『八重の桜』「妖霊星」 ― 2025-04-28
2025年4月28日 當山日出夫
『八重の桜』「妖霊星」
このドラマを見ていると、幕末において人材は各藩にもいた、しかし、その人材の能力を発揮する場があり、その方向を定めることになったのは、江戸時代の幕藩体制の枠組みであった。その結果として、山本覚馬などは、維新の功臣として名を残すことはなかった。たまたま会津藩に生まれて、その藩が、譜代であり徳川家に忠誠をつくさねばならないという事情、これは、その時代にあって、欧米列強の侵略のなかで生き残りをかけてどうあるべきかという、思考や行動を、大きく制約するものであった。まあ、こんなふうに考えることができるだろうか。
歴史ドラマとしては、こういう描き方もあっていいと思う。どういう状況で、それぞれの人間が、自分の才能と役割を認識していくことになるのか、これは、会津戦争において一つの頂点をきわめることになる。(以前に見たときの印象としては、そう思っている。)
歴史は勝った者の歴史である……というのは、そういうものだろうと思うからこそ、たまたま負ける側に位置することになった人びとに対して、よりつよく共感するところがある。歴史のドラマとは、こういうものかもしれない。
2025年4月27日記
『八重の桜』「妖霊星」
このドラマを見ていると、幕末において人材は各藩にもいた、しかし、その人材の能力を発揮する場があり、その方向を定めることになったのは、江戸時代の幕藩体制の枠組みであった。その結果として、山本覚馬などは、維新の功臣として名を残すことはなかった。たまたま会津藩に生まれて、その藩が、譜代であり徳川家に忠誠をつくさねばならないという事情、これは、その時代にあって、欧米列強の侵略のなかで生き残りをかけてどうあるべきかという、思考や行動を、大きく制約するものであった。まあ、こんなふうに考えることができるだろうか。
歴史ドラマとしては、こういう描き方もあっていいと思う。どういう状況で、それぞれの人間が、自分の才能と役割を認識していくことになるのか、これは、会津戦争において一つの頂点をきわめることになる。(以前に見たときの印象としては、そう思っている。)
歴史は勝った者の歴史である……というのは、そういうものだろうと思うからこそ、たまたま負ける側に位置することになった人びとに対して、よりつよく共感するところがある。歴史のドラマとは、こういうものかもしれない。
2025年4月27日記
サイエンスZERO「2万kmの旅!“サケの大回遊”に迫る」 ― 2025-04-28
2025年4月28日 當山日出夫
サイエンスZERO 2万kmの旅!“サケの大回遊”に迫る
窒素の同位体の比率から、何を食べてきたかが分かる。その食べ物の分布から、どこを回遊してきたかが分かる。たしかに、そのとおりだろうと思う。こういう研究を、JAMSTECでやっていることは知らなかったが(知らないこばかりではあるのだが)、これは面白い。
こういう研究は、分析の技術の進歩によって、どんどんと領域や対象が広がっていくのだろう。
サケの腸内フローラについては、面白いというよりも、おそらく、こういうことは他の生物についてもあることだろうと思う。地球上の生物の生存戦略であり、進化の過程であり、他の生物との共生である、このような視点から、総合的に考えることになると思う。これも、地球温暖化の影響で、サケの腸内フローラも影響が及ぶことになる。
サケの求愛行動の観察。何事も観察してデータをとってみるものである。その解釈は、いろいろとあるのだろうと思うが。より多く、自分の遺伝子を残すことが目的、ということでいいのだろうが、生物が性というものを持っていることの意味にまでおよぶ研究の一つということになるかと思う。
2025年4月21日記
サイエンスZERO 2万kmの旅!“サケの大回遊”に迫る
窒素の同位体の比率から、何を食べてきたかが分かる。その食べ物の分布から、どこを回遊してきたかが分かる。たしかに、そのとおりだろうと思う。こういう研究を、JAMSTECでやっていることは知らなかったが(知らないこばかりではあるのだが)、これは面白い。
こういう研究は、分析の技術の進歩によって、どんどんと領域や対象が広がっていくのだろう。
サケの腸内フローラについては、面白いというよりも、おそらく、こういうことは他の生物についてもあることだろうと思う。地球上の生物の生存戦略であり、進化の過程であり、他の生物との共生である、このような視点から、総合的に考えることになると思う。これも、地球温暖化の影響で、サケの腸内フローラも影響が及ぶことになる。
サケの求愛行動の観察。何事も観察してデータをとってみるものである。その解釈は、いろいろとあるのだろうと思うが。より多く、自分の遺伝子を残すことが目的、ということでいいのだろうが、生物が性というものを持っていることの意味にまでおよぶ研究の一つということになるかと思う。
2025年4月21日記
こころの時代「シリーズ 闘うガンディー 〜非暴力思想を支えた「聖典」〜」(1) ― 2025-04-28
2025年4月28日 當山日出夫
こころの時代
シリーズ 闘うガンディー 〜非暴力思想を支えた「聖典」〜1 母なる「神の歌(バガヴァッド・ギーター)」
ガンディーについては、多くの本が出ているし、またテレビの番組で見ることも多い。映画の『ガンディー』(リチャード・アッテンボロー監督)は、東京に住んでいたときに見た。
その非暴力、不服従の思想については、理想的に語られることが多い。だが、実際の歴史としては、インドの独立は、非暴力の抵抗だけで達成できたということではなかったと思っているし、また、パキスタンと分離して独立することにもなった。だからといって、ガンディーの思想が意味がなかったなどと思うことはない。その問いかけるものは、普遍性をもって訴えるものがあることは確かである。晩年の糸車を回すガンディーの姿が、ある意味では、人間のあり方の一つの理想を示すものであると思っている。(だが、これも、現代から見れば一種の反近代主義というふうに理解することもできるだろうが。)
ガンディーが、バカヴァッド・ギーター」を、イギリスに留学しているとき、英語版ではじめて読んだ。これは、外国に留学して、そこで自分の母国の文化や古典を再認識する、ということはよく言われることである。(こういう視点から見た場合、古典といっても、いくぶんバイアスのかかったものであるとは思うところがある。しかし、一方で、古典とはそのようなものであるとも思うところでもある。)
「バカヴァッド・ギーター」について、ガンディーは、かなり強引な解釈と理解をしている……番組のなかで、こうはっきりと言っていたわけではないが、普通に読んで理解することからは、かなり離れた読み方をしていた。それは、そのような読み方をすることを求める、自分自身のなかの欲求とでもいうべきものがあったと、考えることができるだろう。(こういうのは、古典の読み方としては、非常に特殊なケースだろうと思う。だが、えてして古典というものは、多様な読み方を可能にするものでもある。)
ガンディーの非暴力思想を考えるとき、その基底にあったであろうインドの古来よりの人びとの心性ということもあるだろうし、また、ガンディーが独自に経験に裏付けられて思索を深めていったという面もあるのだろうと思う。
興味深く思ったのは、寛容とは、多くの宗教を認めることであり、一つ一つの宗教は完全な真理をしめしてはいないかもしれないが、いろんな宗教を総合することによって、真の真理を得ることができる。こういう宗教観というのは、なかなか実践することがむずかしい。現代では、宗教を信じるということ自体を、前近代的な迷妄と排斥することもあるし、無論、その優劣をめぐる争いについては、世界中で起こっていることである。
「バカヴァッド・ギーター」が「マハーバーラタ」の一部であるというのはいいとして、「マハーバーラタ」の文献学的な解説がまったくなかった。これについて話し出すときりがない、ということなのかもしれないが、やはり少しぐらいは説明があった方が親切かなと思う。また、「バカヴァッド・ギーター」がインドの人びとに読まれてきたとして、そのテクストの伝来や、ひとびとはいったい何語のテクストで読んでいたのか、あるいは、語りつたえていたのか、気になるところではある。
2025年4月22日記
こころの時代
シリーズ 闘うガンディー 〜非暴力思想を支えた「聖典」〜1 母なる「神の歌(バガヴァッド・ギーター)」
ガンディーについては、多くの本が出ているし、またテレビの番組で見ることも多い。映画の『ガンディー』(リチャード・アッテンボロー監督)は、東京に住んでいたときに見た。
その非暴力、不服従の思想については、理想的に語られることが多い。だが、実際の歴史としては、インドの独立は、非暴力の抵抗だけで達成できたということではなかったと思っているし、また、パキスタンと分離して独立することにもなった。だからといって、ガンディーの思想が意味がなかったなどと思うことはない。その問いかけるものは、普遍性をもって訴えるものがあることは確かである。晩年の糸車を回すガンディーの姿が、ある意味では、人間のあり方の一つの理想を示すものであると思っている。(だが、これも、現代から見れば一種の反近代主義というふうに理解することもできるだろうが。)
ガンディーが、バカヴァッド・ギーター」を、イギリスに留学しているとき、英語版ではじめて読んだ。これは、外国に留学して、そこで自分の母国の文化や古典を再認識する、ということはよく言われることである。(こういう視点から見た場合、古典といっても、いくぶんバイアスのかかったものであるとは思うところがある。しかし、一方で、古典とはそのようなものであるとも思うところでもある。)
「バカヴァッド・ギーター」について、ガンディーは、かなり強引な解釈と理解をしている……番組のなかで、こうはっきりと言っていたわけではないが、普通に読んで理解することからは、かなり離れた読み方をしていた。それは、そのような読み方をすることを求める、自分自身のなかの欲求とでもいうべきものがあったと、考えることができるだろう。(こういうのは、古典の読み方としては、非常に特殊なケースだろうと思う。だが、えてして古典というものは、多様な読み方を可能にするものでもある。)
ガンディーの非暴力思想を考えるとき、その基底にあったであろうインドの古来よりの人びとの心性ということもあるだろうし、また、ガンディーが独自に経験に裏付けられて思索を深めていったという面もあるのだろうと思う。
興味深く思ったのは、寛容とは、多くの宗教を認めることであり、一つ一つの宗教は完全な真理をしめしてはいないかもしれないが、いろんな宗教を総合することによって、真の真理を得ることができる。こういう宗教観というのは、なかなか実践することがむずかしい。現代では、宗教を信じるということ自体を、前近代的な迷妄と排斥することもあるし、無論、その優劣をめぐる争いについては、世界中で起こっていることである。
「バカヴァッド・ギーター」が「マハーバーラタ」の一部であるというのはいいとして、「マハーバーラタ」の文献学的な解説がまったくなかった。これについて話し出すときりがない、ということなのかもしれないが、やはり少しぐらいは説明があった方が親切かなと思う。また、「バカヴァッド・ギーター」がインドの人びとに読まれてきたとして、そのテクストの伝来や、ひとびとはいったい何語のテクストで読んでいたのか、あるいは、語りつたえていたのか、気になるところではある。
2025年4月22日記
ドキュランドへようこそ「DNAでパパを見つけたい セックスツーリズムの闇に光を」 ― 2025-04-28
2025年4月28日 當山日出夫
ドキュランドへようこそ 「DNAでパパを見つけたい セックスツーリズムの闇に光を」
DNAの発見ということが、人間観、家族観を変えていく。そして、フィリピンの人たちについては、これは古風な昔ながらの家族観がその根底にあると感じる。
家族とは、男性と女性、つまり、父親と母親がいて、この男女の間に出来た子どもで、家族を構成する。その家族は、お互いに助け合うものである。これは、かなり古めかしい家族についての考え方だろうと思う。(現在の、いわゆるリベラルな価値観からは、否定される家族観である。)
フィリピンでは、離婚も出来ない。カトリックの国である。(このことは、NHK では「Asia Insight」であつかっていた。これは、春からなくなった番組だが、おしい。)
離婚もできないし、人口妊娠中絶もできない。このあたりのことは、日本のことから考えると、問題があると感じるところではあるが、基本としてカトリックの信仰に基づいていることなので、あまりよそからとやかくいうことではないかもしれない。だが、今の時代としては、少しは融通をきかせてもいいようにも思う。
番組としては、フィリピンのセックス産業と、そこで産まれた子どもたち、そして、その父親を探すプロジェクト、ということであることは理解できるが、私の興味としては、ちょっと他のところにある。
自分のDNAについての情報をWEBで検索できるようにしているという人は、いったいどういう人なのだろうか。DNAについての情報は、究極の個人情報である。それを、容易に他の人が見ることができるというのは、どういうシステムなのかと思う。
家族とか親子関係とか、DNAだけを根本的なよりどころとすることは、まあ、現代はそういう時代になったということにはちがいないが、しかし、それで人間の生き方として、幸福になったといえるだろうか。このあたりは、どこか釈然としないものを感じる。
どのような経緯であれ、子どもは天からの授かりものであり、もし、子どもができても、できなくても、それはそれなりに人間として普通のことである……昔は、このような考え方で人びとは生きてきたはずである。家族の構成などについて、地域的な文化的な違いは、かなりあるにちがいないが。
『カラマーゾフの兄弟』などのことを思い出してみると、遺伝的な親子関係とは、いったい何なのかということも考える。DNAなど知らない時代の方が、人間が人間らしく、そして、自分らしく生きられたかもしれない。だが、もう、昔に戻ることはできない。スメルジャコフは、父親が誰であっても、自己は自己として生きている。これは、極端な事例かもしれないが。
ともあれ、フィリピンには、番組に出てきたようなスラムに生活する人びとが、かなり多くいることは確かであり、根本的には、こういう人たちの生活をどうするかという、国家レベルでの経済と福祉の問題にはちがいない。
2025年4月24日記
ドキュランドへようこそ 「DNAでパパを見つけたい セックスツーリズムの闇に光を」
DNAの発見ということが、人間観、家族観を変えていく。そして、フィリピンの人たちについては、これは古風な昔ながらの家族観がその根底にあると感じる。
家族とは、男性と女性、つまり、父親と母親がいて、この男女の間に出来た子どもで、家族を構成する。その家族は、お互いに助け合うものである。これは、かなり古めかしい家族についての考え方だろうと思う。(現在の、いわゆるリベラルな価値観からは、否定される家族観である。)
フィリピンでは、離婚も出来ない。カトリックの国である。(このことは、NHK では「Asia Insight」であつかっていた。これは、春からなくなった番組だが、おしい。)
離婚もできないし、人口妊娠中絶もできない。このあたりのことは、日本のことから考えると、問題があると感じるところではあるが、基本としてカトリックの信仰に基づいていることなので、あまりよそからとやかくいうことではないかもしれない。だが、今の時代としては、少しは融通をきかせてもいいようにも思う。
番組としては、フィリピンのセックス産業と、そこで産まれた子どもたち、そして、その父親を探すプロジェクト、ということであることは理解できるが、私の興味としては、ちょっと他のところにある。
自分のDNAについての情報をWEBで検索できるようにしているという人は、いったいどういう人なのだろうか。DNAについての情報は、究極の個人情報である。それを、容易に他の人が見ることができるというのは、どういうシステムなのかと思う。
家族とか親子関係とか、DNAだけを根本的なよりどころとすることは、まあ、現代はそういう時代になったということにはちがいないが、しかし、それで人間の生き方として、幸福になったといえるだろうか。このあたりは、どこか釈然としないものを感じる。
どのような経緯であれ、子どもは天からの授かりものであり、もし、子どもができても、できなくても、それはそれなりに人間として普通のことである……昔は、このような考え方で人びとは生きてきたはずである。家族の構成などについて、地域的な文化的な違いは、かなりあるにちがいないが。
『カラマーゾフの兄弟』などのことを思い出してみると、遺伝的な親子関係とは、いったい何なのかということも考える。DNAなど知らない時代の方が、人間が人間らしく、そして、自分らしく生きられたかもしれない。だが、もう、昔に戻ることはできない。スメルジャコフは、父親が誰であっても、自己は自己として生きている。これは、極端な事例かもしれないが。
ともあれ、フィリピンには、番組に出てきたようなスラムに生活する人びとが、かなり多くいることは確かであり、根本的には、こういう人たちの生活をどうするかという、国家レベルでの経済と福祉の問題にはちがいない。
2025年4月24日記
最近のコメント