フロンティア「ナスカの地上絵 知られざる全貌」 ― 2025-02-15
2025年2月15日 當山日出夫
フロンティア ナスカの地上絵 知られざる全貌
山形大学の研究の意義はたしかにすばらしいと思うのだが、しかし、それをこういう番組でこういう形にすることには、ちょっとどうかなあ、と思うところがある。ナスカ台地に未発見の地上絵があり、それAIを使った技術で見つけるということ自体は、まさに今日の研究である。
だが、そこから、古代のアンデスの信仰とか文化まですぐに結びつけて考えることになるのは、かなり飛躍があると感じる。
興味深かったことはいくつかある。
実際に現地で、地上に人間がたって地上絵を見たらどう見えるのか、ということ。以外と、これまで、こういう映像を見たことはないと思う。
また、現代の人間が同じように地上絵を描いてみようとしたら、これがとても簡単にできることだったという。これも、非常に面白い。(これは、その後もとにもどしたのだろうと思うが、どうだったのだろうか。)
しかし、学問的にはそういうことになるのだろうが(たぶん、専門家はそういう結論には同意するのだろうが)、なぜそう考えることになるのか、という過程の説明がかなり省略されている。
ナスカの地上絵が描かれた時期の推定は、どういう根拠にもとづくものなのだろうか。地上絵それ自体から、その年代を示すものは、何も見つかってはいないはずである。おそらくは、ナスカに古代国家があって、人びとが居住し、それは、地上絵を残すような規模の人間のまとまった集団であった……ということから、その年代を推定するということなのだろうと思うが、確証があってのこととは思われない。考古学的には、いったいどうなのだろうか。地質学、炭素同位体、などから確定的なことが言えるのだろうか。もし言えるなら、こういうことはきちんと番組のなかにとりこんでほしい。
カワチ神殿があったことは、発掘の結果としてそういうことになる。だが、この神殿の存在と、当時の古代アンデスの人びとと、文化や社会がどうであったか、このあたりのことが、強引に一つのストーリーに作りあげられているという印象になる。特に、地上絵が、聖地の巡礼の道筋を示すものであるならば、そのことを、もっと明確に示す必要がある。直線の地上絵が、そのルートを示していたとしても、だからといって、他の動物などの地上絵も、そのなかに同様にふくめて考えていいものなのだろうか。聖地の巡礼という概念も、かなり西欧的な考え方を、無理にもちこんでいるようにも思える。たしかに、古代の宗教について一般的にいえることかもしれないが、だからといって、すぐにそうだと断定するのは、どうかと思う。
聖地への巡礼で、多くの人びとが歩いた、ということはどうなのだろうか。これによって、消えてしまった地上絵もあるかもしれないし、また、歩いた跡が残っているということなのかもしれない。地面をわずかに掘るだけで地上絵が描ける場所である。このことをふくめた合理的な説明があったとは思えない。
地面を数センチ掘れば、地上絵を描くことができる。特殊な技術が必要ということではないようだ。となれば、地上絵を描いた人たちは、同じ人たちでなくてもいいかもしれない。複数の人間の集団がかかわっていてもいいと思うが、これを否定する根拠はいったい何なのだろうか。
そもそも、そのように簡単に描くことができる、ということは簡単に消すこともできるだろう、そのような地上絵が、千数百年以上も残ってきているのは、なぜなのだろうか、このあたりのことが最大の謎だと、私は思うのだが、番組ではこのことに言及はなかった。
古代のナスカの森が綿の栽培のために伐採された、環境破壊が起こったということは、これは非常に興味深い。このことと、この地域に古代からどのような人びとが、どんなふうにくらしてきたのか、これをからめてダイナミックに、人類史、気候変動、洪水、環境の変化、ということを、考えてみる……本来ならば、こういう方向であってもいいのではないか。その中の歴史の一コマとして、ナスカに地上絵が残された、ということになるのだろう。
この地域をふくめて、古代のアンデスの人類史、文明史の変遷の概略をしめすべきだっただろう。でなければ、現在、この地域に住んでいる人たちが、本当に、ナスカの地上絵を描いた人びとの子孫であるのか、分からないはずである。あるいは、これは、疑問をはさんではいけない、PCにかかわる領域のことになるのだろうか。だが、そうだとしても、学問的な知見は示すべきである。文字をもたなかったナスカの古代文化を継承するということは、はたして可能なことなのだろうか。
この回は、非常に興味深い部分がありながら、全体としては、かなり雑な印象をうける。古代のアンデスの人びとはこうだったと、想像に想像を重ねて言ってしまっている感じるところが、非常に多い。学問的裏付けのあることなら、それはきちんと示すことができるはずだし、想像で言っているなら、そうであると断りをいれておくべきである。
2025年2月13日記
フロンティア ナスカの地上絵 知られざる全貌
山形大学の研究の意義はたしかにすばらしいと思うのだが、しかし、それをこういう番組でこういう形にすることには、ちょっとどうかなあ、と思うところがある。ナスカ台地に未発見の地上絵があり、それAIを使った技術で見つけるということ自体は、まさに今日の研究である。
だが、そこから、古代のアンデスの信仰とか文化まですぐに結びつけて考えることになるのは、かなり飛躍があると感じる。
興味深かったことはいくつかある。
実際に現地で、地上に人間がたって地上絵を見たらどう見えるのか、ということ。以外と、これまで、こういう映像を見たことはないと思う。
また、現代の人間が同じように地上絵を描いてみようとしたら、これがとても簡単にできることだったという。これも、非常に面白い。(これは、その後もとにもどしたのだろうと思うが、どうだったのだろうか。)
しかし、学問的にはそういうことになるのだろうが(たぶん、専門家はそういう結論には同意するのだろうが)、なぜそう考えることになるのか、という過程の説明がかなり省略されている。
ナスカの地上絵が描かれた時期の推定は、どういう根拠にもとづくものなのだろうか。地上絵それ自体から、その年代を示すものは、何も見つかってはいないはずである。おそらくは、ナスカに古代国家があって、人びとが居住し、それは、地上絵を残すような規模の人間のまとまった集団であった……ということから、その年代を推定するということなのだろうと思うが、確証があってのこととは思われない。考古学的には、いったいどうなのだろうか。地質学、炭素同位体、などから確定的なことが言えるのだろうか。もし言えるなら、こういうことはきちんと番組のなかにとりこんでほしい。
カワチ神殿があったことは、発掘の結果としてそういうことになる。だが、この神殿の存在と、当時の古代アンデスの人びとと、文化や社会がどうであったか、このあたりのことが、強引に一つのストーリーに作りあげられているという印象になる。特に、地上絵が、聖地の巡礼の道筋を示すものであるならば、そのことを、もっと明確に示す必要がある。直線の地上絵が、そのルートを示していたとしても、だからといって、他の動物などの地上絵も、そのなかに同様にふくめて考えていいものなのだろうか。聖地の巡礼という概念も、かなり西欧的な考え方を、無理にもちこんでいるようにも思える。たしかに、古代の宗教について一般的にいえることかもしれないが、だからといって、すぐにそうだと断定するのは、どうかと思う。
聖地への巡礼で、多くの人びとが歩いた、ということはどうなのだろうか。これによって、消えてしまった地上絵もあるかもしれないし、また、歩いた跡が残っているということなのかもしれない。地面をわずかに掘るだけで地上絵が描ける場所である。このことをふくめた合理的な説明があったとは思えない。
地面を数センチ掘れば、地上絵を描くことができる。特殊な技術が必要ということではないようだ。となれば、地上絵を描いた人たちは、同じ人たちでなくてもいいかもしれない。複数の人間の集団がかかわっていてもいいと思うが、これを否定する根拠はいったい何なのだろうか。
そもそも、そのように簡単に描くことができる、ということは簡単に消すこともできるだろう、そのような地上絵が、千数百年以上も残ってきているのは、なぜなのだろうか、このあたりのことが最大の謎だと、私は思うのだが、番組ではこのことに言及はなかった。
古代のナスカの森が綿の栽培のために伐採された、環境破壊が起こったということは、これは非常に興味深い。このことと、この地域に古代からどのような人びとが、どんなふうにくらしてきたのか、これをからめてダイナミックに、人類史、気候変動、洪水、環境の変化、ということを、考えてみる……本来ならば、こういう方向であってもいいのではないか。その中の歴史の一コマとして、ナスカに地上絵が残された、ということになるのだろう。
この地域をふくめて、古代のアンデスの人類史、文明史の変遷の概略をしめすべきだっただろう。でなければ、現在、この地域に住んでいる人たちが、本当に、ナスカの地上絵を描いた人びとの子孫であるのか、分からないはずである。あるいは、これは、疑問をはさんではいけない、PCにかかわる領域のことになるのだろうか。だが、そうだとしても、学問的な知見は示すべきである。文字をもたなかったナスカの古代文化を継承するということは、はたして可能なことなのだろうか。
この回は、非常に興味深い部分がありながら、全体としては、かなり雑な印象をうける。古代のアンデスの人びとはこうだったと、想像に想像を重ねて言ってしまっている感じるところが、非常に多い。学問的裏付けのあることなら、それはきちんと示すことができるはずだし、想像で言っているなら、そうであると断りをいれておくべきである。
2025年2月13日記
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