放送100年特集「食べることは生きること 「きょうの料理」誕生秘話」2025-03-26

2025年3月26日 當山日出夫

放送100年特集 食べることは生きること 「きょうの料理」誕生秘話

放送100年ということで、いろんな特集番組がある。多くは録画しておいて後でゆっくりと見るつもりでいる。それらは、まだほとんど見てはいないけれど、おそらくこの番組は、その中でもダントツで面白いものの一つであるにちがいない。

1925年のラジオ放送の開始以来、料理番組をNHKがどう放送してきたかをたどったものであるが、そこから、いろんなことが見えてくる。

まず、後藤新平(まあ、NHKのボスであったのだが)が、放送は文化の機会均等であると言い、ラジオの役割として、女性の社会教育をもとめたこと、その流れのなかで、料理番組もはじまったこと、このことが重要だろう。まだまだ、女性の社会的地位が低く、学校教育も不十分であった時代、ラジオに求められたものを、端的に言い表している。

ポイントとしては、次の二点がある。

第一に、日本人は何を食べてきたのかという、生活史、食文化史の観点からの興味。普通の人びとが、日常生活のなかで、どんな暮らし方をしてきたのか……こういうことが、実は、もっとも分かりにくい。あまりに日常的なことは、史料として残ることが少ないからである。

この意味では、ラジオの番組の記録などから、どのような料理が、伝えられたのかということは意味がある。これは、放送した料理を実際に食べていた、というのではなく、むしろ逆に、このような料理を放送であつかったということの背景として、その時代の普通の人びとの食べていたものがどんなものであり、そこにはどのような問題点があったのか、ということが浮かびあがってくるからである。

これは、ラジオの記録だけではなく、その他の文献資料などと総合して考えるべきことになる。

昔の日本人は、お米のご飯をたくさん食べていた。それが、おかずを多く食べるようになってきた、という歴史があることになる。

第二に、料理の方法を、ラジオの音声だけで、どうやって伝えるか、という問題。これは、私の専門領域として勉強してきた国語学、日本語学という分野のことにもなるが、いろいろと興味深い事例になる。料理のレシピというものほど、説明文として確立したものはないと思っている。それを読んで、聞いて、実際に料理が作れるか、おいしいか、即座に判定ができる。日本語の文章のなかでもっともきたえられた説明文である。

基本的には、以上の二点の関心で見ていたのだが、その他、いろいろと面白いことがたくさんあった。

液体の量の単位に、デシリットルというのは、今ではもう使わない。せいぜい学校の教科書のなかに出てくるだけ、と言われている。しかし、戦前は、デシリットルをラジオの放送で、実際に使っていた。一合、二デシリットル、などと台本には書いてあった。(これが、日常生活のなかでの単位として姿を消すのは、どういういきさつによって、いつごろからのことなのだろうか。合の方は、いまでも生きのこっている。)

放送の台本や記録も、ガリ版であったり、和文タイプであったり、であった。時代を考えると、そういう時代であったことは理解できるのだが、おそらくは、日本語の世界にワープロが普及する、昭和の終わりごろまで、そういう時代が続いてきたことになる。

糧友会、というのは始めて知った。陸軍省と農林省で作った組織ということであるが、戦前の時代背景を考えると、こういう組織ができることは理解できる。そのながれをくむ学校(東京栄養食糧専門学校)が今でもあることになる。

ウサギの肉は、今では一般には食べないが、満州事変を契機として、毛皮をとった残りの肉を食べるようになったということは、面白い。(さらに、これを食べなくなった経緯が分かると、面白いだろう。)

高粱の料理が紹介されるのは、満州開拓(と日本からは見ることになるが)の影響であった。

戦争中、料理番組は途絶えた。そして、戦後になって復活するが、その始めに放送したのが、ご飯の炊き方であった、というのは象徴的である。おそらく、戦時中、日本人の多くは、普通にご飯を炊く生活をおくることができなったことになる。

戦後になって、クジラの肉の料理が紹介されるようになったことは、時代を感じさせる。本格的に、日本人がクジラ肉を食べるようになったのは、戦後になってから、南氷洋での捕鯨がさかんになって、ということになるのだろう。(ちょうど、私ぐらいの世代だと、この時代に子どものころをすごしたことになる。)

戦時中、野草を食べていたという女性の話が面白い。人間は、本能的に食べられるものには気がつく……このごろでは本能ということばは、あまり使わなくなったが、しかし、いわんとすることは、なるほどそういうものなのだろうと共感するところがある。

その他、気のついたこととしては、昭和の初めの恐慌、飢饉のとき、農村で娘の身売りの相談所の看板、この映像を久しぶりに見た。私のこどものころ、学校の教科書にも載っていた写真である。(そのことの是非の議論はあるだろうが、こういう時代があったことは、記録として知られるべきことだと思っている。)

それから、番組で言っていなかったことが、いくつかある。

まず、ラジオやテレビの普及率の問題がある。昭和のはじめごろなら、女性のリテラシはかなり高かっただろうから、料理の普及、啓蒙ということでは、新聞や雑誌の方が、有効だっただろう。戦後、テレビが各家庭にまで普及するのは、昭和40年代以降のことになる。(ただ、宮尾登美子の『櫂』を読むと、戦前の高知に暮らした女性である主人公、喜和、は平仮名しか読めないということになっている。その娘の綾子になって、高等女学校の教育を受けることができている。ラジオも、そう普及しているということではないようである。)

日本人の食生活や料理を根本的に変えることになった大きな出来事は、電気炊飯器の発売である。東芝が商品化したのだが、開発は町工場だった。これは、昔の「プロジェクトX」で放送して、私は、非常にいい内容だったと憶えている。

また、家庭にガス(都市ガスもあるが、プロパンガス)の普及ということも重要である。それまでは、燃料としては、薪か炭の時代が、中世以来ずっと続いてきたのである。

いろいろと思うことがあるが、総合して、NHKの料理番組の流れをたどることによって、この100年の間の、女性の生活、また、日本人の食生活をたどることにつながる……このことはたしかだろう。無論、批判的に見れば、このような番組をとおして、料理は女性の仕事という観念を再生産し続けてきたという面は、指摘できるだろうが、それを、ことさらいいたてることもないだろう。(このごろでは、男性が料理をするように制作されていることもあるが。)記録されていた映像からは、ラジオの料理番組や、テレビの「きょうの料理」などの制作には、女性のスタッフも多くかかわっていたことが見てとれる。むしろ、こういうことを実績として、放送のなかで女性の仕事がどう変遷してきたかを、考えることの方が、建設的な議論になると思う。

余計なこととして……番組がはじまって、「カムカム」の安子がラジオを聞いている、と思った人は多いだろう。その後、るいなら白黒テレビ、ひなたならカラーテレビで「きょうの料理」を見たにちがいない。

2025年3月23日記

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