『坂の上の雲』「(18)広瀬、死す(後編)」2025-01-17

2025年1月17日 當山日出夫

『坂の上の雲』 (18)広瀬、死す(後編)

戦争が、英雄を生み出すものであるということは、いたしかたないことだとは思う。広瀬中佐は、日露戦争において、日本における戦争の英雄の一人であった。やはり、ここは「あった」としておくべきである。かつて、広瀬中佐の銅像が神田須田町にあったことは、もはや歴史の知識として知っていればいいことである。そして、そのような歴史があったことは、忘れるべきではない。

ところで、旅順港閉塞作戦であるが、疑問として思うことは、この時代、船はどのようにして自分の位置を把握していたのだろうか。現在のようにGPSはないし、レーダーさえもない。月があったとしても、その明かりで、地形を正確に見て取れたとは思えない。月明かりがなかったら、どうしようもならないだろうと思うが。船の位置を確定できないで、ねらった位置に船を自沈させることは不可能だと思わざるをえない。さて、この時代において、この旅順港閉塞作戦は、どれほど軍事的に合理的な作戦だったのだろうか。

旅順艦隊の動きを封じるだけであれば、機雷とか駆逐艦による雷撃でなんとかなりそうかなとも、思ってみるのだけれど、軍事史の専門家にとってどう評価されることになるのだろうか。

ドラマの中で使われていた曲は、「蛍の光」(OLD LANG SYNE)と「軍艦マーチ」だった。ともに、この時代にあった曲なので、使われていても不思議ではないのだけれども、旅順港閉塞作戦の艦隊を見送るときに、本当に演奏されたのだろうか、という気はする。

広瀬武夫は、死ぬためにこのドラマの中で描かれてきたことになる。繰り返しになるが、原作の司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、広瀬武夫のことは出てこない。広瀬武夫を、特にロシアとのかかわりで描くことによって、当時のロシアの人びと……それは、海軍士官であり、上流階級の人びとということにはなるが……を、ドラマの中に登場させることになる。ロシアの人びとが、日露戦争をどう見ていたかという視点を、設定することができる。無論、旅順港閉塞作戦は、日露戦争を語るときの山場の一つになる。このような意図があってのドラマであるとは思うのだが、今の時代の価値観で見ると、広瀬武夫をあまりにも英雄的に描きすぎているように感じられる。

私ぐらいの年代だと、「とどろくつつおと とびくるだんがん」という歌詞は知っているのだが、もうこの歌は、忘れられてしまっていい歌だと思う。広瀬武夫という歴史上の一人の軍人の事跡は、語り継ぐべきかもしれないが。

2025年1月16日記

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