『おむすび』「幸せって何なん?」2024-12-29

2024年12月29日 當山日出夫

『おむすび』「幸せって何なん?」

この週にきて、このドラマは、いいところが出てきたかと感じる。

翔也は肩を痛めて野球ができなくなる。そして、結とのことをあきらめようとする。そんな翔也に、結は反発する。

ヨン様であることから逃れたい翔也は、ギャルになりたいという。それを聞いて、結は、ギャルなめんな、と返す。結の言い分としては、ギャルは、外見のことではなく、人間としての生き方である、ということである。

翔也を救うことになるのは、結の姉の歩であった。仲間のギャルをたのんで、翔也と一緒にダンスをおどる。

一方、結は糸島に帰る。これは、どうやら米田の家族でしくんだことのようだったが。その糸島での描写がいい。糸島の米田の家での農業の仕事、祖父母とのカラオケ、そして、結のつくる料理(豚肉とタマネギのニンニク炒め)。そこに翔也がやってくる。このとき、結は、テーブルの上に食器をならべながら翔也に話しをしていた。これは、うまい演出である。手を動かしながら、定型的な動作をしながら、こころのなかで気持ちを整理しながら、自分のことばを探す。

結果として、結は、翔也に幸せにしてもらうのではなく、二人で幸せになる、ということで、翔也と結婚する意思を告げる。このような関係、男女が、対等の立場で一緒になるという設定は、これまでの朝ドラで、あまりありそうでなかったことかもしれない。たとえば、『虎に翼』の場合は、設定として無理がありすぎたと感じるし(強いていえば、寅子のわがままがすぎる。『虎に翼』では男女の対等な関係を描けていなかった。ただ、名字にこだわっただけであった。)、『らんまん』の場合は、いわゆる内助の功ということであった。

このようなスタイルでの男女を描くということは、やはり、今の時代のドラマとしてということを強く感じさせる。これは、このドラマの成功といっていいだろう。

ところで、この週まで見ても不満に思うところはいくつかある。

結の栄養士としての仕事があまり描かれない。社食のメニューは見なおすということになったが、それ以前に、栄養士の学校の時点で、どのような勉強をして、栄養士の仕事とはどんなものなのか、きちんとイメージできるようにしておくべきことだったと思う。

また、靴屋の渡辺の仕事ぶりが、まったく出てきていない。靴の職人として、実際に手を動かすシーンがあって、その仕事に集中することで、娘のことや震災のことが、徐々に気持ちが整理されていくプロセスをこそ、このドラマとしては描くべきところだったと思う。

2024年12月28日記

『カーネーション』「愛する力」2024-12-29

2024年12月29日 當山日出夫

『カーネーション』「愛する力」

この週から、周防が登場である。そして、奈津も出てくることになる。『カーネーション』全体のなかでも、印象にのこる時代といっていいだろうか。

夫の勝の戦友がたずねてきた。勝が持っていた写真を、岸和田までとどけてくれた。それは、勝と糸子と子どもたちの写真だった。それを見て、糸子は、勝が隠していた写真……芸妓と一緒に映っている……を燃やす。このとき、糸子は勝に買ってもらった赤いショールを肩にかけていた。この赤い色に光があたって、きれいな映像であった。赤い色のショールを巧みにつかった演出と感じたところである。

闇市で見つけた水玉の生地で、糸子は服を作る。それが、岸和田中に大流行する。このあたりは、ファッションというものがどうもよく分からないところでもある。流行っているなら同じものを着たいが、人と同じ姿もしたくない、このあたりの微妙なバランスが、着るものには無頓着な生活を送っている私には、どうもよくわからないところではある。

周防が出てきていたシーン。職人だから、口数は少ない。しかも、かなり長崎方言が強い。何を言っているかよくわからない。だが、その数少ないことばのなかで、長崎の「ピカ」と言っていた。原子爆弾のことである。だが、糸子はピカの意味を理解していたとは感じられない。はあ、そうですか、と聞いていただけだった。ピカの惨劇のなかで、周防は残った靴を大事にしている。妻子があることは語っていたが、どんな生活をしているかは不明である。そして、長崎が原爆でどんなになったかは、一言も語っていない。だからこそ、数少ないことばによって、周防が体験したであろう長崎の原爆の被害の悲惨さが、じんわりと伝わってくる。その被害の状況を、(今でいう語り部のように)饒舌に語ることは決してない。そのわずかなことば……ピカ、妻子は無事、靴が残った……だけで、おそらくそれ以外のなにもかも失ってしまったかもしれない身の上を想像してみることになる。

原爆の悲惨さを伝えるために、多くのことばを費やす必要はない、ということを感じさせる脚本であり演出であった。

また、印象に残るのは奈津のことである。それまで朝ドラでは、パンパンが出てくることはあまりなかった。闇市の場面で、身なりからそれと分かる女性が映っていることは、かなりあったが、はっきりと誰と特定して登場人物にあつかうことは、私の記憶にあるかぎりの朝ドラではない。やはりこれは、パンパンが、(はっきりというならば)米兵相手の売春婦である、ということを、かなり配慮してのことだったのだろう。

奈津は、パンパンになるしかなかった。吉田屋を失い、もはやこれ以上失うものはない、という境遇になってしまった奈津にとって、パンパンになるぐらいしか生きる道はなかったのだろう。これは、この時代の、少なくない数の女性の運命であったともいえるかもしれない。これは、特に肯定も否定もなく、そういうことのあった時代が過去にあったということを、忘れてはいけないということである。

奈津のために、糸子は安岡のおばちゃんに頼み込む。奈津は、安岡のおばちゃんにだけは心を開いていたからである。この安岡のおばちゃんと奈津との再会のシーンがいい。多くのことばを語って説得するというようなことはない。おばちゃんは、奈津のことを責めたりはしない。ただ、そばにいてことばを交わすだけである。そして、このシーンは、映像としてもとてもいい。人と人が、気持ちを分かり合えるということはどういうことなのか、わずかな科白と映像で雄弁に物語っている。

『カーネーション』が朝ドラのなかでも傑作とされるゆえんは、上述のような、きめ細やかだが大胆な脚本(決して、説明的ではない)と、映像の美しさによって、その時代に生きた人間の気持ちを表現しているからである、と私は思うことになる。

2024年12月28日記

『カムカムエヴリバディ』「1948」2024-12-29

2024年12月29日 當山日出夫

『カムカムエヴリバディ』「1948」

戦後、進駐軍が日本にいたころの話しである。

ロバート・ローズウッドは、最初に登場したとき、進駐軍将校ということであった。三回目ぐらいから、その名前がOPで見られるようになった。

安子は、自分は稔の妻であり安子の母親であると言っていた。普通のこの時代の感覚ならば、雉真の家の嫁、といってもいいところだが、そうは言っていなかった。しかし、雉真の父は、安子に対して、雉真の家の嫁であり、るいは雉真の家の子どもである、と言っていた。これは、この時代の感覚としては、父の言っている方が普通であろう。(そして、このことが、後の安子の行動へとつながっていくことになる。)

雉真の家では、雪衣がお手伝いさんとして働くようになっている。安子と勇とるいでキャッチボールをするシーンで、一瞬だけだが、台所で仕事をする雪衣の姿がはさんであった。これは、その後の、これらの登場人物がどのような関係になるかということを知っていると、実に巧みな演出であると感じる。

喫茶店のマスター、定一は、進駐軍相手の音楽の仕事をしている。それは、戦争に負けた立場ということを、実感することでもあった。

そして、印象に残るのは、週の最後の進駐軍のクリスマスパーティの場面。「きよしこの夜」ではじまり、ローズウッドの述懐で、戦争の犠牲者を敵味方なく悼むことになり、最後は、定一の歌う「The Sunny Side Of The Street」であった。この歌のシーンは、このドラマのなかでも印象にのこる場面の一つである。また、トランペットの少年も出てきていた。(後に重要な登場人物として再登場する。)

私が「きよしこの夜」の英語の歌詞を憶えたのは中学生のときだったと記憶する。今でも、この歌詞は憶えている。

2024年12月28日記