カラーでよみがえる映像の世紀「第3集「それはマンハッタンから始まった」」 ― 2025-02-15
2025年2月15日 當山日出夫
カラーでよみがえる映像の世紀 第3集「それはマンハッタンから始まった」 〜噴き出した大衆社会の欲望が時代を動かした〜
これは前に見ている。「映像の世紀」シリーズで、AIによるカラー化を試みた最初が、この「それはマンハッタンから始まった」だったはずである。NHKの番組のHPには、このことは書いていないけれど。
何度も書くことになるが、この時代までは、記録映画は白黒フィルムしかなかった時代だから、カラー化にも、ある程度の意味を見いだせる。しかし、これからしばらくたって、太平洋戦争の近づくころになるとカラーフィルムが実用に使われるようになる。『風と共に去りぬ』は1939年の制作であるし、『ファンタジア』は1940年である。(アメリカがこういう映画を作れる国であるということは、日本でも知られていた。だが、それは一部にとどまっていた、ということになるだろうか。)
1920年代のアメリカ、好景気にわき、いわゆるバブル景気を謳歌していたころのアメリカということになる。番組の作り方としては、この時代のアメリカに、現代のアメリカに通じるものを読みとる、という方向性が感じとれる。十分に豊かさを実感できる生活、同時に、移民や黒人などへの差別もあった時代、この基本構造は、大枠ではたしかに今も変わっていないというべきかと思う。
ラジオ、新聞、映画、などの通信メディアの発達によって、人びとの考え方が左右される時代を迎えたことになる。これは、現代では、インターネットによって、途方もない状況になっている。少なくとも、1920年代のアメリカでは、人びとに共有の価値観と情報があったと思っていいと思うが、これが、今では、人によって見る世界と価値観が大きく変わってきてしまっている。見たいものしか見ないし、得たい情報しか得ないようになってきている。現代の社会では、自分と異なる意見を知るためには、かなりのコスト(時間的、精神的、経済的)をかけなければならないようになってしまっている。
アメリカ市民のリンドバーグへの熱狂は、まさに今の時代におけるトランプ大統領に重なるところがある。意図的にこうなったわけではないだろうが、このように解釈して見ることもできる。
それぞれのシーンは、興味深いものであるのだが、私が、この回を見て一番印象に残るのは、昭和天皇が皇太子だったときの映像である。大日本帝国の皇太子としての凜々しい姿が、映像として映しとどめられている。歴史学の方でも、この皇太子時代の外遊が、昭和天皇としての考え方に影響を与えたであろうことが、言われていると思っている。
この時代のアメリカを象徴するのは、フィッツジェラルドであろうか。日本においては、芥川龍之介の自殺から、昭和初期の自由な時代ということになるだろうか。関東大震災からの帝都復興のときでもある。
2025年2月11日記
カラーでよみがえる映像の世紀 第3集「それはマンハッタンから始まった」 〜噴き出した大衆社会の欲望が時代を動かした〜
これは前に見ている。「映像の世紀」シリーズで、AIによるカラー化を試みた最初が、この「それはマンハッタンから始まった」だったはずである。NHKの番組のHPには、このことは書いていないけれど。
何度も書くことになるが、この時代までは、記録映画は白黒フィルムしかなかった時代だから、カラー化にも、ある程度の意味を見いだせる。しかし、これからしばらくたって、太平洋戦争の近づくころになるとカラーフィルムが実用に使われるようになる。『風と共に去りぬ』は1939年の制作であるし、『ファンタジア』は1940年である。(アメリカがこういう映画を作れる国であるということは、日本でも知られていた。だが、それは一部にとどまっていた、ということになるだろうか。)
1920年代のアメリカ、好景気にわき、いわゆるバブル景気を謳歌していたころのアメリカということになる。番組の作り方としては、この時代のアメリカに、現代のアメリカに通じるものを読みとる、という方向性が感じとれる。十分に豊かさを実感できる生活、同時に、移民や黒人などへの差別もあった時代、この基本構造は、大枠ではたしかに今も変わっていないというべきかと思う。
ラジオ、新聞、映画、などの通信メディアの発達によって、人びとの考え方が左右される時代を迎えたことになる。これは、現代では、インターネットによって、途方もない状況になっている。少なくとも、1920年代のアメリカでは、人びとに共有の価値観と情報があったと思っていいと思うが、これが、今では、人によって見る世界と価値観が大きく変わってきてしまっている。見たいものしか見ないし、得たい情報しか得ないようになってきている。現代の社会では、自分と異なる意見を知るためには、かなりのコスト(時間的、精神的、経済的)をかけなければならないようになってしまっている。
アメリカ市民のリンドバーグへの熱狂は、まさに今の時代におけるトランプ大統領に重なるところがある。意図的にこうなったわけではないだろうが、このように解釈して見ることもできる。
それぞれのシーンは、興味深いものであるのだが、私が、この回を見て一番印象に残るのは、昭和天皇が皇太子だったときの映像である。大日本帝国の皇太子としての凜々しい姿が、映像として映しとどめられている。歴史学の方でも、この皇太子時代の外遊が、昭和天皇としての考え方に影響を与えたであろうことが、言われていると思っている。
この時代のアメリカを象徴するのは、フィッツジェラルドであろうか。日本においては、芥川龍之介の自殺から、昭和初期の自由な時代ということになるだろうか。関東大震災からの帝都復興のときでもある。
2025年2月11日記
フロンティア「ナスカの地上絵 知られざる全貌」 ― 2025-02-15
2025年2月15日 當山日出夫
フロンティア ナスカの地上絵 知られざる全貌
山形大学の研究の意義はたしかにすばらしいと思うのだが、しかし、それをこういう番組でこういう形にすることには、ちょっとどうかなあ、と思うところがある。ナスカ台地に未発見の地上絵があり、それAIを使った技術で見つけるということ自体は、まさに今日の研究である。
だが、そこから、古代のアンデスの信仰とか文化まですぐに結びつけて考えることになるのは、かなり飛躍があると感じる。
興味深かったことはいくつかある。
実際に現地で、地上に人間がたって地上絵を見たらどう見えるのか、ということ。以外と、これまで、こういう映像を見たことはないと思う。
また、現代の人間が同じように地上絵を描いてみようとしたら、これがとても簡単にできることだったという。これも、非常に面白い。(これは、その後もとにもどしたのだろうと思うが、どうだったのだろうか。)
しかし、学問的にはそういうことになるのだろうが(たぶん、専門家はそういう結論には同意するのだろうが)、なぜそう考えることになるのか、という過程の説明がかなり省略されている。
ナスカの地上絵が描かれた時期の推定は、どういう根拠にもとづくものなのだろうか。地上絵それ自体から、その年代を示すものは、何も見つかってはいないはずである。おそらくは、ナスカに古代国家があって、人びとが居住し、それは、地上絵を残すような規模の人間のまとまった集団であった……ということから、その年代を推定するということなのだろうと思うが、確証があってのこととは思われない。考古学的には、いったいどうなのだろうか。地質学、炭素同位体、などから確定的なことが言えるのだろうか。もし言えるなら、こういうことはきちんと番組のなかにとりこんでほしい。
カワチ神殿があったことは、発掘の結果としてそういうことになる。だが、この神殿の存在と、当時の古代アンデスの人びとと、文化や社会がどうであったか、このあたりのことが、強引に一つのストーリーに作りあげられているという印象になる。特に、地上絵が、聖地の巡礼の道筋を示すものであるならば、そのことを、もっと明確に示す必要がある。直線の地上絵が、そのルートを示していたとしても、だからといって、他の動物などの地上絵も、そのなかに同様にふくめて考えていいものなのだろうか。聖地の巡礼という概念も、かなり西欧的な考え方を、無理にもちこんでいるようにも思える。たしかに、古代の宗教について一般的にいえることかもしれないが、だからといって、すぐにそうだと断定するのは、どうかと思う。
聖地への巡礼で、多くの人びとが歩いた、ということはどうなのだろうか。これによって、消えてしまった地上絵もあるかもしれないし、また、歩いた跡が残っているということなのかもしれない。地面をわずかに掘るだけで地上絵が描ける場所である。このことをふくめた合理的な説明があったとは思えない。
地面を数センチ掘れば、地上絵を描くことができる。特殊な技術が必要ということではないようだ。となれば、地上絵を描いた人たちは、同じ人たちでなくてもいいかもしれない。複数の人間の集団がかかわっていてもいいと思うが、これを否定する根拠はいったい何なのだろうか。
そもそも、そのように簡単に描くことができる、ということは簡単に消すこともできるだろう、そのような地上絵が、千数百年以上も残ってきているのは、なぜなのだろうか、このあたりのことが最大の謎だと、私は思うのだが、番組ではこのことに言及はなかった。
古代のナスカの森が綿の栽培のために伐採された、環境破壊が起こったということは、これは非常に興味深い。このことと、この地域に古代からどのような人びとが、どんなふうにくらしてきたのか、これをからめてダイナミックに、人類史、気候変動、洪水、環境の変化、ということを、考えてみる……本来ならば、こういう方向であってもいいのではないか。その中の歴史の一コマとして、ナスカに地上絵が残された、ということになるのだろう。
この地域をふくめて、古代のアンデスの人類史、文明史の変遷の概略をしめすべきだっただろう。でなければ、現在、この地域に住んでいる人たちが、本当に、ナスカの地上絵を描いた人びとの子孫であるのか、分からないはずである。あるいは、これは、疑問をはさんではいけない、PCにかかわる領域のことになるのだろうか。だが、そうだとしても、学問的な知見は示すべきである。文字をもたなかったナスカの古代文化を継承するということは、はたして可能なことなのだろうか。
この回は、非常に興味深い部分がありながら、全体としては、かなり雑な印象をうける。古代のアンデスの人びとはこうだったと、想像に想像を重ねて言ってしまっている感じるところが、非常に多い。学問的裏付けのあることなら、それはきちんと示すことができるはずだし、想像で言っているなら、そうであると断りをいれておくべきである。
2025年2月13日記
フロンティア ナスカの地上絵 知られざる全貌
山形大学の研究の意義はたしかにすばらしいと思うのだが、しかし、それをこういう番組でこういう形にすることには、ちょっとどうかなあ、と思うところがある。ナスカ台地に未発見の地上絵があり、それAIを使った技術で見つけるということ自体は、まさに今日の研究である。
だが、そこから、古代のアンデスの信仰とか文化まですぐに結びつけて考えることになるのは、かなり飛躍があると感じる。
興味深かったことはいくつかある。
実際に現地で、地上に人間がたって地上絵を見たらどう見えるのか、ということ。以外と、これまで、こういう映像を見たことはないと思う。
また、現代の人間が同じように地上絵を描いてみようとしたら、これがとても簡単にできることだったという。これも、非常に面白い。(これは、その後もとにもどしたのだろうと思うが、どうだったのだろうか。)
しかし、学問的にはそういうことになるのだろうが(たぶん、専門家はそういう結論には同意するのだろうが)、なぜそう考えることになるのか、という過程の説明がかなり省略されている。
ナスカの地上絵が描かれた時期の推定は、どういう根拠にもとづくものなのだろうか。地上絵それ自体から、その年代を示すものは、何も見つかってはいないはずである。おそらくは、ナスカに古代国家があって、人びとが居住し、それは、地上絵を残すような規模の人間のまとまった集団であった……ということから、その年代を推定するということなのだろうと思うが、確証があってのこととは思われない。考古学的には、いったいどうなのだろうか。地質学、炭素同位体、などから確定的なことが言えるのだろうか。もし言えるなら、こういうことはきちんと番組のなかにとりこんでほしい。
カワチ神殿があったことは、発掘の結果としてそういうことになる。だが、この神殿の存在と、当時の古代アンデスの人びとと、文化や社会がどうであったか、このあたりのことが、強引に一つのストーリーに作りあげられているという印象になる。特に、地上絵が、聖地の巡礼の道筋を示すものであるならば、そのことを、もっと明確に示す必要がある。直線の地上絵が、そのルートを示していたとしても、だからといって、他の動物などの地上絵も、そのなかに同様にふくめて考えていいものなのだろうか。聖地の巡礼という概念も、かなり西欧的な考え方を、無理にもちこんでいるようにも思える。たしかに、古代の宗教について一般的にいえることかもしれないが、だからといって、すぐにそうだと断定するのは、どうかと思う。
聖地への巡礼で、多くの人びとが歩いた、ということはどうなのだろうか。これによって、消えてしまった地上絵もあるかもしれないし、また、歩いた跡が残っているということなのかもしれない。地面をわずかに掘るだけで地上絵が描ける場所である。このことをふくめた合理的な説明があったとは思えない。
地面を数センチ掘れば、地上絵を描くことができる。特殊な技術が必要ということではないようだ。となれば、地上絵を描いた人たちは、同じ人たちでなくてもいいかもしれない。複数の人間の集団がかかわっていてもいいと思うが、これを否定する根拠はいったい何なのだろうか。
そもそも、そのように簡単に描くことができる、ということは簡単に消すこともできるだろう、そのような地上絵が、千数百年以上も残ってきているのは、なぜなのだろうか、このあたりのことが最大の謎だと、私は思うのだが、番組ではこのことに言及はなかった。
古代のナスカの森が綿の栽培のために伐採された、環境破壊が起こったということは、これは非常に興味深い。このことと、この地域に古代からどのような人びとが、どんなふうにくらしてきたのか、これをからめてダイナミックに、人類史、気候変動、洪水、環境の変化、ということを、考えてみる……本来ならば、こういう方向であってもいいのではないか。その中の歴史の一コマとして、ナスカに地上絵が残された、ということになるのだろう。
この地域をふくめて、古代のアンデスの人類史、文明史の変遷の概略をしめすべきだっただろう。でなければ、現在、この地域に住んでいる人たちが、本当に、ナスカの地上絵を描いた人びとの子孫であるのか、分からないはずである。あるいは、これは、疑問をはさんではいけない、PCにかかわる領域のことになるのだろうか。だが、そうだとしても、学問的な知見は示すべきである。文字をもたなかったナスカの古代文化を継承するということは、はたして可能なことなのだろうか。
この回は、非常に興味深い部分がありながら、全体としては、かなり雑な印象をうける。古代のアンデスの人びとはこうだったと、想像に想像を重ねて言ってしまっている感じるところが、非常に多い。学問的裏付けのあることなら、それはきちんと示すことができるはずだし、想像で言っているなら、そうであると断りをいれておくべきである。
2025年2月13日記
Asia Insight「新運河は何をもたらすのか 〜カンボジア〜」 ― 2025-02-15
2025年2月15日 當山日出夫
Asia Insight 新運河は何をもたらすのか 〜カンボジア〜
カンボジアという国については、ほとんど知るところがないというのが、本当のところである。東南アジアの重要な国家の一つであり、かつて、ポル・ポト政権のもとで大虐殺があったことは、知っている。だが、現在の政治については、不案内である。
運河を建設する工事の意義は、まあ、分かる気がする。首都から海まで船で行けるようにして、物流の中心とする。これは、これまでのベトナムに対する依存度を下げることになる。また、運河の周囲の農業にとっては、農業用水の安定的な確保につながる。
まあ、いいことづくめのようなのだが、これを中国資本にたよって進めるというのは、どうなるだろうか。中国経済が、順調なままならいいが、普通に伝えられるところでは、これからの先行きはどうもあやういかもしれない。対外投資をこれまでのように潤沢に行うことができるだろうか。
運河を作ったはいいけれども、スリランカのように、運河の利用の権利を、中国企業にもっていかれてしまうという事態は、避けたいところだろう。
それにしても、この大規模公共工事のすすめかたは、日本の感覚からすればであるが、かなり強引な感じがする。土地を奪われる農民に対する、説明や補賞は、もっと丁寧であるべきだし、金額も非常に少ないと思う。こういう強引なことができる政治体制というのが、まあ、今のカンボジアの国の有様ということなのだろう。
立ち退きを命ぜられた夫婦は、孤児であったという。ポル・ポト政権の犠牲者である。このような人びとが、まだ数多くいるのが、今のカンボジアであることは確かなことなのだろう。
番組の中で映っていた、カンボジアの米作。機械化されているようでもあり、一方で、非常に前近代的なようでもある。これを、日本の田圃での米作と比較してみるということが、いけないのかとも思うが。米は輸出されているということだが、どこに向けてなのだろうか。米の袋には漢字が書いてあったので、中国向けかと思ったりするのだが、どうなのだろうか。
2025年2月12日記
Asia Insight 新運河は何をもたらすのか 〜カンボジア〜
カンボジアという国については、ほとんど知るところがないというのが、本当のところである。東南アジアの重要な国家の一つであり、かつて、ポル・ポト政権のもとで大虐殺があったことは、知っている。だが、現在の政治については、不案内である。
運河を建設する工事の意義は、まあ、分かる気がする。首都から海まで船で行けるようにして、物流の中心とする。これは、これまでのベトナムに対する依存度を下げることになる。また、運河の周囲の農業にとっては、農業用水の安定的な確保につながる。
まあ、いいことづくめのようなのだが、これを中国資本にたよって進めるというのは、どうなるだろうか。中国経済が、順調なままならいいが、普通に伝えられるところでは、これからの先行きはどうもあやういかもしれない。対外投資をこれまでのように潤沢に行うことができるだろうか。
運河を作ったはいいけれども、スリランカのように、運河の利用の権利を、中国企業にもっていかれてしまうという事態は、避けたいところだろう。
それにしても、この大規模公共工事のすすめかたは、日本の感覚からすればであるが、かなり強引な感じがする。土地を奪われる農民に対する、説明や補賞は、もっと丁寧であるべきだし、金額も非常に少ないと思う。こういう強引なことができる政治体制というのが、まあ、今のカンボジアの国の有様ということなのだろう。
立ち退きを命ぜられた夫婦は、孤児であったという。ポル・ポト政権の犠牲者である。このような人びとが、まだ数多くいるのが、今のカンボジアであることは確かなことなのだろう。
番組の中で映っていた、カンボジアの米作。機械化されているようでもあり、一方で、非常に前近代的なようでもある。これを、日本の田圃での米作と比較してみるということが、いけないのかとも思うが。米は輸出されているということだが、どこに向けてなのだろうか。米の袋には漢字が書いてあったので、中国向けかと思ったりするのだが、どうなのだろうか。
2025年2月12日記
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