『カーネーション』「奇跡」 ― 2025-03-16
2025年3月16日 當山日出夫
『カーネーション』「奇跡」
この週は、最晩年の糸子のことと、病院でのファッションショーのこと。
病院でのファッションショーというのは、奇抜なアイデアのようだが、実際にあったことらしい。先日、放送の、「偉人の年収」で小篠綾子をとりあげたとき、病院でファッションショーをやったとあった。これも、実際にあった出来事だからこそ、ドラマのなかで描けるということになるのかもしれない。
このドラマのいいところは、人間が年を取ることについて、肯定的に描いていることである。朝ドラのなかに高齢の登場人物が出てくることは多い。多くの場合、主人公の祖父母だったりする。たいていは、年をとっても元気である、ということが多い。特に、今、放送の『おむすび』は典型的に元気な老人である。
『カーネーション』では、糸子も八〇をゆうにこえて、元気といえば元気であるが、それでも、この年になると、杖をついて歩いている。なんとか、病院までは一人で行き来できるらしい。(これも、今の標準的な姿からすれば、かなり元気な方にはいるだろう。)そして、年はとっても、頭の方はしっかりしている。
印象に残るのは、病院での、総婦長さんとの会話。
最初にファッションショーの企画で、入院中の患者さんも出演してほしいと言った糸子に対して、総婦長さんは、ここは病院で病人が治療に専念すべき場所です、と言ってことわっていた。
次のときになると、糸子とだけの会話として、病院の医療といっても、しれていると述懐していた。現代の医療技術であっても、どうにもならないことがある。これを、日々の仕事のなかで体験しているからこそ言える台詞である。
それに対して、糸子も、服が人間に品格と自信と誇りを与えるといっても、それも、しれている、と語った。これは、昔、若い糸子が、洋服の作り方をミシンの先生にならったときに教わったことばである。これまで、このドラマは、このことばを軸に展開してきたといってもいい。しかし、それを、最後になって、糸子は否定しないまでも、その限界を感じていることになる。これは、やはり、これまで糸子の仕事をとおして、それぞれの時代ごとに、服が人間にどう影響するかということを、実践してきた、実際に服をデザインして作ってきたという、経験の積み重ねの描写があってこその、台詞である。
最後、実際のファッションショーのとき、末期がんの女性が登場することになるのだが、その姿を見て、糸子はマイクの前でしゃべることができなくなってしまう。そこで、状況を見てとった総婦長さんが、とっさに糸子に変わって原稿を読むことになる。最初は、ファッションショーに反対していた総婦長さんであったが、このショーの意義を理解して、そして、病院の看護のプロとしての判断であることになる。
このドラマのいいところは、プロの仕事を描いていることである。それは、一つ一つの場面の積み重ねがあってこそである。特に糸子については、実際にミシンで服を縫っているシーンが、何度となく出てきている。毎回、同じような場面であったかもしれないが、その積み重ねがあって、このドラマの重厚な人間観を生み出すことにつながっている。
2025年3月15日記
『カーネーション』「奇跡」
この週は、最晩年の糸子のことと、病院でのファッションショーのこと。
病院でのファッションショーというのは、奇抜なアイデアのようだが、実際にあったことらしい。先日、放送の、「偉人の年収」で小篠綾子をとりあげたとき、病院でファッションショーをやったとあった。これも、実際にあった出来事だからこそ、ドラマのなかで描けるということになるのかもしれない。
このドラマのいいところは、人間が年を取ることについて、肯定的に描いていることである。朝ドラのなかに高齢の登場人物が出てくることは多い。多くの場合、主人公の祖父母だったりする。たいていは、年をとっても元気である、ということが多い。特に、今、放送の『おむすび』は典型的に元気な老人である。
『カーネーション』では、糸子も八〇をゆうにこえて、元気といえば元気であるが、それでも、この年になると、杖をついて歩いている。なんとか、病院までは一人で行き来できるらしい。(これも、今の標準的な姿からすれば、かなり元気な方にはいるだろう。)そして、年はとっても、頭の方はしっかりしている。
印象に残るのは、病院での、総婦長さんとの会話。
最初にファッションショーの企画で、入院中の患者さんも出演してほしいと言った糸子に対して、総婦長さんは、ここは病院で病人が治療に専念すべき場所です、と言ってことわっていた。
次のときになると、糸子とだけの会話として、病院の医療といっても、しれていると述懐していた。現代の医療技術であっても、どうにもならないことがある。これを、日々の仕事のなかで体験しているからこそ言える台詞である。
それに対して、糸子も、服が人間に品格と自信と誇りを与えるといっても、それも、しれている、と語った。これは、昔、若い糸子が、洋服の作り方をミシンの先生にならったときに教わったことばである。これまで、このドラマは、このことばを軸に展開してきたといってもいい。しかし、それを、最後になって、糸子は否定しないまでも、その限界を感じていることになる。これは、やはり、これまで糸子の仕事をとおして、それぞれの時代ごとに、服が人間にどう影響するかということを、実践してきた、実際に服をデザインして作ってきたという、経験の積み重ねの描写があってこその、台詞である。
最後、実際のファッションショーのとき、末期がんの女性が登場することになるのだが、その姿を見て、糸子はマイクの前でしゃべることができなくなってしまう。そこで、状況を見てとった総婦長さんが、とっさに糸子に変わって原稿を読むことになる。最初は、ファッションショーに反対していた総婦長さんであったが、このショーの意義を理解して、そして、病院の看護のプロとしての判断であることになる。
このドラマのいいところは、プロの仕事を描いていることである。それは、一つ一つの場面の積み重ねがあってこそである。特に糸子については、実際にミシンで服を縫っているシーンが、何度となく出てきている。毎回、同じような場面であったかもしれないが、その積み重ねがあって、このドラマの重厚な人間観を生み出すことにつながっている。
2025年3月15日記
コメント
_ 松山裕 ― 2025-03-16 10時13分59秒
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「それでも」なお「生きる」って事ですよね、大切なことは。