の二であるという。これは、はっきりいって、アメリカのラストベルトの労働力が、中国資本に買いたたかれているということになる。
アメリカのラストベルトのことは、産業構造の変革によるものなので、そう簡単に解決できる問題ではない。しかし、このような人びとの発言力が大きくなっていくことは確かである。
忘れられた人びと……これはアメリカだけの問題ではない。日本においても、また、韓国や中国においても、さらには、ヨーロッパの人びとにおいても、「忘れられた」と感じる人びとが増えてきたとき、どうなるだろうか。そのような人びとを、ただ極右といってラベリングするだけで、そして見下しているだけの、進歩的な立場を自称する人たちこそ、本当の危険要因であるように思えてならない。
2024年12月10日記
映像の世紀バタフライエフェクト ラストベルト アメリカ 忘れられた人々
今年になってから読んだ本で印象に残っている野が、金成隆一の『ルポ トランプ王国』『ルポ トランプ王国 2』(岩波新書)であり、『記者、ラストベルトに住む トランプ王国、冷めぬ熱狂』(朝日新聞出版)である。それから、『ヒルビリーエレジー』『壁の向こうの住人たち』も買ってあるが、これはまだ読んでいない。
私の趣味としては、トランプを支持するという気持ちにはなかなかなれないが、しかし、なぜ、人びとはあれほどまでに熱狂的にトランプ支持なのか、という理由は理解しておくべきだと思う。(強いていえば、これと同じことは、日本の安倍晋三にも、中国の習近平にもいえることだと思うし、次がどうなるか分からないが、韓国の大統領についても、考えなければならないことだと思う。)
ラストベルトといわれる地域に住む、「普通」の人びと……その多くは、白人のブルーカラーになるが、白人だけではなく黒人なども含む……が、どのように暮らしてきて、今の暮らしがどんなふうで、そして、どのようなことを政治に望んでいるのか、その生活の実感こそが重要である。かつて、このような人びとの声を代表するのが民主党だったが、いまでは、すっかり変わってしまっている。番組の中で出てきたケネディの演説は、今のリベラルな価値観につながるものだが、その視野のなかには、労働者の人びとのことがはいっている。(そして、今のアメリカのリベラルは、これを失っている。)
この回の大半は、アメリカの自動車産業と、その労働者たちの労働運動の話しであった。ウォルター・ルーサーという人物のことは、この番組で名前を知った。アメリの政治史のなかで、重要な位置をしめる人物である。
鉄鋼とか自動車とか、もうアメリカの工場で作るようなものではないのかもしれない。もし作るとしても、非常に付加価値の高い高級なものに限られるだろう。これから先、自動車を作ることから、日本とかドイツのメーカが苦境に立たされるだろうか。悲観的に考えれば、トヨタがつぶれるかもしれないが、レクサスは生きのこるということになる。
番組の冒頭で出てきた、ガラス工場のことは印象的である。元のGMの工場で、中国の企業が操業する。賃金は、かつての三分の二であるという。これは、はっきりいって、アメリカのラストベルトの労働力が、中国資本に買いたたかれているということになる。
アメリカのラストベルトのことは、産業構造の変革によるものなので、そう簡単に解決できる問題ではない。しかし、このような人びとの発言力が大きくなっていくことは確かである。
忘れられた人びと……これはアメリカだけの問題ではない。日本においても、また、韓国や中国においても、さらには、ヨーロッパの人びとにおいても、「忘れられた」と感じる人びとが増えてきたとき、どうなるだろうか。そのような人びとを、ただ極右といってラベリングするだけで、そして見下しているだけの、進歩的な立場を自称する人たちこそ、本当の危険要因であるように思えてならない。
2024年12月10日記
「地方の時代」映像祭「立つ女たち〜女性議員15%の国で〜」 ― 2024-12-11
2024年12月11日 當山日出夫
ザ・ベストテレビ 「地方の時代」映像祭「立つ女たち〜女性議員15%の国で〜」
これを収録したのは、兵庫県知事選の前になるのだろうか。東京都議選からこのかた、選挙とSNSについて議論がかまびすしい。
テレビなどで、既存政党の政治家やコメンテーター(としかいいようのない、私からすれば今のテレビにおけるまったく無駄な人たち)は、SNSの利用はすすめるべきであるが、一定の規制は必要である……というような、判で押したようなことばかり言っている。要するに、自分たちの政党、あるいは、支持する政党にとって有利になるような使い方はいいけれど、そうではない使い方……それがリベラルを支持するものであれ、逆にどうであれ……これは規制したい、ということに他ならない。
ここで必要なのは、選挙や政治という公共にかかわる領域において、ネット情報や利活用はどうあるべきか、という根本的なところの視点なのだが、これが欠けている。
番組としては、女性の地方議会と選挙ということで作ってあったが、視点を変えれば、選挙において無名の新人がSNS利用で、どこまで得票を伸ばせるか、ということになる。
SNSの利用で、無所属の女性候補が当選をはたした事例としては、とても面白い。しかし、このような成功事例があるとすると、これを大きな既存政党が使わないはずはない。既存政党に限らず、ネット上における著名人がかかわるとき、番組に登場したような候補者にとって本当に有効な手法として定着するかどうかは、微妙だなと思う。おそらく、次の参議院選、それから、各地の地方の選挙で、むしろ弊害という側面が現れてくる可能性を危惧することになる。
善意に解釈すれば、別にその地域の市民でなくても、ボランティアで全国どこにいても、支持する候補者を応援できる、ということになる。悪意に解釈すれば、国政選挙において外国からの干渉を許すのか、という議論になる。このおとしどころは、かなり難しいかもしれない。
無論、これからはAIによるさまざまな情報がネット上に錯綜するようになる。中には、フェイクもある。だが、今の技術でこれを見分けて規制することが、可能だろうか。
SNSで積極的に発言するのは、ごくわずかのユーザであることは言われている。そして、そのほんの一部のユーザの行動(情報の発信や拡散)によって、多くの人が影響を受けていることは確かである。このことに、別に老若男女の違いはないだろう。あるとすれば、どのような情報にどのように影響されるかという傾向の違いであろう。若いからだまされないとか、高齢者はだまされやすい、というようなレッテル貼りで見ること自体が、冷静な分析と熟慮、そして対話を妨げていると私は思う。
民主主義ということでいうならば、昔にかえってタウンミーティングの価値、というあたりから議論することになるのかもしれない。そこから、ネット空間のもつ公共性……それは、あまりにも多様で、かつ汚染されていることになるだろうが……このようなことを、地道に考えていくしかないのかもしれない。
ともあれ、私としては、規制という方向で考えて、いいことはないと思っている。ゴミやフェイクは、もうどうしようもできない。そうではなく、良質な情報を、どうすれば埋もれさせないでとどけることができるか、あるいは、見つけることができるか、という方向であるべきだろう。
良質な情報とは、自分の意見に対立するものもふくむ。なぜ、自分はそう考えるのか、自分とは違う意見を持つ人は何を思っているのか、その自省と想像力が必要になる。だが、これは、たかだか140字の短いメッセージでは無理である。
自分は賢いからだまされないという発想は危険である。異なる意見をもつ人を蔑視することにつながる。これは、思考停止であり、生産的な対話を生まない。ちなみにホッブズはこのようなことを言っている……自分が信じることは信仰であるが、他人が信じることは迷信である、と。
なお、日本における女性議員はもっとふえるべきであると、私は考える。それには、まず、議員とは何をする仕事(といっていいだろうか)ということの、再定義が必要であるにちがいない。それは、有権者が議員に何を求めるのか、ということにもつながる。
強引なアファーマティブアクション……具体的には、クォータ制であるが……は、取らない方がいいだろう。その副作用というか、反動というか、バックラッシュというか、これを私は危惧する。
最後に思うことは、人口減少時代をむかえて、地方議会の議員のなり手がいないという問題もあるはずである。長崎とか日立とかつくばならいいのかもしれないが、市町村議会の中には、そもそも立候補する人が乏しいというところもあるはずであり、それはこれからますます加速する。このことも視野にいれた、女性議員の意味であり、選挙の方法の意味である、ということも考えておくべきことであろう。
2024年12月10日記
ザ・ベストテレビ 「地方の時代」映像祭「立つ女たち〜女性議員15%の国で〜」
これを収録したのは、兵庫県知事選の前になるのだろうか。東京都議選からこのかた、選挙とSNSについて議論がかまびすしい。
テレビなどで、既存政党の政治家やコメンテーター(としかいいようのない、私からすれば今のテレビにおけるまったく無駄な人たち)は、SNSの利用はすすめるべきであるが、一定の規制は必要である……というような、判で押したようなことばかり言っている。要するに、自分たちの政党、あるいは、支持する政党にとって有利になるような使い方はいいけれど、そうではない使い方……それがリベラルを支持するものであれ、逆にどうであれ……これは規制したい、ということに他ならない。
ここで必要なのは、選挙や政治という公共にかかわる領域において、ネット情報や利活用はどうあるべきか、という根本的なところの視点なのだが、これが欠けている。
番組としては、女性の地方議会と選挙ということで作ってあったが、視点を変えれば、選挙において無名の新人がSNS利用で、どこまで得票を伸ばせるか、ということになる。
SNSの利用で、無所属の女性候補が当選をはたした事例としては、とても面白い。しかし、このような成功事例があるとすると、これを大きな既存政党が使わないはずはない。既存政党に限らず、ネット上における著名人がかかわるとき、番組に登場したような候補者にとって本当に有効な手法として定着するかどうかは、微妙だなと思う。おそらく、次の参議院選、それから、各地の地方の選挙で、むしろ弊害という側面が現れてくる可能性を危惧することになる。
善意に解釈すれば、別にその地域の市民でなくても、ボランティアで全国どこにいても、支持する候補者を応援できる、ということになる。悪意に解釈すれば、国政選挙において外国からの干渉を許すのか、という議論になる。このおとしどころは、かなり難しいかもしれない。
無論、これからはAIによるさまざまな情報がネット上に錯綜するようになる。中には、フェイクもある。だが、今の技術でこれを見分けて規制することが、可能だろうか。
SNSで積極的に発言するのは、ごくわずかのユーザであることは言われている。そして、そのほんの一部のユーザの行動(情報の発信や拡散)によって、多くの人が影響を受けていることは確かである。このことに、別に老若男女の違いはないだろう。あるとすれば、どのような情報にどのように影響されるかという傾向の違いであろう。若いからだまされないとか、高齢者はだまされやすい、というようなレッテル貼りで見ること自体が、冷静な分析と熟慮、そして対話を妨げていると私は思う。
民主主義ということでいうならば、昔にかえってタウンミーティングの価値、というあたりから議論することになるのかもしれない。そこから、ネット空間のもつ公共性……それは、あまりにも多様で、かつ汚染されていることになるだろうが……このようなことを、地道に考えていくしかないのかもしれない。
ともあれ、私としては、規制という方向で考えて、いいことはないと思っている。ゴミやフェイクは、もうどうしようもできない。そうではなく、良質な情報を、どうすれば埋もれさせないでとどけることができるか、あるいは、見つけることができるか、という方向であるべきだろう。
良質な情報とは、自分の意見に対立するものもふくむ。なぜ、自分はそう考えるのか、自分とは違う意見を持つ人は何を思っているのか、その自省と想像力が必要になる。だが、これは、たかだか140字の短いメッセージでは無理である。
自分は賢いからだまされないという発想は危険である。異なる意見をもつ人を蔑視することにつながる。これは、思考停止であり、生産的な対話を生まない。ちなみにホッブズはこのようなことを言っている……自分が信じることは信仰であるが、他人が信じることは迷信である、と。
なお、日本における女性議員はもっとふえるべきであると、私は考える。それには、まず、議員とは何をする仕事(といっていいだろうか)ということの、再定義が必要であるにちがいない。それは、有権者が議員に何を求めるのか、ということにもつながる。
強引なアファーマティブアクション……具体的には、クォータ制であるが……は、取らない方がいいだろう。その副作用というか、反動というか、バックラッシュというか、これを私は危惧する。
最後に思うことは、人口減少時代をむかえて、地方議会の議員のなり手がいないという問題もあるはずである。長崎とか日立とかつくばならいいのかもしれないが、市町村議会の中には、そもそも立候補する人が乏しいというところもあるはずであり、それはこれからますます加速する。このことも視野にいれた、女性議員の意味であり、選挙の方法の意味である、ということも考えておくべきことであろう。
2024年12月10日記
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