「日常にドレミを」2024-12-14

2024年12月14日 當山日出夫

ドキュメント20min. 日常にドレミを

私は音楽の才も知識もまったくないので、よくわからないところもあるのだが、しかし、面白かった。自然界にある音を、どう聞くか、ということは普通の発想だが、これは、それをこえて、日常の風景のなかにあるものを楽譜に見立てるとどんな音になるのか、ということであった。

興味深かったのは、それを演奏している人よりも、その音楽を聴いている街の人の表情だった。カップラーメンを手にした専門学校生。ピーナッツ屋さんのおばあさん。話しのなかに、新潟地震(一九六四年、昭和三九年)、新潟大火(一九五五年、昭和三〇年……これは私の生まれた年である)のことが出てきていた。地震のことは、ニュースで見て記憶しているが、さすがに大火のことは知らない。

音楽にするのは、その光景を目で見てのことである。画像データとして、コンピュータで解析してという、現代的な手法は用いていない。また、使っていたのは、鍵盤ハーモニカであった。今では子どもの使う楽器というイメージがある。

むか~し、新潟に行ったとき、へぎそばを食べたことがあったのを思い出した。

2024年12月12日記

「投げ銭を投げきった人たち」2024-12-14

2024年12月14日 當山日出夫

ねほりんぱほりん 投げ銭を投げきった人たち

投げ銭の続きである。前回の出演者たちのその後のことである。

まあ、他人に迷惑がかからないなら、好きなことをやっていい……これは、近代的な自由の基本原則ではある。だから、投げ銭にはまって人生が破綻しようと、その人にとどまるかぎりは、他人がとやかく言うことではない。と、分かってはいるつもりなのだが、それにしても、推しへの投げ銭にはまる人の気持ちが分からない。

おそらくは、一般的にいえば、依存症の一種ということになるのだろうし、見方によては、カルトにはまり込んでしまう人の心情とは、こんなものなのかとも感じるところはある。

番組に出ていたのは、NHKが交渉してOKという人ということになるのだろうから、その背後には、もうどうしようもなくなってしまった人もいるのかと推測することになる。クレジットカードが使えなくなるぐらいなら、まだいい方だろう。今の時代、手軽に金を稼ぐ方法は、非合法なものをふくめれば、探すのに困らないともいえる。これも、ネット上の情報であり、それにだまされるのが悪い、バカである、と言ってしまえばそれまでなのだが。

親が残してくれた自分への遺産を使い切るぐらいなら、許容できる。それを超えて、家族の生活費や子どもの学資まで、つぎ込むようになったとしたら、これはもう社会問題である。

なにがしか公的な相談窓口を用意しておくべきなのかもしれない、とは思ったところでもある。

投げ銭で身上をつぶす人もいるということは、逆にそれでもうける人もいるということであり、間に入って手数料収入を得ている企業がある、ということでもある。今現在、投げ銭ビジネスの経済規模はどれぐらいなのだろうか。

この回も、ブタとモグラの背景の壁には、銭形平次の姿が見えた。

2024年12月11日記

「隠された南海トラフ地震 〜学者・今村明恒の挑戦〜」2024-12-14

2024年12月14日 當山日出夫

英雄たちの選択 隠された南海トラフ地震 〜学者・今村明恒の挑戦〜

先に放送のあった、大森房吉につづいて、今村明恒である。

南海トラフ地震は予知できるのか……現在の地震学者の立場からするならば予知は不可能ということになるだろう。まあ、予知ということばの定義にもよるが。

地震研究をサイエンスとして考えるならば、その目的は地震発生のメカニズムの解明ということになるのかと思う。その延長として、どの程度の地震で、どの程度の被害が発生するのか、というあたりまでは、サイエンスの領分だろう。

しかし、確実性をもって(いつごろどこでということを特定して)予知することになると、少なくとも現在の研究では無理といっていい。(将来的にまったく不可能ではないかもしれないが。)

さらにもうすこし範囲を広げて、もし地震が起こったとき、どのような備えがあれば、その被害を少なく出来るか、具体的には建物の耐震構造などは、サイエンスとテクノロジーのかかわるところになる。そこで、食糧の備蓄とか、災害発生時の支援とかになると、これはかなり政治のかかわることになる。

何のための科学(サイエンス)の研究なのか、ということになると、今日ではどうしても市民の視点というものを考慮することになる。地震研究は、そのなかにあって、もっともその成果を求められる分野かもしれない。

この夏の南海トラフ地震についての臨時情報は、私は、ただしかったと思っている。少なくとも、防災ということが、実質的には地方自治体まかせになっているという現実を明らかにしたことの意味は大きい。防災のための備えということで、多くの国民が意識を新たにしたことは確かだったと思う。(ちょうどお盆休みの時期であるということを考えにいれた、政治的判断もあったかなとは思うところがあるけれど。)

磯田道史が言っていたが、日本ほど、地震の多い国で、しかも、その記録が残っている国はない……これは確かである。このことについては、古記録や古文書における地震の記録を調査することが、デジタル技術を使って成果をあげつつあるところである。問題は、伝聞情報が多いので、それをどう批判的に解読するかということになろうか。

太平洋戦争中の東南海地震のことは、知識としては知っていたことである。これを日本政府は隠そうとしていたが、アメリカの新聞には大きく載っていた。さて、この時代、日本のインテリジェンスとしては、アメリカがこれを知っているということを、どう評価していたことになるのだろうか。現実には、中島飛行機の工場が地震で被害を受けた後に、空襲にあっていることになる。

2024年12月9日記