『坂の上の雲』「(21)二〇三高地(前編)」 ― 2025-02-06
2025年2月6日 當山日出夫
『坂の上の雲』 「(21)二○三高地(前編)」
ようやくだが、
『二〇三高地 旅順攻囲戦と乃木希典の決断』(角川新書). 長南政義.KADOKAWA.2004
を読んだ。去年の夏に出た本だが、部屋の中に積んであったものである。この本を読んだことをふまえて、ドラマの「二〇三高地」の回を見ることになった。
NHKの作った『坂の上の雲』のドラマは、近代の国民国家というものを、日露戦争を通じて描くことには、成功しているといっていいだろうが、しかし、その一方で、戦争をあまりにも感情的に描きすぎている。というよりも、戦争における、戦術、戦略、それから、作戦、という技術的な面を、あまりにも軽んじている。この観点からは失敗であるといってよい。
だが、日本で作る戦争のドラマとして、このようになってしまうことは、理解はできるつもりではある。これまでの多くの戦争映画やドラマの蓄積としては、かなり緻密で大胆な脚本であるとは思うが、やはり、戦争を精神論で語る、ということは避けることができていない。
まず、日露戦争が何を原因として起こり、何を目的として戦ったのか。これまでのこととしては、東方へ勢力をのばしてくるロシアに対する防衛戦争、という解釈であった。では、それを阻止するために、何を達成すればよいのか、日本が戦争で目的としたものが何であったか、具体的にはしめされていなかった。(これは、その後の太平洋戦争でも同じかと思う。アメリカ相手に戦争して、何を達成すればいいのか、ということになる。歴史的には、大東亜共栄圏の確立というのは、後付けの理由ということなるはずだが。)
その戦争において、旅順のロシア軍の要塞がどういう意味をもつのか、それは壊滅させねばならないものなのか、あるいは、旅順港のロシア艦隊が問題であったのか、このあたりの判断が、はっきりとしめされていない。日本海の制海権、ロジスティックスの確保、という観点からは、旅順艦隊の存在が脅威であり、なんとかこれを封じ込めなければならない。初期の旅順港閉塞作戦は、これを意図したものであった。
旅順要塞を攻撃することについての陸軍の戦略の意義(要塞を陥落させた後に、第三軍を満州に投入する)と、海軍としては旅順港の艦隊を陸上から攻撃するために二〇三高地を観測点として確保する、これは、戦略の目的が異なる。そして、そのための戦術も作戦も異なってくることになる。
第三軍の司令官としての乃木希典の意図したことと、連合艦隊で秋山真之が考えていたことが、乖離していたことになる。また、このことについて、陸海軍を統合して、どのようにして、旅順要塞、旅順艦隊を、攻撃することになるのか、統一的な見識がなかった、といっていいかもしれない。まあ、結果的には、旅順は陥落し、旅順艦隊も殲滅することができたので、成功した戦争ということにはなる。
だが、その結果にいたる意志決定がどのようであったのか、その根拠となった、戦争についての大局的な判断、また、旅順要塞をめぐるインテリジェンスの実態、こういうことが、このドラマを見ていてほとんど分からない。
歴史の結果としては、乃木希典は二〇三高地を奪い、そして、旅順を手に入れたことになるが、その結果にいたるまでに、どのような状況判断があって、何を考えて、どのような作戦を計画したのか……このあたりのことが、ドラマを見ていて理解できない。これは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでも同様である。小説では、乃木希典は愚将として描かれている。それに対して、戦争の大局を見て作戦をたてたのが児玉源太郎ということになっている。28サンチ砲の投入は、児玉源太郎の賢明な判断であったということになっている。
だが、長南政義の本を読むと、乃木希典は、決して愚将というべきではなく、軍人として的確に判断していたということになるらしい。(この評価については、軍事史の専門家が、さらにどう考えるか、ということになる。)
戦争を技術的に描くことも、必要だろう。この当時の軍事の常識的判断として、要塞の攻略は、どのようにすすめるべきものであったのか、ここのところはきちんと描いておくべきことだったと思う。ドラマの画面では、要塞に近づくために、ジグザグに塹壕を掘っていったということのようだが、このような戦術については、しかるべく説明してあった方がよかったと思う。ただ肉弾攻撃ばかりで敵の機関銃の餌食になる、というような描写だけでは、まあドラマとして戦場の映像としては迫力はあるが、この戦争の実態がどうであったかの理解には役にたたないかもしれない。
乃木希典を人格者として描くことはいいとしても、軍の統率者として部下や兵卒からどう見られていたのか、ということも重要である。それをふまえないでは、司令官としての乃木希典も描くことはできないはずである。何故、兵士たちは無謀ともいえる戦場に向かったのか、戦場における兵士、軍人の心理こそ描くべきことである。
また、絶対に言ってはいけないことは……ここで退却したら死んだ兵士にもうしわけない、という論理である。このことは、確かに心情としては理解できることであるし、死者とともに今生きてている人間が存在するという感覚は大事である。しかし、これを戦争を継続することの理由にしてはいけない。このことは、その後、日本が大陸に進出して引くに引けなくなっていく過程を考えると、非情なようだが、冷静な政治的判断、軍事的判断が、求められるところである。
つくづく、戦争のドラマとは難しいものだと思う。
2025年2月5日記
『坂の上の雲』 「(21)二○三高地(前編)」
ようやくだが、
『二〇三高地 旅順攻囲戦と乃木希典の決断』(角川新書). 長南政義.KADOKAWA.2004
を読んだ。去年の夏に出た本だが、部屋の中に積んであったものである。この本を読んだことをふまえて、ドラマの「二〇三高地」の回を見ることになった。
NHKの作った『坂の上の雲』のドラマは、近代の国民国家というものを、日露戦争を通じて描くことには、成功しているといっていいだろうが、しかし、その一方で、戦争をあまりにも感情的に描きすぎている。というよりも、戦争における、戦術、戦略、それから、作戦、という技術的な面を、あまりにも軽んじている。この観点からは失敗であるといってよい。
だが、日本で作る戦争のドラマとして、このようになってしまうことは、理解はできるつもりではある。これまでの多くの戦争映画やドラマの蓄積としては、かなり緻密で大胆な脚本であるとは思うが、やはり、戦争を精神論で語る、ということは避けることができていない。
まず、日露戦争が何を原因として起こり、何を目的として戦ったのか。これまでのこととしては、東方へ勢力をのばしてくるロシアに対する防衛戦争、という解釈であった。では、それを阻止するために、何を達成すればよいのか、日本が戦争で目的としたものが何であったか、具体的にはしめされていなかった。(これは、その後の太平洋戦争でも同じかと思う。アメリカ相手に戦争して、何を達成すればいいのか、ということになる。歴史的には、大東亜共栄圏の確立というのは、後付けの理由ということなるはずだが。)
その戦争において、旅順のロシア軍の要塞がどういう意味をもつのか、それは壊滅させねばならないものなのか、あるいは、旅順港のロシア艦隊が問題であったのか、このあたりの判断が、はっきりとしめされていない。日本海の制海権、ロジスティックスの確保、という観点からは、旅順艦隊の存在が脅威であり、なんとかこれを封じ込めなければならない。初期の旅順港閉塞作戦は、これを意図したものであった。
旅順要塞を攻撃することについての陸軍の戦略の意義(要塞を陥落させた後に、第三軍を満州に投入する)と、海軍としては旅順港の艦隊を陸上から攻撃するために二〇三高地を観測点として確保する、これは、戦略の目的が異なる。そして、そのための戦術も作戦も異なってくることになる。
第三軍の司令官としての乃木希典の意図したことと、連合艦隊で秋山真之が考えていたことが、乖離していたことになる。また、このことについて、陸海軍を統合して、どのようにして、旅順要塞、旅順艦隊を、攻撃することになるのか、統一的な見識がなかった、といっていいかもしれない。まあ、結果的には、旅順は陥落し、旅順艦隊も殲滅することができたので、成功した戦争ということにはなる。
だが、その結果にいたる意志決定がどのようであったのか、その根拠となった、戦争についての大局的な判断、また、旅順要塞をめぐるインテリジェンスの実態、こういうことが、このドラマを見ていてほとんど分からない。
歴史の結果としては、乃木希典は二〇三高地を奪い、そして、旅順を手に入れたことになるが、その結果にいたるまでに、どのような状況判断があって、何を考えて、どのような作戦を計画したのか……このあたりのことが、ドラマを見ていて理解できない。これは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでも同様である。小説では、乃木希典は愚将として描かれている。それに対して、戦争の大局を見て作戦をたてたのが児玉源太郎ということになっている。28サンチ砲の投入は、児玉源太郎の賢明な判断であったということになっている。
だが、長南政義の本を読むと、乃木希典は、決して愚将というべきではなく、軍人として的確に判断していたということになるらしい。(この評価については、軍事史の専門家が、さらにどう考えるか、ということになる。)
戦争を技術的に描くことも、必要だろう。この当時の軍事の常識的判断として、要塞の攻略は、どのようにすすめるべきものであったのか、ここのところはきちんと描いておくべきことだったと思う。ドラマの画面では、要塞に近づくために、ジグザグに塹壕を掘っていったということのようだが、このような戦術については、しかるべく説明してあった方がよかったと思う。ただ肉弾攻撃ばかりで敵の機関銃の餌食になる、というような描写だけでは、まあドラマとして戦場の映像としては迫力はあるが、この戦争の実態がどうであったかの理解には役にたたないかもしれない。
乃木希典を人格者として描くことはいいとしても、軍の統率者として部下や兵卒からどう見られていたのか、ということも重要である。それをふまえないでは、司令官としての乃木希典も描くことはできないはずである。何故、兵士たちは無謀ともいえる戦場に向かったのか、戦場における兵士、軍人の心理こそ描くべきことである。
また、絶対に言ってはいけないことは……ここで退却したら死んだ兵士にもうしわけない、という論理である。このことは、確かに心情としては理解できることであるし、死者とともに今生きてている人間が存在するという感覚は大事である。しかし、これを戦争を継続することの理由にしてはいけない。このことは、その後、日本が大陸に進出して引くに引けなくなっていく過程を考えると、非情なようだが、冷静な政治的判断、軍事的判断が、求められるところである。
つくづく、戦争のドラマとは難しいものだと思う。
2025年2月5日記
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