「戦争のトラウマ 兵士たちの消えない悪夢」2025-01-23

2025年1月23日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 戦争のトラウマ 兵士たちの消えない悪夢

「映像の世紀」のシリーズは、これまでほとんど全部を見てきているはずである。なかで、第一次世界大戦後のPTSDを負った兵士の映像があったのを憶えている。しかし、このテーマでまとめての企画は、今回が初めてのはずである。

PTSDという用語も、今では、日常的に目にすることばになっている。こころの傷、こころのケア、ということがニュースで言われることも多い。

この症状が、精神医学の用語としてきちんと定義され、適切に診断されること、まずこれが第一に重要なことである。

現在、ニュースなどでよく使われる、こころのケア、ということも考えるべきではある。しかし、なんでもPTSDとしてしまうことも、また危険だろう。(これには、精神医学の定義がある)。だが、まずは、人間はこころに傷を負うものであるという認識が重要である。そして、これは、戦争に限らない。自然災害災害でも、起こりうることである。何よりも重要なことは、これはだれでもなりうるということであるという認識であると、私は思う。

番組では、戦争における兵士をとりあげていたが、戦場における被害者の側、たとえば、ベトナム戦争における民間人など、についても考えなければならないことであるにちがいない。もし生きのびることができたとしても、サイバーズ・ギルトということはありうるはずである。

冷酷なようだが、戦争において、兵士はどのような心理状態になるものなのか、ということの冷静な分析や調査は必要だろう。人間は、ときとして、どれほど残虐になりうるものなのか、人間とはどういうものなのか、という視点から考えてみることもあるべきと、私は思っている。(だから、戦場での残虐行為が許されるというわけではないのだけれど。)

シェルショック、戦争神経症、PTSDという概念の確立と治療に、フロイトがどのようにかかわったのか、説明があるとよかったと思う。

2025年1月21日記

フランケンシュタインの誘惑「幻の惑星 ヴァルカン」2025-01-23

2025年1月23日 當山日出夫

フランケンシュタインの誘惑 幻の惑星 ヴァルカン

これは面白かった。おそらく、天文学史、物理学史、こういう分野の知識のある人にとっては、当たり前のことかとも思う。

見ていて思うことの一つとして、この番組では「仮説」「パラダイム」ということばを、きちんと使っている。これらのことばは、今では一般的に広く使われることばであるが、しかし、科学(サイエンス)の用語としては、厳格に使用する必要がある。「パラダイム」ということばについては、『科学革命の構造』(トマス・クーン)の翻訳本を若いときに読んだ。今は、新しい訳本が出ているが、改めて読みなおしてみようという元気もないままでいる。

科学の歴史をたどると、何が真理であるかということもあるが、一方で、その歴史は、どの理論が観察された事象をもっとも合理的に説明できるか、ということでの「パラダイム」の変革の歴史であるといってよい。この意味では、かつての地動説も、その当時の知見としては合理的だったということになる。一般に、地動説は過去の迷妄としりぞけられがちであるが、どのような観測データを、どのように説明できるのか、という観点から見るべきだということである。

以前、読んだ本では、『ビッグバン宇宙論』(サイモン・シン、青木薫訳)が面白かった。今では、『宇宙創成』のタイトルで文庫本で出ている。

ニュートン力学で説明できることの範囲はどこまでか。説明できない事象があるとしたら、それは、新しいどのような理論で合理的に説明できるのか。このような「パラダイム」の変革があ、科学の歴史であったと、理解していいだろう。

また、天文学についてもそうだが、新しい技術の開発によって、それまで観測できなかったことがらが、観測可能になり、理論の正しさが証明される、あるいは、されない、ということもある。

サイエンスとはどういうものなのか。自然の真実、それを人間の認識として理解するためのいとなみであり方法論の確立と考えることができる。だが、それは、観測や実験のデータの信頼性の評価と、それを合理的に、また、エレガントに説明する理論を考えること、発見すること、ともいえるかもしれない。

番組の始めのところで、アメリカの天文台で一五〇年前の望遠鏡が残っていて、その時代の天文学者が見たであろう天体の姿を今も見ることができる、というのは、科学史という観点からみて、価値のあることだと考える。

どうでもいいことだが、人名の「ルヴェリエ」は、「ル・ヴェリエ」でもいいかなと思うけれど、これは細かなことである。

2025年1月17日記

「カラフルな魔女〜角野栄子の物語が生まれる暮らし」2025-01-23

2025年1月23日 當山日出夫

カラフルな魔女〜角野栄子の物語が生まれる暮らし

元日の日の午後にたまたまテレビを付けたら、Eテレではじまったので、そのまま見てしまった。見終わってから検索してみると、映画として近々公開になるようだ。

角野栄子の本は、『魔女の宅急便』は買って家にある。これは、子どもが小さいときに買ったものである。子どもに買った本は、自分でもなるべく目をとおしておくことにしている。『魔女の宅急便』も読んだ。

だが、角野栄子の他の作品については、特に買って読んでみようと思うことなく過ぎてしまっている。

見て思うことはいくつかある。

まず、第一には、とにかく元気だなあということである。番組の取材のときは、八八才から八九才。番組の放送のあった時点(今年の一月一日)で九〇才になる。それで、鎌倉の家で一人で暮らして、執筆を行い、散歩にも出かける。歩くときに、杖をついたりはしていない。しゃべり方もしっかりしている。元気な高齢者は多いが、そのなかでもこれほど元気な人は珍しいかもしれない。

角野栄子は海が好きらしい。映像でも海岸のシーンがいくつかあった。海を見るのが好きな人と、山を見るのが好きな人。こういうふうに分けることができるとしたら、角野栄子は海の好きな人になるにちがいない。(ちなみに、私は山の方が好きである。毎日の朝、外に出て花の写真など撮っていて、啄木鳥の音が聞こえてくるのが楽しみであったりする。)

詳しい経歴についてはあまり触れられることはなかった。ブラジルに移民として渡っていたという経歴は、そういう人もいたのか、ということで見ていた。ブラジルではいろいろと苦労もあったようだが、どういう事情で日本に帰ってくることになったかは、触れられていなかった。何かわけがあったに違いないとは思うのだが、強いて詮索することではないだろう。

創作の仕事をしている人は、若々しい人が多いとは思っているのだが、その暮らしぶり、服装など、九〇才に近い高齢者としては、とても若々しくおしゃれである。この年齢になって、「かわいい」ということばを使って、それが自然であるというのは、希と感じる。

下関に行って小学生の前で話をするシーンもいい。子どもの気持ちの分かる人でないと、こういう話しはできない。だからこそ、児童文学を書き続けていられるのだろう。

執筆した原稿について、マックの画面を見ながら声に出して読んでいた場面が印象に残っている。ことばを声に出して読むということは、特に児童書としては大切なことだろうと思う。(ただ、これも意図的な演出かなという気もしているのだが、どうなのだろうか。)

終わりの方で、人間には、誰でも大事にしているものがある……ということを言っていたが、これはそのとおりだと思う。(あえていえばであるが、今の時代、それぞれの人間に大事にしているものがあるということが、尊重されるようでいて、されないことが多い。)

2025年1月1日記