「1993年6月9日 憧れの「ロイヤルウエディング」」2024-12-19

2024年12月19日 當山日出夫

あの日 偶然そこにいて 1993年6月9日 憧れの「ロイヤルウエディング」

再放送である。最初の放送を見逃して(録画しそこねて)、今回、再放送を録画しておいて見た。

皇太子・雅子さまのことは、なんとなくテレビで見たような記憶はあるのだが、私としては、そんなに関心もなかったできごとでる。まあ、基本的にリベラルよりなのかもしれないが、皇室のあり方は、関心はあるが、さりとて、ニュースになってもそう興味があるということはない。(将来的に、もし、天皇制がなくなるとしたら、後継者がいなくなってということになるのかもしれないが、さて、そのときは、日本はどんなになっているだろうとは考えてみたりするのだけれど。)

その当時を思い返して、テレビなどを見ていて思ったことの一つは、その学歴についてである。雅子さまは、田園双葉から東大、ハーバードという経歴である。だが、テレビなどを見ていて、その「ご学友」として登場していたのは、田園双葉の時代の同級生である人たちであった。東大とかハーバードの関係者が、テレビに出て、何か話しているというのは、たまたまそうだったのかもしれないが、私は見ていない。これは、やはり、皇太子妃ということで見るとき、東大やハーバードは、ちょっとイメージにそぐわないということだったのかなと思うが、これは、その当時の皇室に対する感覚の表れでもあったのだろう。(まあ、これから、筑波大学がどう思われるようになるか、分からないのだが。)

美大を卒業して、その後、学生たちはどのような人生を歩むことになるのか。どうも、一般の目からは、美大という大学のことが分かりにくい。

日本テレコムの最初の女性総合職、はたしてどんな人生を歩んだのだろうか。

番組の作り方として、基本を女性の生き方においていたことは分かる。雅子さまという人の生き方が、その時代の女性の生き方と共鳴するところがあったことはたしかである。だが、仕事でキャリアを積むことによって、それで、幸福な人生であったといえるかどうかは、また別のことかもしれない。だからといって、女性が働くことを否定するつもりはまったくない。どのような生き方を選ぶにせよ、選択肢が増えたことは確かであり、これ自体は良いことである。だが、人の世の常として思うことは、選択肢が多くあることが、幸福感や充足感につながるかというと、これは、また違う次元のことになる。

反動的とされるかもしれないが、人が自分の人生に充足感をもって生きるということについては、むしろ逆に、選択肢がなくこのような生き方しかできなかった、ある種の運命感のようなもの……があってもいいのかもしれない。かつては、そのようであった。個人の自由意志でなんでも選択できるということは、あり得たかもしれない、だがなれなかった自分についての、不満を感じることにつながる。これは、新しい時代の幸福論として、考えなければならないことである。無論、これは、女性だけではなく、男性をふくめて、今日を生きる人間のすべてについて考えなければならないことである。

私としては、個人の自由意志と幸福ということについて、考えることになる。無論、同時に、いろんな社会の制度の改革ということは必要である。歴史を逆にもどすことはできない。自分で選んだ人生の責任は、自分自身でひきうけるしかない。これからの人間観、哲学の一つの課題である。

小和田(こわだ)駅のことが出てきていたが、これは秘境の駅として有名らしい。とんでもないところに駅があるものである。

2024年12月18日記

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