ダークサイドミステリー「どこへ?消えた1万人の子どもたち〜隠された「児童移民」の闇〜」 ― 2025-02-22
2025年2月22日 當山日出夫
ダークサイドミステリー どこへ?消えた1万人の子どもたち〜隠された「児童移民」の闇〜
テレビのHDに残っていたので見た。番組のHPによると、最初の放送は、2023年6月1日。この最初の放送のときは、見ていない。
イギリスからオーストラリアへの児童移民の問題なのだが、イギリスでは大きな社会問題になった事件であるのだが、日本でそれが大きく報道されたという記憶はない。ただ、見過ごしていただけだったか。
子どもの福祉の問題であり、植民地政策の問題であり、それを、国家としてどのように考えることになるのか、最終的には国家による謝罪ということになったが、いろんな問題点をふくんでいる。
番組に登場していた、マーガレット・ハンフリーズの『からのゆりかご』は、今でも古本なら手に入るようである。
いろんな論点から考えることになる。
問題が見つかったとき、国家の側が記録が無い、と言ってしまうことの問題。このことについては、最終的にはどうだったのだろうか。番組では言っていなかったが、英国政府、それから、各種の慈善団体で、本当に記録が無かったのか、あるいは、その後見つかったということなのだろうか。もし、記録が無かったということなら、その当時からかなり意図的に、これは良くないこと、という認識があったことになる。記録があったとすれば、それは、やはり開示すべきものということになる。
慈善団体が、おそらくは善意から始めたことなのだろう。英国国内で行き場の無い、孤児たちが、新しい場所で生活を始められるようにする……このこと自体は、決して間違ってはいないかもしれない。ただ、その送り先がオーストラリアであって、奴隷のように働かされる、このことのなりゆきを、見とどけていなかった、このことは責任を問われてもしかたない。
オーストラリア政府としても、子どもの福祉という観点から、英国からやってくる子供たちが、どんな生活をおくり、どんな暮らしをしているのか、面倒を見る責任はある。
イギリスとしても、その時代においてよかれと思って始めたことなのだろうが、その実態がどうであるのか、チェックすることができていなかった。
見終わった感想としては、特に誰が悪い、といって犯人捜しをすることではなく、その時代のなかで、時として誤った政策がとられることもある、それを現代の価値観から断罪するだけではなく、何故、そのような政策が実施されたのか、問題視することはなかったのか、問題点が明らかになってからどう対応したのか……一連の過程を、今度は、現代から未来につなげるための記録としてきちんと残すことにあると考える。
2025年2月18日記
ダークサイドミステリー どこへ?消えた1万人の子どもたち〜隠された「児童移民」の闇〜
テレビのHDに残っていたので見た。番組のHPによると、最初の放送は、2023年6月1日。この最初の放送のときは、見ていない。
イギリスからオーストラリアへの児童移民の問題なのだが、イギリスでは大きな社会問題になった事件であるのだが、日本でそれが大きく報道されたという記憶はない。ただ、見過ごしていただけだったか。
子どもの福祉の問題であり、植民地政策の問題であり、それを、国家としてどのように考えることになるのか、最終的には国家による謝罪ということになったが、いろんな問題点をふくんでいる。
番組に登場していた、マーガレット・ハンフリーズの『からのゆりかご』は、今でも古本なら手に入るようである。
いろんな論点から考えることになる。
問題が見つかったとき、国家の側が記録が無い、と言ってしまうことの問題。このことについては、最終的にはどうだったのだろうか。番組では言っていなかったが、英国政府、それから、各種の慈善団体で、本当に記録が無かったのか、あるいは、その後見つかったということなのだろうか。もし、記録が無かったということなら、その当時からかなり意図的に、これは良くないこと、という認識があったことになる。記録があったとすれば、それは、やはり開示すべきものということになる。
慈善団体が、おそらくは善意から始めたことなのだろう。英国国内で行き場の無い、孤児たちが、新しい場所で生活を始められるようにする……このこと自体は、決して間違ってはいないかもしれない。ただ、その送り先がオーストラリアであって、奴隷のように働かされる、このことのなりゆきを、見とどけていなかった、このことは責任を問われてもしかたない。
オーストラリア政府としても、子どもの福祉という観点から、英国からやってくる子供たちが、どんな生活をおくり、どんな暮らしをしているのか、面倒を見る責任はある。
イギリスとしても、その時代においてよかれと思って始めたことなのだろうが、その実態がどうであるのか、チェックすることができていなかった。
見終わった感想としては、特に誰が悪い、といって犯人捜しをすることではなく、その時代のなかで、時として誤った政策がとられることもある、それを現代の価値観から断罪するだけではなく、何故、そのような政策が実施されたのか、問題視することはなかったのか、問題点が明らかになってからどう対応したのか……一連の過程を、今度は、現代から未来につなげるための記録としてきちんと残すことにあると考える。
2025年2月18日記
BS世界のドキュメンタリー「私を“合成”したのは誰 ディープフェイク・ポルノ犯を追う」 ― 2025-02-22
2025年2月22日 當山日出夫
「私を“合成”したのは誰 ディープフェイク・ポルノ犯を追う」
インターネットが登場したときから、ポルノとは関係があった。日本では、インターネットのことについて、かなり早く言及していた一人が、立花隆であるが、その書いたものを読むと、こんなポルノ画像が見られると、驚きを隠さないでいる。(これも、今日の価値観からするならば、立花隆の感覚を否定的に評価することになるだろうが。)ともあれ、新しいメディアが登場すると、それにともなってポルノも変わってきたということだけは、言っていいだろう。インターネットやSNSの世界から、ポルノを駆逐すべきだという、ある種の理想論はあってもいいが、私の見るところ、あまり現実的とは思えない。
番組は、被害者である女性の視点から作られているのだが、正直にいえば、自分の顔画像が使われたディープフェイク・ポルノを、ネット上で探索していくというのも、ある種の怖ろしさ、執念を、感じる。こういう感情は、かなり文化的な要素があるかと思う。どうせフェイクなんだから気にしない……という考え方もできるかもしれないが、そう思うことはない。ネット上にあることは、すべて真実でなければならない、と考えているのかもしれないが、これも見方によっては偏った考え方でもある。
それから、犯人とされた男性。この番組では、一方的に犯罪者としているのだが、これを距離をおいて見るならば、もしこのような男性の周囲の人びと(男性でも女性でも)が、適切に接していれば、このような事態にはならなかったかもしれない。どうするのが適切だったのか。その大学では、何か問題はなかったのか。
あるいは、その男性が、そのような性的指向(ディープフェイク・ポルノを作って満足する)だったとしたら、そのような自分の性的指向のあり方に、自分で責任を取れるのだろうか。もし、責任を取ることのできないものであったならば、そのことを理由に社会的に責められることはあってはならない。自分で選ぶことのできない性的指向(たとば、同性愛)で、社会的に不利なことがあってはならないのと、論理的には同じである。
必要なことは、そのような性的指向を持った人物がいたとしても、具体的な被害者を生まないためには、社会としてどうあるべきか、という方向からのアプローチであるべきだろう。
技術が生んだ新しい犯罪、ということができるかもしれないが、では何故ひとはそのようなことをするのか、という人間のあり方の深みにとどく議論がこれからは必要かと思う。その前には、まず、被害者が声を上げることは重要ではあるが。
また、ポルノ画像に固有名(固有名詞、特定の誰と特定できる顔の映像)が付随するのは、いったいどうしてなのだろう……これも、おそらく性の文化にかかわる多様な歴史があってのことだと思う。
2025年2月18日記
「私を“合成”したのは誰 ディープフェイク・ポルノ犯を追う」
インターネットが登場したときから、ポルノとは関係があった。日本では、インターネットのことについて、かなり早く言及していた一人が、立花隆であるが、その書いたものを読むと、こんなポルノ画像が見られると、驚きを隠さないでいる。(これも、今日の価値観からするならば、立花隆の感覚を否定的に評価することになるだろうが。)ともあれ、新しいメディアが登場すると、それにともなってポルノも変わってきたということだけは、言っていいだろう。インターネットやSNSの世界から、ポルノを駆逐すべきだという、ある種の理想論はあってもいいが、私の見るところ、あまり現実的とは思えない。
番組は、被害者である女性の視点から作られているのだが、正直にいえば、自分の顔画像が使われたディープフェイク・ポルノを、ネット上で探索していくというのも、ある種の怖ろしさ、執念を、感じる。こういう感情は、かなり文化的な要素があるかと思う。どうせフェイクなんだから気にしない……という考え方もできるかもしれないが、そう思うことはない。ネット上にあることは、すべて真実でなければならない、と考えているのかもしれないが、これも見方によっては偏った考え方でもある。
それから、犯人とされた男性。この番組では、一方的に犯罪者としているのだが、これを距離をおいて見るならば、もしこのような男性の周囲の人びと(男性でも女性でも)が、適切に接していれば、このような事態にはならなかったかもしれない。どうするのが適切だったのか。その大学では、何か問題はなかったのか。
あるいは、その男性が、そのような性的指向(ディープフェイク・ポルノを作って満足する)だったとしたら、そのような自分の性的指向のあり方に、自分で責任を取れるのだろうか。もし、責任を取ることのできないものであったならば、そのことを理由に社会的に責められることはあってはならない。自分で選ぶことのできない性的指向(たとば、同性愛)で、社会的に不利なことがあってはならないのと、論理的には同じである。
必要なことは、そのような性的指向を持った人物がいたとしても、具体的な被害者を生まないためには、社会としてどうあるべきか、という方向からのアプローチであるべきだろう。
技術が生んだ新しい犯罪、ということができるかもしれないが、では何故ひとはそのようなことをするのか、という人間のあり方の深みにとどく議論がこれからは必要かと思う。その前には、まず、被害者が声を上げることは重要ではあるが。
また、ポルノ画像に固有名(固有名詞、特定の誰と特定できる顔の映像)が付随するのは、いったいどうしてなのだろう……これも、おそらく性の文化にかかわる多様な歴史があってのことだと思う。
2025年2月18日記
よみがえる新日本紀行「森と匠の村〜北海道・音威子府村〜」 ― 2025-02-22
2025年2月22日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 森と匠の村〜北海道・音威子府村〜
最初の放送は、昭和57年。
見て驚いたことがあるというのが正直なところである。(失礼な言い方かとも思うのだが)今も音威子府村という自治体が残り、高校も残り、鉄道も残っている。廃村にならないまでも、その後の合併で無くなっていたかと思っていたのだが、そうではなかった。(しかし、市町村合併せずに単独で生きのこることにしたということなのかもしれないが、それはそれでいろいろと苦労があることだろう。だが、このような村だからこそ、「よみがえる新日本紀行」で再び取りあげることになったのだろう。今でも元気な地方の村、ということで。)
昔の放送の部分を見ると、今から40年ほど前の北海道の暮らしというのは、そういうものだったのか、という気がする。砂澤ビッキのことは、名前を憶えている人なのだが、どういう作品を残した人であるかまで、はっきり記憶していたということではない。
木工に特化した高校であり、全国から興味のある学生を集めている。これは、北海道のこの地方ならではの取り組みであり、現在では成功していると言っていいだろう。このような自然環境のなかで木工を学べるというのは、なかなか出来ることではない。出来れば、周囲の山林の維持管理や植林ということについても、現在ではどうなっているのか、気になるところである。この地域の森が手つかずで残ってきたというのは、北海道大学の演習林であったから、というのは、確かにそのとおりなおだろう。(これが、民間の所有だったら、乱開発されるか、さもなくば、捨て置かれるかということになったかもしれない。)
2025年2月19日記
よみがえる新日本紀行 森と匠の村〜北海道・音威子府村〜
最初の放送は、昭和57年。
見て驚いたことがあるというのが正直なところである。(失礼な言い方かとも思うのだが)今も音威子府村という自治体が残り、高校も残り、鉄道も残っている。廃村にならないまでも、その後の合併で無くなっていたかと思っていたのだが、そうではなかった。(しかし、市町村合併せずに単独で生きのこることにしたということなのかもしれないが、それはそれでいろいろと苦労があることだろう。だが、このような村だからこそ、「よみがえる新日本紀行」で再び取りあげることになったのだろう。今でも元気な地方の村、ということで。)
昔の放送の部分を見ると、今から40年ほど前の北海道の暮らしというのは、そういうものだったのか、という気がする。砂澤ビッキのことは、名前を憶えている人なのだが、どういう作品を残した人であるかまで、はっきり記憶していたということではない。
木工に特化した高校であり、全国から興味のある学生を集めている。これは、北海道のこの地方ならではの取り組みであり、現在では成功していると言っていいだろう。このような自然環境のなかで木工を学べるというのは、なかなか出来ることではない。出来れば、周囲の山林の維持管理や植林ということについても、現在ではどうなっているのか、気になるところである。この地域の森が手つかずで残ってきたというのは、北海道大学の演習林であったから、というのは、確かにそのとおりなおだろう。(これが、民間の所有だったら、乱開発されるか、さもなくば、捨て置かれるかということになったかもしれない。)
2025年2月19日記
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