『べらぼう』「鱗剥がれた『節用集』」2025-02-10

2025年2月10日 當山日出夫

『べらぼう』 「鱗剥がれた『節用集』」

確かに鱗形屋は、「節用集」の件で没落することにはなる、これは史実としてあることなのだが、このドラマの描き方としては、もうちょっと説明があった方がいいかなという気がする。

そもそも、江戸時代に、現代のような厳格な著作権は存在していないので、いわゆる海賊版で出版することは、ごく普通に行われていたことだと思っている。それが、鱗形屋の件で、なぜ大きくあつかわれることになったのか、その背景というか、特別な事情があったのか、どうだったのだろうかと思う。なにか裏の事情があるようではあったが、はっきり具体的には描いていなかった。ある藩と幕閣がからんでいたようだが。

「節用集」の刊行というのは、そんなに儲かる商売だったのだろうか。

「節用集」については、国語学、日本語学を勉強すれば、目にする、あるいは、手にすることの多いものではある。今では、国語史、日本語史のメインの研究課題ということではなくなっているかと思う。とはいえ、現代でも「節用集」の研究はすすめられている。

鬼平が、この回では、格好よく登場していた。かつてのような野暮の面影はない。あるいは、これから、いろいろと登場することになるだろうか。

このドラマは、吉原から江戸時代を描こうということなのだが、この設定では、かなり難しいところがあるかと思っている。吉原は、江戸時代にあって、世俗の価値観が通用しない別世界だったからこそ、その存在価値があったところでもある。しかし、その時代のおおきな流れのなかにあったことも確かであり、その連続性と断絶を、どうバランス良く描くかは、とても難しいと思う。この意味では、江戸市中の人びとの視点を、どうとりこんでいくかということが、重要な課題になるのかもしれない。

吉原における、「通」と「野暮」それから「半可通」、このあたりを、ドラマのなかで、説明的になりすぎず、面白く描くことは、かなり工夫していると感じるところである。いつの時代にも、その時代の最先端の流行で、もてようとする男はいるものである。吉原の場合は、それもかなり特殊な形で、現れることになるだろうが。

田舎者が通を気取って野暮になる……というのは、見方によっては随分と地方を見下したいいかたでもある。だからこそ、吉原のことを嫌って、岡場所に流れる客が多いのだろうとは思うけれど。

「赤本」「青本」は、江戸時代に庶民に読まれた読み物であるが、この実態はどんなものだったのだろうか。私が勉強していたころは、この類の本が、まとめて写真複製版で刊行されるということはなかった。ある意味で、ありふれていた本であったということもあるし、文学史、あるいは、国語史の観点から、そう重要視される本でもなかったということもある。

ただ、日本の人びとが、何を読んできたのか、という、読書史、書物史という観点からは、大きな意味を持つ書物であることになる。これからの研究課題だろう。全国的な規模での、過去の書物のデジタル化と公開が進めば、その全体像が見えてくることになるだろうか。

物之本、草紙、という区別が、この回になってようやく登場したことになる。これらは、江戸時代の出版において、その制作、流通が、それぞれに独立したものであったということは、近世の出版史の常識的な知識であると、私は認識している。

社会的階層と読書というのは、とても興味深いテーマである。吉原の遊女は、社会的階層としては、どう考えればいいのだろうか。このドラマでは、吉原の遊女の読むものとして、「赤本」「青本」ということになっていた。場合によっては、吉原の花魁クラスであるならば、もっと高級な教養を身につけていた、ということもあるかもしれない。

田沼意次については、その評価が難しいかもしれない。この時代の経済の実態がどのようなものであったのか、ということが分からないと、田沼意次が何を目指していたのか、このドラマのなかでは、今一つはっきり分からない。

日光社參が、莫大な経費がかかるとして、それは、武士の負担にはなるだろうが、それにかかる費用は、最終的にはどこかに流れていく……ある種の公共事業と思えば、それなりに意味のあることなのかもしれない。とはいえ、この時代の幕府には、それだけのおおきな事業をおこなうだけの余裕がなくなってきていた、ということであろうか。まあ、強いていえば、今の時代の大阪万博のような無駄なイベントとの強行ということかもしれない。

このドラマでは、映像的にいいと思って見ているのは、やはり吉原の場面である。女郎たちの姿が、美しく映像として描かれている。それから、江戸市中の街の様子が興味深い。

なかで系図を売りつけることが出てきていたが、まあ、いつの時代も、このようなことにこだわるやからはいるものであり、それをもとに金儲けをしようというやからもいる。田沼意次には、通じなかったようであるが。このあたりは、完全な実力主義者ということになる。

吉原と江戸市中の制作にコストがかけているせいか、どうも、徳川家治のまわりのことが、ショボい。江戸城は、もっと豪勢であってもいいと思うが、どうなのだろうか。

家治と田沼意次が、面と向かい合って将棋をさすというようなことは、あったのだろうか。家治の将棋好きは知られていることであるが。

2025年2月9日記

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