100分de名著「村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (4)「閉じない小説」の謎」 ― 2025-05-01
2025年5月1日 當山日出夫
100分de名著 村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (4)「閉じない小説」の謎
綿谷ノボルは、岡田トオルの鏡像ではないか、と沼野充義が言っていたが、私は、これに同感である。というよりも、綿谷ノボルは悪として出てくるのだが、それは、たおすべき絶対悪というよりも、主人公の岡田トオルの日常的な意識の延長線上に存在する、あるいは、意識の底の方にある邪悪な何かが姿を現したもの、という印象である。私としては、そのように読んだことになる。
村上春樹の作品は、『ねじまき鳥クロニクル』もそうだが、異界との行き来がある。その異界は、今の現実の世界から隔絶されたところにあるのではなく、日常のつながりの延長上に存在している。他の作品のことを思ってみても、近所にある井戸であったり、穴であったり、エレベータであったり、である。
絶対悪と絶対善の対決というような構図よりも、日常的な感覚のなかに、悪もあり善もあり、それがつながっている、と理解した方がいいように私は感じている。この意味では、村上春樹の作品は、その作品のなかで閉じるということはなくて、終わってもその続きが、どこかにつながっていることになる。
私の理解するところでは、村上春樹の作品は、明晰な文章とストーリーである。だが、それが何を表象しているのかと、具体的にイメージすると、きわめて難解になる。あるいは、多様な解釈ができる。ここのところが、村上春樹の作品の魅力であり、また、理解のむずかしいところになるのだろう。
2025年4月30日記
100分de名著 村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (4)「閉じない小説」の謎
綿谷ノボルは、岡田トオルの鏡像ではないか、と沼野充義が言っていたが、私は、これに同感である。というよりも、綿谷ノボルは悪として出てくるのだが、それは、たおすべき絶対悪というよりも、主人公の岡田トオルの日常的な意識の延長線上に存在する、あるいは、意識の底の方にある邪悪な何かが姿を現したもの、という印象である。私としては、そのように読んだことになる。
村上春樹の作品は、『ねじまき鳥クロニクル』もそうだが、異界との行き来がある。その異界は、今の現実の世界から隔絶されたところにあるのではなく、日常のつながりの延長上に存在している。他の作品のことを思ってみても、近所にある井戸であったり、穴であったり、エレベータであったり、である。
絶対悪と絶対善の対決というような構図よりも、日常的な感覚のなかに、悪もあり善もあり、それがつながっている、と理解した方がいいように私は感じている。この意味では、村上春樹の作品は、その作品のなかで閉じるということはなくて、終わってもその続きが、どこかにつながっていることになる。
私の理解するところでは、村上春樹の作品は、明晰な文章とストーリーである。だが、それが何を表象しているのかと、具体的にイメージすると、きわめて難解になる。あるいは、多様な解釈ができる。ここのところが、村上春樹の作品の魅力であり、また、理解のむずかしいところになるのだろう。
2025年4月30日記
こころの時代「命の声を届ける 作家・市川沙央」 ― 2025-05-01
2025年5月1日 當山日出夫
こころの時代 命の声を届ける 作家・市川沙央
録画しておいたのをようやく見た。
『ハンチバック』は、芥川賞を取ったときに買って読んだ。
見ながら思ったことを書いておく。
人は、なにがしかのステレオタイプ、あるいは、先入観といってもいいかもしれないが、それが無いと世界を認識することができない。これは、特に、構造主義言語学ということでもないが、一般に人間がこの世界をどう理解するかということについて、なんらかの枠組みが必要ということになる。この意味では、障害者という一つのイメージが、社会的に存在すること自体は、それ自体としては特に悪いことではないはずである。
問題となるのは、それがどのようなものであるかということと、そういうイメージが可変的なものであり、常に動いているものでもあるべきだということ、そういうものとして自覚しておくべきだろう、ということだろうと思っている。(だが、その一方で、ある程度の安定性ということは、社会的に必要だろうとは思うことになるが。)
障害者の当事者でなければ見えないことがあり、語れないことがある。これは確かなことである。同じようなことは、この世界の様々な立場の人間についていえることでもある。そして、そのことが、即座にその「正しさ」につながるということではないとも思う。マイノリティの人びとの語ることに耳を傾けることは必要だとは思うが、それが絶対に「正しい」ということには、すぐにつながらない。いや、こういう場合に「正しさ」といことを持ち込むことではないと思う。まずは、その人たちが何を思い、何を語るのか、そのことを受け入れること……まずは、このことが大事だろうと思う。
その語ることを受け入れること、受けとめること……このことと、政治的な、社会的な、文化的な、「正しさ」ということの間には、少し距離がある、あるいは、社会や文化によって異なる(強いていえば多様性)ことがある、そう思っている。ここに唯一絶対の「正しさ」を持ち込まない方が、いいだろう。言いかえるならば、そのことを教条化してはならないということでもある。そうでなければ、未来に対して開かれたものになっていかない。
障害者ということに限らず、どのようなことについてでも私として思うことは、その「正しさ」が教条化してはいけないということである。これは、おそらくは、近代的な保守主義(エドマンド・バークにはじまる)の立場であると考えているし、この意味で、私は保守的でありたいと思うのである。
ところで、『ハンチバック』は見てみると、Kindle版があるのだが、これが紙の本より値段が高い。これは、異例かなと思うのだが、どういう事情によるものなのだろうか。普通は、Kindle版は、紙の本よりも、少し安く設定してあるのだが。
Kindle版が無い作家というと、まず思いうかぶのが、三島由紀夫である。これは、著作権の継承者の意向なのだろう。高村薫がKindle版が無いのは、分からないでもない。どこの出版社から本を出しても、印刷は精興社と決まっている。
2025年4月29日記
こころの時代 命の声を届ける 作家・市川沙央
録画しておいたのをようやく見た。
『ハンチバック』は、芥川賞を取ったときに買って読んだ。
見ながら思ったことを書いておく。
人は、なにがしかのステレオタイプ、あるいは、先入観といってもいいかもしれないが、それが無いと世界を認識することができない。これは、特に、構造主義言語学ということでもないが、一般に人間がこの世界をどう理解するかということについて、なんらかの枠組みが必要ということになる。この意味では、障害者という一つのイメージが、社会的に存在すること自体は、それ自体としては特に悪いことではないはずである。
問題となるのは、それがどのようなものであるかということと、そういうイメージが可変的なものであり、常に動いているものでもあるべきだということ、そういうものとして自覚しておくべきだろう、ということだろうと思っている。(だが、その一方で、ある程度の安定性ということは、社会的に必要だろうとは思うことになるが。)
障害者の当事者でなければ見えないことがあり、語れないことがある。これは確かなことである。同じようなことは、この世界の様々な立場の人間についていえることでもある。そして、そのことが、即座にその「正しさ」につながるということではないとも思う。マイノリティの人びとの語ることに耳を傾けることは必要だとは思うが、それが絶対に「正しい」ということには、すぐにつながらない。いや、こういう場合に「正しさ」といことを持ち込むことではないと思う。まずは、その人たちが何を思い、何を語るのか、そのことを受け入れること……まずは、このことが大事だろうと思う。
その語ることを受け入れること、受けとめること……このことと、政治的な、社会的な、文化的な、「正しさ」ということの間には、少し距離がある、あるいは、社会や文化によって異なる(強いていえば多様性)ことがある、そう思っている。ここに唯一絶対の「正しさ」を持ち込まない方が、いいだろう。言いかえるならば、そのことを教条化してはならないということでもある。そうでなければ、未来に対して開かれたものになっていかない。
障害者ということに限らず、どのようなことについてでも私として思うことは、その「正しさ」が教条化してはいけないということである。これは、おそらくは、近代的な保守主義(エドマンド・バークにはじまる)の立場であると考えているし、この意味で、私は保守的でありたいと思うのである。
ところで、『ハンチバック』は見てみると、Kindle版があるのだが、これが紙の本より値段が高い。これは、異例かなと思うのだが、どういう事情によるものなのだろうか。普通は、Kindle版は、紙の本よりも、少し安く設定してあるのだが。
Kindle版が無い作家というと、まず思いうかぶのが、三島由紀夫である。これは、著作権の継承者の意向なのだろう。高村薫がKindle版が無いのは、分からないでもない。どこの出版社から本を出しても、印刷は精興社と決まっている。
2025年4月29日記
BS世界のドキュメンタリー「隣人たちの戦争 〜憎しみの通り “敗者”の25年〜」 ― 2025-05-01
2025年5月1日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 隣人たちの戦争 〜憎しみの通り “敗者”の25年〜
録画してHDに残っていたのをようやく見た。
コソボ紛争については、あまりはっきりとした記憶がない。NATOによる空爆の是非をめぐって、いろいろと議論のあったことは憶えている。だが、そもそもの旧ユーゴスラビアの崩壊と、その後のさまざまな紛争については、はっきりいってややこしすぎて、よく分からないというのが実際である。
しかし、私の年代として、はっきりと記憶していることは、昔のユーゴスラビアという国は、日本の一部の知識人(左翼といってもいいと思うが)からは、絶賛されていた国であったことである。特に、チトー大統領は、すぐれた政治指導者として、ユーゴスラビアの政治が、多民族共生(今のことばでいえば)の見本のように語られていたことである。それが、幻想であったことが、冷戦終結後の特にユーゴスラビアの崩壊をめぐって起こったことである、というのが、まず私が思うことになる。
コソボ紛争までは、隣人同士が異なる民族であっても仲よく生活していた……ということで番組は作ってあったのだが、まず、このあたりの前提からすこしひっかかるところがある。仲よく暮らせたのは、仲がよかったからである……というような同語反復的な説明でしかないように思える。
ここは、異なる民族どうしが、なぜそれまで仲よく生活できていたのか、歴史的経緯の説明がほしいところなのだが、おそらく番組の作り手としては、ここの部分は意図的にカットしているのだろうと思う。
私として思うことは、普通に生活している普通の人びとが、状況によっては、どれほど残虐になりうるのかという、これ自体としては、世界の歴史のなかでいくらでもおこってきた、ありふれたことの一つということで理解することになる。(だから、残虐行為が正当化されるということはないのだけれど。)
NHKの番組の作り方として、憎悪の連鎖、という部分をできるかぎり描かない、ということがあるのだろうとは思う。どうしても、こういう部分のバイアスのかかった番組として見ることになる。(これはこれで、一つの偏見だろうとは思うのだけれども。)
映像を見ていれば、アルバニア系の人びとがイスラムの信仰をもつ人びとであることは分かる。だが、番組のなかで、イスラムということばはまったく使っていなかった。登場していた人が、神、ということばをつかってはいたが、それが、どういう神なのか(どういう信仰にもとづくものなのか)、説明はなかった。そういう方針で作ったことは理解できるつもりではいるが……民族対立、宗教対立ということを言いたくない…、しかし、これはフェアではないという印象がどうしてもある。
民族の対立、宗教の対立を、(強いて言えば)押さえ込んでいた、隠していたのが、かつての旧ユーゴスラビアの国家ということになるのかもしれないが、だからといって、社会主義国家の方がすばらしいとはいえない……だが、こういうことにまったくふれないでいるというのも、どうかなと思わざるをえない。
2025年4月25日記
BS世界のドキュメンタリー 隣人たちの戦争 〜憎しみの通り “敗者”の25年〜
録画してHDに残っていたのをようやく見た。
コソボ紛争については、あまりはっきりとした記憶がない。NATOによる空爆の是非をめぐって、いろいろと議論のあったことは憶えている。だが、そもそもの旧ユーゴスラビアの崩壊と、その後のさまざまな紛争については、はっきりいってややこしすぎて、よく分からないというのが実際である。
しかし、私の年代として、はっきりと記憶していることは、昔のユーゴスラビアという国は、日本の一部の知識人(左翼といってもいいと思うが)からは、絶賛されていた国であったことである。特に、チトー大統領は、すぐれた政治指導者として、ユーゴスラビアの政治が、多民族共生(今のことばでいえば)の見本のように語られていたことである。それが、幻想であったことが、冷戦終結後の特にユーゴスラビアの崩壊をめぐって起こったことである、というのが、まず私が思うことになる。
コソボ紛争までは、隣人同士が異なる民族であっても仲よく生活していた……ということで番組は作ってあったのだが、まず、このあたりの前提からすこしひっかかるところがある。仲よく暮らせたのは、仲がよかったからである……というような同語反復的な説明でしかないように思える。
ここは、異なる民族どうしが、なぜそれまで仲よく生活できていたのか、歴史的経緯の説明がほしいところなのだが、おそらく番組の作り手としては、ここの部分は意図的にカットしているのだろうと思う。
私として思うことは、普通に生活している普通の人びとが、状況によっては、どれほど残虐になりうるのかという、これ自体としては、世界の歴史のなかでいくらでもおこってきた、ありふれたことの一つということで理解することになる。(だから、残虐行為が正当化されるということはないのだけれど。)
NHKの番組の作り方として、憎悪の連鎖、という部分をできるかぎり描かない、ということがあるのだろうとは思う。どうしても、こういう部分のバイアスのかかった番組として見ることになる。(これはこれで、一つの偏見だろうとは思うのだけれども。)
映像を見ていれば、アルバニア系の人びとがイスラムの信仰をもつ人びとであることは分かる。だが、番組のなかで、イスラムということばはまったく使っていなかった。登場していた人が、神、ということばをつかってはいたが、それが、どういう神なのか(どういう信仰にもとづくものなのか)、説明はなかった。そういう方針で作ったことは理解できるつもりではいるが……民族対立、宗教対立ということを言いたくない…、しかし、これはフェアではないという印象がどうしてもある。
民族の対立、宗教の対立を、(強いて言えば)押さえ込んでいた、隠していたのが、かつての旧ユーゴスラビアの国家ということになるのかもしれないが、だからといって、社会主義国家の方がすばらしいとはいえない……だが、こういうことにまったくふれないでいるというのも、どうかなと思わざるをえない。
2025年4月25日記
地球ドラマチック「古代ドイツ 謎の女性シャーマン」 ― 2025-05-02
2025年5月2日 當山日出夫
地球ドラマチック 古代ドイツ 謎の女性シャーマン
ヨーロッパの考古学のことは、まったく予備知識がないので、いろいろと面白いところもあり、分からないところもあった。
最初の方で、女性が埋葬されていたことが、かなり特殊なことであったと言っていた。普通の死体は、地面に放置するか、木につるすか、ということであったが、どうしてそういうことが分かるのだろう。遺体をそんなふうにしておいたら、遺骨が残るということもないだろうし、完全に風化して自然に分解して無くなってしまうはずである。風葬ということで、理解していいのだろうか。
人間が、文化、というものを持つようになったことの一つの現れが、死者の埋葬などの儀礼だろうと思う。古代のヨーロッパでは、どのような死者儀礼、葬送儀礼があったと、一般に考えられているのか。このあたりは、日本の視聴者向けに説明がないと分かりにくい。
埋葬の状態から、シャーマンと判断できそうである、その可能性が高いということだったと思うが、見ていて、どうも根拠がはっきりしない。これは、その他の埋葬の事例と比べなければ、特にこの女性が特殊であったということが言えないはずである。もし、埋葬して墓を作っていたとしても、それは一般的にどのようなものであったか、分からないので何ともいいようがない。
シャーマンが、世界の未開民族(もうこういう言い方はしないかもしれないが、しかし、あまり適当な名称が思いうかばない)において見られるということは、文化人類学などの知見から明かなことにちがいない。学生のころ、文化人類学の講義で、シャーマンのことについては、習ったのを憶えている。
DNA解析から、この女性がどのような人であったか、全体像からの見通しができるはずだが、どうなのだろうか。古代のヨーロッパで、どのような人が住み、どのような人がやってきて、そして、今にいたっているのか、その全体像の研究は、どれぐらい分かっているのだろうか。
番組のなかで使っていたことばでいえば、肌の色が明るい……つまりは、白人、と言ってもいいはずだが、このことばは避けたのだろう……人たちが住むようになったのは、新しいことである、とあった。古代にヨーロッパに住んでいた人は、肌が褐色であった……これも、黒人、というようなことばは避けていたと思うのだが……これは、人類の歴史として、知られていることだと私は認識している。
骨がかなり残っているから、DNA解析も可能だし、何を食べていたかというようなことが分かる。
ただ、言っていなかったことは、年齢の推定である。普通は、何歳ぐらいのということは言いそうなのだが、まったく言及がなかった。ヨーロッパの考古学では、このようなことは気にしないのだろうか。
2025年4月28日記
地球ドラマチック 古代ドイツ 謎の女性シャーマン
ヨーロッパの考古学のことは、まったく予備知識がないので、いろいろと面白いところもあり、分からないところもあった。
最初の方で、女性が埋葬されていたことが、かなり特殊なことであったと言っていた。普通の死体は、地面に放置するか、木につるすか、ということであったが、どうしてそういうことが分かるのだろう。遺体をそんなふうにしておいたら、遺骨が残るということもないだろうし、完全に風化して自然に分解して無くなってしまうはずである。風葬ということで、理解していいのだろうか。
人間が、文化、というものを持つようになったことの一つの現れが、死者の埋葬などの儀礼だろうと思う。古代のヨーロッパでは、どのような死者儀礼、葬送儀礼があったと、一般に考えられているのか。このあたりは、日本の視聴者向けに説明がないと分かりにくい。
埋葬の状態から、シャーマンと判断できそうである、その可能性が高いということだったと思うが、見ていて、どうも根拠がはっきりしない。これは、その他の埋葬の事例と比べなければ、特にこの女性が特殊であったということが言えないはずである。もし、埋葬して墓を作っていたとしても、それは一般的にどのようなものであったか、分からないので何ともいいようがない。
シャーマンが、世界の未開民族(もうこういう言い方はしないかもしれないが、しかし、あまり適当な名称が思いうかばない)において見られるということは、文化人類学などの知見から明かなことにちがいない。学生のころ、文化人類学の講義で、シャーマンのことについては、習ったのを憶えている。
DNA解析から、この女性がどのような人であったか、全体像からの見通しができるはずだが、どうなのだろうか。古代のヨーロッパで、どのような人が住み、どのような人がやってきて、そして、今にいたっているのか、その全体像の研究は、どれぐらい分かっているのだろうか。
番組のなかで使っていたことばでいえば、肌の色が明るい……つまりは、白人、と言ってもいいはずだが、このことばは避けたのだろう……人たちが住むようになったのは、新しいことである、とあった。古代にヨーロッパに住んでいた人は、肌が褐色であった……これも、黒人、というようなことばは避けていたと思うのだが……これは、人類の歴史として、知られていることだと私は認識している。
骨がかなり残っているから、DNA解析も可能だし、何を食べていたかというようなことが分かる。
ただ、言っていなかったことは、年齢の推定である。普通は、何歳ぐらいのということは言いそうなのだが、まったく言及がなかった。ヨーロッパの考古学では、このようなことは気にしないのだろうか。
2025年4月28日記
よみがえる新日本紀行「海峡夫婦ー関門海峡ー」 ― 2025-05-02
2025年5月2日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 「海峡夫婦ー関門海峡ー」
再放送である。2023年1月28日。オリジナルは、昭和49年(1974年)。
港の水先人は、ネクタイをしめて正装で船にのりこむ。使うことばは、英語である。これは、何か他の番組でも見たことだと憶えているのだが、今から半世紀ほど前の関門海峡でも、同じである。
沖仲仕ということばは、もう死語だろう。私の学生のころまでは、まだ使われていたことばである。港湾での荷役の労働者である。この沖仲仕の仕事が、女性が多く働いていたということは、知らなかった。てっきり男性の力仕事だというイメージで思っていたのだが。しかし、かつては、建築現場や炭坑などでも、女性の労働者が多くいたことはたしかなので、沖仲仕の仕事を女性がしていても、そうだったのだろうと思う。これは、毎日、職安(もうこのことばも今ではつかわないが)に行っての日雇い労働であった。
貨物船に船倉に入りこんで、スコップで穀物を運搬用のカゴ(?)に入れる。これも、今では、機械化、自動化されていることになるのだろう。また、コンテナ輸送が増えて、沖仲仕の仕事は無くなっていく。(そのかわりに、ガントリークレーンのオペレータがいて、トラックの運転手がいて、という時代になったことになる。)
番組の最後に、成人式に向かう娘さんの姿が映っていた。草履で、でこぼこの道を歩くのは難儀である。この娘さんも、今、もし存命なら、ちょうど私と同じぐらいの年である。孫の何人かがいてもいいかもしれない。その後、どうしたのだろうかと思って見ていた。
2025年4月30日記
よみがえる新日本紀行 「海峡夫婦ー関門海峡ー」
再放送である。2023年1月28日。オリジナルは、昭和49年(1974年)。
港の水先人は、ネクタイをしめて正装で船にのりこむ。使うことばは、英語である。これは、何か他の番組でも見たことだと憶えているのだが、今から半世紀ほど前の関門海峡でも、同じである。
沖仲仕ということばは、もう死語だろう。私の学生のころまでは、まだ使われていたことばである。港湾での荷役の労働者である。この沖仲仕の仕事が、女性が多く働いていたということは、知らなかった。てっきり男性の力仕事だというイメージで思っていたのだが。しかし、かつては、建築現場や炭坑などでも、女性の労働者が多くいたことはたしかなので、沖仲仕の仕事を女性がしていても、そうだったのだろうと思う。これは、毎日、職安(もうこのことばも今ではつかわないが)に行っての日雇い労働であった。
貨物船に船倉に入りこんで、スコップで穀物を運搬用のカゴ(?)に入れる。これも、今では、機械化、自動化されていることになるのだろう。また、コンテナ輸送が増えて、沖仲仕の仕事は無くなっていく。(そのかわりに、ガントリークレーンのオペレータがいて、トラックの運転手がいて、という時代になったことになる。)
番組の最後に、成人式に向かう娘さんの姿が映っていた。草履で、でこぼこの道を歩くのは難儀である。この娘さんも、今、もし存命なら、ちょうど私と同じぐらいの年である。孫の何人かがいてもいいかもしれない。その後、どうしたのだろうかと思って見ていた。
2025年4月30日記
コズミックフロント「地動説 〜謎を追い続け、近代科学を生んだ人々の物語〜」 ― 2025-05-02
2025年5月2日 當山日出夫
コズミックフロント 地動説 〜謎を追い続け、近代科学を生んだ人々の物語〜
再放送である。最初は、2022年10月27日。
今の我々は天動説を信じているが、どういう根拠でそれが正しいと言えるのか、きちんと説明できる人は少ないかもしれない。
私は、マンガとアニメは見ない方針なので(別に嫌いとかではない、こういうジャンルのものまで読んだり見たりしだすとキリがないからである)、『チ。』は、名前は知っているし、今、NHKがアニメの放送をしていることも知っているけれど、見ようとは思っていない。
番組のなかで紹介されていたことになるが、科学の学説は検証できなければならない、という意味のことが出てきていた。いわゆる反証可能性ということになり、はっきりとこれが意識されるようになったのは、ポパー以来のことだろうと思っているので、ヨーロッパの中世を舞台にしたマンガのなかで、こういうことが出てくるとすると、ちょっと違和感を覚える。
天文学というのは、太陽や月や星の観測データと、その動きを説明する原理の研究、ということでいいだろうと思う。中世まで、天体の動きを観察するのは肉眼によることになる。観測の補助的なツールは開発され、また、説明するための数学の発達ということはあったのだろうが、大きな枠組みとしては、神の作った宇宙という存在が、そのような動きをする説明が、どれだけの説得力があるか、ということになる。よりシンプルで、美しい、あるいは、エレガント、と言ってもいいかもしれないが、そういう説明ができるなら、それが真実である……この基本の方向は、変わらなかったということでいいだろう。
言いかえるならば、天動説が迷妄であったのではない。地動説の方が、よりシンプルで美しい説明になるから、それを真実と考えるようになった……私としては、このように考えておきたい。惑星の逆行という現象をふくめて、さまざまな観測データを、地動説の方が、エレガントに説明できる、こういうことでいいのだろうと思う。
それを、現代の科学史の概念でいうならば、パラダイムの変換ということになる。パラダイムということばは、『科学革命の構造』(クーン)で使われたことばであるが、今では、一般的なことばになってしまっている。
その後のこととしては、相対性理論が生まれ、ビッグバンの発見、という流れになっていくことになる。そして、ビッグバンをふくめて、それ以前のことをどう理論的に考えるか、また、それを実証するためには、どういう観測データが必要になるのか、ということだと思っている。
私として気になるのは、天文学から「神」が消えてなくなるのは、いつだったのか、あるいは、今でも消えてはいないのか、ということがある。(別に「神」の存在を認めても、宇宙の創成を科学的、理論的に語ることは可能だと思っている。)
また、西欧の科学の発展に、イスラム世界が大きく寄与していたことは、これは、科学史のみならず、哲学などの分野においても、常識的なことであると思っている。
この番組のなかでは省略されていたことになるが、地球を球体としてとらえ、太陽系を(天動説ではあっても)三次元空間のなかの天体の動きとして考えるようになったプロセスも、非常に重要な、科学的知見の進歩であったはずである。
観測データの信頼性、その技術の歴史、それと、全体を説明するよりシンプルで統合的な理論の構築、私としては、こういう視点から考えることにしたい。
2025年4月27日記
コズミックフロント 地動説 〜謎を追い続け、近代科学を生んだ人々の物語〜
再放送である。最初は、2022年10月27日。
今の我々は天動説を信じているが、どういう根拠でそれが正しいと言えるのか、きちんと説明できる人は少ないかもしれない。
私は、マンガとアニメは見ない方針なので(別に嫌いとかではない、こういうジャンルのものまで読んだり見たりしだすとキリがないからである)、『チ。』は、名前は知っているし、今、NHKがアニメの放送をしていることも知っているけれど、見ようとは思っていない。
番組のなかで紹介されていたことになるが、科学の学説は検証できなければならない、という意味のことが出てきていた。いわゆる反証可能性ということになり、はっきりとこれが意識されるようになったのは、ポパー以来のことだろうと思っているので、ヨーロッパの中世を舞台にしたマンガのなかで、こういうことが出てくるとすると、ちょっと違和感を覚える。
天文学というのは、太陽や月や星の観測データと、その動きを説明する原理の研究、ということでいいだろうと思う。中世まで、天体の動きを観察するのは肉眼によることになる。観測の補助的なツールは開発され、また、説明するための数学の発達ということはあったのだろうが、大きな枠組みとしては、神の作った宇宙という存在が、そのような動きをする説明が、どれだけの説得力があるか、ということになる。よりシンプルで、美しい、あるいは、エレガント、と言ってもいいかもしれないが、そういう説明ができるなら、それが真実である……この基本の方向は、変わらなかったということでいいだろう。
言いかえるならば、天動説が迷妄であったのではない。地動説の方が、よりシンプルで美しい説明になるから、それを真実と考えるようになった……私としては、このように考えておきたい。惑星の逆行という現象をふくめて、さまざまな観測データを、地動説の方が、エレガントに説明できる、こういうことでいいのだろうと思う。
それを、現代の科学史の概念でいうならば、パラダイムの変換ということになる。パラダイムということばは、『科学革命の構造』(クーン)で使われたことばであるが、今では、一般的なことばになってしまっている。
その後のこととしては、相対性理論が生まれ、ビッグバンの発見、という流れになっていくことになる。そして、ビッグバンをふくめて、それ以前のことをどう理論的に考えるか、また、それを実証するためには、どういう観測データが必要になるのか、ということだと思っている。
私として気になるのは、天文学から「神」が消えてなくなるのは、いつだったのか、あるいは、今でも消えてはいないのか、ということがある。(別に「神」の存在を認めても、宇宙の創成を科学的、理論的に語ることは可能だと思っている。)
また、西欧の科学の発展に、イスラム世界が大きく寄与していたことは、これは、科学史のみならず、哲学などの分野においても、常識的なことであると思っている。
この番組のなかでは省略されていたことになるが、地球を球体としてとらえ、太陽系を(天動説ではあっても)三次元空間のなかの天体の動きとして考えるようになったプロセスも、非常に重要な、科学的知見の進歩であったはずである。
観測データの信頼性、その技術の歴史、それと、全体を説明するよりシンプルで統合的な理論の構築、私としては、こういう視点から考えることにしたい。
2025年4月27日記
ウチのどうぶつえん「チャレンジングゥ〜!!」 ― 2025-05-03
2025年5月3日 當山日出夫
ウチのどうぶつえん チャレンジングゥ〜!!
鳥が飛ぶところを見られる動物園というのは、ありそうでない。飛んで逃げ出さないように訓練するのは、かなりの苦労があったにちがいない。飛んで逃げてしまって、山口県から和歌山県まで行ってしまったというのは、おどろきである。それでも、なついて、繁殖も成功しているのは、いいことだと思う。
幼魚の水族館があることは知らなかった。仔魚、稚魚、幼魚、成魚、となる。その幼魚をつかまえるのに、港の岸壁で、海を観察しながら網で捕っているというのも、こんなふうにして捕まえることができるのかと、おどろく。おそらく、その飼育も、むずかしいかと思う。生態が分かっていないことが多いだろうから、何を食べてくれるか、これも試行錯誤になるにちがいない。
大きくなった魚が、他の水族館に引っ越して行くというのも、面白い。そして、これを裏からささえるコーディネーターの仕事をする人がいることになる。
鈴木香里武、という人、ただの幼魚が好きな人というだけではなく、ナチュラリストとして、生きものを見る目を持った人であることが、話しぶりを聞いていて分かる。
2025年4月27日記
ウチのどうぶつえん チャレンジングゥ〜!!
鳥が飛ぶところを見られる動物園というのは、ありそうでない。飛んで逃げ出さないように訓練するのは、かなりの苦労があったにちがいない。飛んで逃げてしまって、山口県から和歌山県まで行ってしまったというのは、おどろきである。それでも、なついて、繁殖も成功しているのは、いいことだと思う。
幼魚の水族館があることは知らなかった。仔魚、稚魚、幼魚、成魚、となる。その幼魚をつかまえるのに、港の岸壁で、海を観察しながら網で捕っているというのも、こんなふうにして捕まえることができるのかと、おどろく。おそらく、その飼育も、むずかしいかと思う。生態が分かっていないことが多いだろうから、何を食べてくれるか、これも試行錯誤になるにちがいない。
大きくなった魚が、他の水族館に引っ越して行くというのも、面白い。そして、これを裏からささえるコーディネーターの仕事をする人がいることになる。
鈴木香里武、という人、ただの幼魚が好きな人というだけではなく、ナチュラリストとして、生きものを見る目を持った人であることが、話しぶりを聞いていて分かる。
2025年4月27日記
BS世界のドキュメンタリー「サハラに捨てられる人びとーEU移民政策の裏でー」 ― 2025-05-03
2025年5月3日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー サハラに捨てられる人びとーEU移民政策の裏でー
EU、あるいは、イギリスなどをふくめて、ヨーロッパの国々といってもいいかもしれないが、移民をこれ以上は増やさない、という方向に舵をきりつつあるようである。無論、アメリカもそうである。
人道的な観点からは、確かに、難民とされるような人たちに援助の手を差し伸べるべきである、ということは確かにいえるのだが、しかし、多くの人びとが、ヨーロッパ社会のなかにはいってきて、これから先、うまく共存していけるのか、とうことも同時に考えるべきことである。人を受け入れるということは、その宗教や文化をふくめて受け入れるということであり、その人生の最後までかかわり、さらには、その子どもたちのことも考えなければならない。そう簡単に、人道的に受け入れを増やす、というだけではことはすまないだろう。
しかし、だからといって、サハラ砂漠の水も食糧もないところに、つれていって放置する、というのは、どう考えても非人道的であり、批難されるべき行為である。
リビアなど、現在のことはどうなっているのか、あまり日本で大きく伝えられることはない。カダフィ政権が崩壊したころ、次々に独裁政権がたおれていったのだが、それで、いっきに民主的な政府による統治がが実現したかというと、そうではなかった。実は、その後のことがどうなっているか、ということが、大きな問題だと思う。
サハラ砂漠以南(サブサハラ)の国々に住む人びとにとって、なんとしてでも、国を出てヨーロッパに渡りたい、という気持ちがあることになる。(これが、昔だったら、殖民地の宗主国に行ってなんとかしようということだったかもしれないが、もうそういうわけにはいかない。)
アフリカの経済発展ということもニュースで見ることではあるが、実際に生活する人びとのくらしは、どうなのだろうか。
スペイン領のカナリア諸島に行って、そこからヨーロッパを目指すということだったが、これも、合法、非合法、いろんなルートがあるのかもしれない。これについて、スペイン政府は、どう対応しているのだろうか。
移民、難民であっても、闇業者にお金を払って渡航が可能になるなら、まだ、マシな方というべきだろうか。もし、ヨーロッパに行くことができても、そこでの安定した生活が、これから保証されているかどうか、あまり安心はできないかもしれない。(最悪の場合、強制送還ということもありえないことではないだろう。)
まったくどうでもいいことだが……砂漠の移動につかわれるのは、(たぶんガソリンで動く)トヨタである。これが、将来的に、中国製の電気自動車に変わるときは、くるのだろうか。
2025年5月1日記
BS世界のドキュメンタリー サハラに捨てられる人びとーEU移民政策の裏でー
EU、あるいは、イギリスなどをふくめて、ヨーロッパの国々といってもいいかもしれないが、移民をこれ以上は増やさない、という方向に舵をきりつつあるようである。無論、アメリカもそうである。
人道的な観点からは、確かに、難民とされるような人たちに援助の手を差し伸べるべきである、ということは確かにいえるのだが、しかし、多くの人びとが、ヨーロッパ社会のなかにはいってきて、これから先、うまく共存していけるのか、とうことも同時に考えるべきことである。人を受け入れるということは、その宗教や文化をふくめて受け入れるということであり、その人生の最後までかかわり、さらには、その子どもたちのことも考えなければならない。そう簡単に、人道的に受け入れを増やす、というだけではことはすまないだろう。
しかし、だからといって、サハラ砂漠の水も食糧もないところに、つれていって放置する、というのは、どう考えても非人道的であり、批難されるべき行為である。
リビアなど、現在のことはどうなっているのか、あまり日本で大きく伝えられることはない。カダフィ政権が崩壊したころ、次々に独裁政権がたおれていったのだが、それで、いっきに民主的な政府による統治がが実現したかというと、そうではなかった。実は、その後のことがどうなっているか、ということが、大きな問題だと思う。
サハラ砂漠以南(サブサハラ)の国々に住む人びとにとって、なんとしてでも、国を出てヨーロッパに渡りたい、という気持ちがあることになる。(これが、昔だったら、殖民地の宗主国に行ってなんとかしようということだったかもしれないが、もうそういうわけにはいかない。)
アフリカの経済発展ということもニュースで見ることではあるが、実際に生活する人びとのくらしは、どうなのだろうか。
スペイン領のカナリア諸島に行って、そこからヨーロッパを目指すということだったが、これも、合法、非合法、いろんなルートがあるのかもしれない。これについて、スペイン政府は、どう対応しているのだろうか。
移民、難民であっても、闇業者にお金を払って渡航が可能になるなら、まだ、マシな方というべきだろうか。もし、ヨーロッパに行くことができても、そこでの安定した生活が、これから保証されているかどうか、あまり安心はできないかもしれない。(最悪の場合、強制送還ということもありえないことではないだろう。)
まったくどうでもいいことだが……砂漠の移動につかわれるのは、(たぶんガソリンで動く)トヨタである。これが、将来的に、中国製の電気自動車に変わるときは、くるのだろうか。
2025年5月1日記
ダークサイドミステリー「“呪い”…人はなぜ呪うのか?〜呪術大国ニッポンの闇〜」 ― 2025-05-03
2025年5月3日 當山日出夫
ダークサイドミステリー “呪い”…人はなぜ呪うのか?〜呪術大国ニッポンの闇〜
再放送である。最初は、2023年7月6日。
呪いという気持ちが、人間の幸福を願う気持ちと裏表の関係にあって、あいともなうものである、ということは確かだろう。現世利益というが、これには、自分が幸福になりたいという面と、敵をやっつけたいという面と、両方がある。この意味では、古来よりの人間の宗教的感情のなかに、これらがひそんできているといってもいいことになる。(本来の意味での、宗教ということとは、ちょっと違うかもしれないが。)
呪いの品物のコレクターがいるというのは、今の世の中なら、そういう人もいていいかと思う。その展覧会があって、たくさん人が押し寄せているというのも、まあ、そんなものかと思う。
現在でも、丑の刻参りをする人がいる。ちなみに、「のろい」や「丑の刻参り」で検索してみると、そのやり方や神社を解説したHPや動画などが、たくさんある。それだけ、興味を持っている人がたくさんいるということなのだろう。また、実際に行っている人もいることになる。
文化人類学や民俗学の立場から見た呪いということもあるし、広い意味での宗教学でとらえる呪いもある。歴史的にも、古くから、世界中で行われてきた。日本でも、考古遺物として呪いの人形が出土している。
怨霊思想というのは、日本に特有のことなのだろうか。早良親王、菅原道真など、怨霊として神様になった人(?)は多い。だが、今では、菅原道真は天神さんとして、学問の神様にもなっている。
ともあれ、非業の死を遂げた人間の霊はたたりをなす。適切に慰霊され鎮魂の儀式が必要である。これは、日本に古くからある人びとの心性であろう。(この意味では、私は、東京裁判で絞首刑になったA級戦犯については、慰霊のための施設があってもいいと思っている。しかし、だからといって、靖国神社に合祀するのが適切であるかどうかは、また別の問題である。)
佛教大学の斎藤英喜さんが登場していたが、つい最近、亡くなられた。その入院のときの様子など、Facebookで見ていたので、近しい人のように感じるところがある。日本の陰陽道などの専門家である。
陰陽師として、安倍晴明はあまりに有名である。昨年の『光る君へ』では大活躍していた。ただ、ドラマのなかでは、式神を使うシーンが無かったのが、ちょっと残念であった。
平安時代の貴族の呪いについて、真言密教に話しをもっていくのは、ちょっと強引な感じである。平安時代の貴族の、生活感覚としては、現代の人間とは違った側面がかなりあったはずである。呪いという方向だけで考えるのではなく、安産の祈祷なども含めて、広く考えるべきところだろう。
おそらく人間社会なかから、人を呪うという感情は、これから消えてなくなることはないだろうと思う。それがどのような形をとるかは、時代によって移り変わっていくことだろうが。
2025年5月1日記
ダークサイドミステリー “呪い”…人はなぜ呪うのか?〜呪術大国ニッポンの闇〜
再放送である。最初は、2023年7月6日。
呪いという気持ちが、人間の幸福を願う気持ちと裏表の関係にあって、あいともなうものである、ということは確かだろう。現世利益というが、これには、自分が幸福になりたいという面と、敵をやっつけたいという面と、両方がある。この意味では、古来よりの人間の宗教的感情のなかに、これらがひそんできているといってもいいことになる。(本来の意味での、宗教ということとは、ちょっと違うかもしれないが。)
呪いの品物のコレクターがいるというのは、今の世の中なら、そういう人もいていいかと思う。その展覧会があって、たくさん人が押し寄せているというのも、まあ、そんなものかと思う。
現在でも、丑の刻参りをする人がいる。ちなみに、「のろい」や「丑の刻参り」で検索してみると、そのやり方や神社を解説したHPや動画などが、たくさんある。それだけ、興味を持っている人がたくさんいるということなのだろう。また、実際に行っている人もいることになる。
文化人類学や民俗学の立場から見た呪いということもあるし、広い意味での宗教学でとらえる呪いもある。歴史的にも、古くから、世界中で行われてきた。日本でも、考古遺物として呪いの人形が出土している。
怨霊思想というのは、日本に特有のことなのだろうか。早良親王、菅原道真など、怨霊として神様になった人(?)は多い。だが、今では、菅原道真は天神さんとして、学問の神様にもなっている。
ともあれ、非業の死を遂げた人間の霊はたたりをなす。適切に慰霊され鎮魂の儀式が必要である。これは、日本に古くからある人びとの心性であろう。(この意味では、私は、東京裁判で絞首刑になったA級戦犯については、慰霊のための施設があってもいいと思っている。しかし、だからといって、靖国神社に合祀するのが適切であるかどうかは、また別の問題である。)
佛教大学の斎藤英喜さんが登場していたが、つい最近、亡くなられた。その入院のときの様子など、Facebookで見ていたので、近しい人のように感じるところがある。日本の陰陽道などの専門家である。
陰陽師として、安倍晴明はあまりに有名である。昨年の『光る君へ』では大活躍していた。ただ、ドラマのなかでは、式神を使うシーンが無かったのが、ちょっと残念であった。
平安時代の貴族の呪いについて、真言密教に話しをもっていくのは、ちょっと強引な感じである。平安時代の貴族の、生活感覚としては、現代の人間とは違った側面がかなりあったはずである。呪いという方向だけで考えるのではなく、安産の祈祷なども含めて、広く考えるべきところだろう。
おそらく人間社会なかから、人を呪うという感情は、これから消えてなくなることはないだろうと思う。それがどのような形をとるかは、時代によって移り変わっていくことだろうが。
2025年5月1日記
『チョッちゃん』(2025年4月28日の週) ― 2025-05-04
2025年5月4日 當山日出夫
『チョッちゃん』 2025年4月28日の週
このドラマは、進行が実にゆっくりである。昔の朝ドラは、こんなものだった。この一週間をかけて、どうしても東京の音楽学校に行きたい気持ちを固める蝶子と、それを容易に許す気になれない父親の俊道を、じっくりと描いていたことになる。
以前にも書いたが、このドラマが作られた時代、1980年代、昭和の戦前の北海道の生活、女学校の生活、東京での生活、これらのことが、まだ多くの日本の人びとの記憶にあった時代である。リアルにその時代のことを、体験的に知っている人が、少なからずいた時代である。だからこそ、じっくりと描くことができているということだろう。
父親の俊道が、蝶子が東京に行きたいということに対して、かつて、自分が北海道の滝川が医者を求めているからというので、やってきたときの気持ちを語っていた。明治のころになるが、北海道に行くとなると、親族とはこれで今生の別れだと覚悟を決めなければならなかった。やや大げさに語っているかとも思えるが、しかし、昭和の戦前以前、東京からの距離の感覚は、現代とはくらべものにならないぐらいだっただろう。
この意味では、東京のおじさんが、出張で北海道に気楽にやってくるように描かれているのは、そのうさんくささ、山師っぷり、ということの表現として、理解することになる。
また、その一方で、朝鮮半島や大陸へは、気楽に人びとが行けた時代でもあった。満州事変、満州国の建国は、これよりもうすこし後のことになる。
北海道にいる外国人としてロシア人が出てくるのも、この時代の感覚だったのだろう。(もし、同じようなドラマを現代で作るならば、アイヌの人々を登場させることになるとは思う。)
しかし、東京の音楽学校に行って声楽家になると言っている、当の本人の蝶子が、それがどんなに大変なことなのか、まったく理解していない。ただ、空想の世界で思っているだけである。竹久夢二や蕗谷紅児の絵の世界にあこがれることと、そう変わっていない。だからこそ、生まれて初めて、一人で東京に行く、青函連絡船に乗るということが、できるのかもしれない。
2025年5月3日記
『チョッちゃん』 2025年4月28日の週
このドラマは、進行が実にゆっくりである。昔の朝ドラは、こんなものだった。この一週間をかけて、どうしても東京の音楽学校に行きたい気持ちを固める蝶子と、それを容易に許す気になれない父親の俊道を、じっくりと描いていたことになる。
以前にも書いたが、このドラマが作られた時代、1980年代、昭和の戦前の北海道の生活、女学校の生活、東京での生活、これらのことが、まだ多くの日本の人びとの記憶にあった時代である。リアルにその時代のことを、体験的に知っている人が、少なからずいた時代である。だからこそ、じっくりと描くことができているということだろう。
父親の俊道が、蝶子が東京に行きたいということに対して、かつて、自分が北海道の滝川が医者を求めているからというので、やってきたときの気持ちを語っていた。明治のころになるが、北海道に行くとなると、親族とはこれで今生の別れだと覚悟を決めなければならなかった。やや大げさに語っているかとも思えるが、しかし、昭和の戦前以前、東京からの距離の感覚は、現代とはくらべものにならないぐらいだっただろう。
この意味では、東京のおじさんが、出張で北海道に気楽にやってくるように描かれているのは、そのうさんくささ、山師っぷり、ということの表現として、理解することになる。
また、その一方で、朝鮮半島や大陸へは、気楽に人びとが行けた時代でもあった。満州事変、満州国の建国は、これよりもうすこし後のことになる。
北海道にいる外国人としてロシア人が出てくるのも、この時代の感覚だったのだろう。(もし、同じようなドラマを現代で作るならば、アイヌの人々を登場させることになるとは思う。)
しかし、東京の音楽学校に行って声楽家になると言っている、当の本人の蝶子が、それがどんなに大変なことなのか、まったく理解していない。ただ、空想の世界で思っているだけである。竹久夢二や蕗谷紅児の絵の世界にあこがれることと、そう変わっていない。だからこそ、生まれて初めて、一人で東京に行く、青函連絡船に乗るということが、できるのかもしれない。
2025年5月3日記
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