フランケンシュタインの誘惑「ナチス 人間焼却炉」2025-03-18

2025年3月18日 當山日出夫

フランケンシュタインの誘惑 「ナチス 人間焼却炉」

再放送である。最初は、2021年。

まず興味深かったのは、ドイツが階級社会であった、ということからスタートしていたことである。おそらく、今でも、ヨーロッパの社会は基本的にそうだと認識しているが、労働者階級、資産家階級、など、かなり厳然とした違いがある、と思っている。それも、近年ではゆるんできているのかもしれないが。

労働者階級に生まれた、クルト・プリューファーにとって、会社に就職して地位を得て、給料が上がること、これが人生の目的だった。それが、たまたま、時代の流れのなかで、ナチスに協力するということになっただけのことであった、このように見ることもできる。プリューファーは、ナチスに協力したが、しかし、反ユダヤ思想の持ち主ではなかったらしい。

番組の最後で言っていたことであるが、普通の市民が普通の仕事をする、これが、ときとして災厄をまねくこともある。おそらく、歴史的に考えて、ナチスについての評価としては、これが最も妥当で重要なことであると、私は思う。ヒトラーを礼讃したのも、ユダヤ人迫害にたずさわったのも、また、戦場において連合軍と戦ったのも、普通の市民であった。(ヨーロッパ戦線では、多くの悲劇があったわけだが、そこで戦った兵士たちは、敵味方双方ともに、もし歴史がそうなっていなければ、普通の市民として生活をおくるような人たちだったろうと思う。)

強制収容所でのユダヤ人の虐殺に、効率化、合理性が、求められたのは、まあ、たしかにそういう面があったことは認めなければならないだろう。その意図や、意味を考えることなく、目の前の仕事をこなしていくことも、また、人間が生きていくということなのであるから。

プリューファーのやった仕事は、人間の遺体の処理(火葬、あるいは、焼却)ということについては、たしかに、非常に合理的に考えたということは、理解できる。

ところで、日本の場合、人が死んで火葬にするのが一般的ではあるが、その施設が具体的にどうなっているのか、技術的なことは、まったく一般には知られていないといっていいだろう。ニュースになるのは、火葬場が足りないとか、建設しようとしたが住民の反対があったとか、政治家がからんでいるとか、というような話しばかりである。火葬にする技術ということについて、もうすこし広く知られていてもいいように思う。日本のように、適度に遺骨を残すというのは、かなり高度な技術であるはずである。

ドイツで火葬について、炎が直接遺体にふれないように、という規定があることは、歴史的な文化の違いを感じる。魔女の火刑を連想するからということである。だが、日本では、炎によって浄化するという発想もあるのだろうが、炎があたることを否定する考えは無いだろうと思う。これから、日本で死亡して火葬になる外国人も増えてくるはずだし、その遺体をどうするかは、本格的に議論が必要である。一部で、土葬の是非が言われてはいるのだが。

2025年3月11日記

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