100分de名著「村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (4)「閉じない小説」の謎」2025-05-01

2025年5月1日 當山日出夫

100分de名著 村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (4)「閉じない小説」の謎

綿谷ノボルは、岡田トオルの鏡像ではないか、と沼野充義が言っていたが、私は、これに同感である。というよりも、綿谷ノボルは悪として出てくるのだが、それは、たおすべき絶対悪というよりも、主人公の岡田トオルの日常的な意識の延長線上に存在する、あるいは、意識の底の方にある邪悪な何かが姿を現したもの、という印象である。私としては、そのように読んだことになる。

村上春樹の作品は、『ねじまき鳥クロニクル』もそうだが、異界との行き来がある。その異界は、今の現実の世界から隔絶されたところにあるのではなく、日常のつながりの延長上に存在している。他の作品のことを思ってみても、近所にある井戸であったり、穴であったり、エレベータであったり、である。

絶対悪と絶対善の対決というような構図よりも、日常的な感覚のなかに、悪もあり善もあり、それがつながっている、と理解した方がいいように私は感じている。この意味では、村上春樹の作品は、その作品のなかで閉じるということはなくて、終わってもその続きが、どこかにつながっていることになる。

私の理解するところでは、村上春樹の作品は、明晰な文章とストーリーである。だが、それが何を表象しているのかと、具体的にイメージすると、きわめて難解になる。あるいは、多様な解釈ができる。ここのところが、村上春樹の作品の魅力であり、また、理解のむずかしいところになるのだろう。

2025年4月30日記

こころの時代「命の声を届ける 作家・市川沙央」2025-05-01

2025年5月1日 當山日出夫

こころの時代 命の声を届ける 作家・市川沙央

録画しておいたのをようやく見た。

『ハンチバック』は、芥川賞を取ったときに買って読んだ。

見ながら思ったことを書いておく。

人は、なにがしかのステレオタイプ、あるいは、先入観といってもいいかもしれないが、それが無いと世界を認識することができない。これは、特に、構造主義言語学ということでもないが、一般に人間がこの世界をどう理解するかということについて、なんらかの枠組みが必要ということになる。この意味では、障害者という一つのイメージが、社会的に存在すること自体は、それ自体としては特に悪いことではないはずである。

問題となるのは、それがどのようなものであるかということと、そういうイメージが可変的なものであり、常に動いているものでもあるべきだということ、そういうものとして自覚しておくべきだろう、ということだろうと思っている。(だが、その一方で、ある程度の安定性ということは、社会的に必要だろうとは思うことになるが。)

障害者の当事者でなければ見えないことがあり、語れないことがある。これは確かなことである。同じようなことは、この世界の様々な立場の人間についていえることでもある。そして、そのことが、即座にその「正しさ」につながるということではないとも思う。マイノリティの人びとの語ることに耳を傾けることは必要だとは思うが、それが絶対に「正しい」ということには、すぐにつながらない。いや、こういう場合に「正しさ」といことを持ち込むことではないと思う。まずは、その人たちが何を思い、何を語るのか、そのことを受け入れること……まずは、このことが大事だろうと思う。

その語ることを受け入れること、受けとめること……このことと、政治的な、社会的な、文化的な、「正しさ」ということの間には、少し距離がある、あるいは、社会や文化によって異なる(強いていえば多様性)ことがある、そう思っている。ここに唯一絶対の「正しさ」を持ち込まない方が、いいだろう。言いかえるならば、そのことを教条化してはならないということでもある。そうでなければ、未来に対して開かれたものになっていかない。

障害者ということに限らず、どのようなことについてでも私として思うことは、その「正しさ」が教条化してはいけないということである。これは、おそらくは、近代的な保守主義(エドマンド・バークにはじまる)の立場であると考えているし、この意味で、私は保守的でありたいと思うのである。

ところで、『ハンチバック』は見てみると、Kindle版があるのだが、これが紙の本より値段が高い。これは、異例かなと思うのだが、どういう事情によるものなのだろうか。普通は、Kindle版は、紙の本よりも、少し安く設定してあるのだが。

Kindle版が無い作家というと、まず思いうかぶのが、三島由紀夫である。これは、著作権の継承者の意向なのだろう。高村薫がKindle版が無いのは、分からないでもない。どこの出版社から本を出しても、印刷は精興社と決まっている。

2025年4月29日記

BS世界のドキュメンタリー「隣人たちの戦争 〜憎しみの通り “敗者”の25年〜」2025-05-01

2025年5月1日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 隣人たちの戦争 〜憎しみの通り “敗者”の25年〜

録画してHDに残っていたのをようやく見た。

コソボ紛争については、あまりはっきりとした記憶がない。NATOによる空爆の是非をめぐって、いろいろと議論のあったことは憶えている。だが、そもそもの旧ユーゴスラビアの崩壊と、その後のさまざまな紛争については、はっきりいってややこしすぎて、よく分からないというのが実際である。

しかし、私の年代として、はっきりと記憶していることは、昔のユーゴスラビアという国は、日本の一部の知識人(左翼といってもいいと思うが)からは、絶賛されていた国であったことである。特に、チトー大統領は、すぐれた政治指導者として、ユーゴスラビアの政治が、多民族共生(今のことばでいえば)の見本のように語られていたことである。それが、幻想であったことが、冷戦終結後の特にユーゴスラビアの崩壊をめぐって起こったことである、というのが、まず私が思うことになる。

コソボ紛争までは、隣人同士が異なる民族であっても仲よく生活していた……ということで番組は作ってあったのだが、まず、このあたりの前提からすこしひっかかるところがある。仲よく暮らせたのは、仲がよかったからである……というような同語反復的な説明でしかないように思える。

ここは、異なる民族どうしが、なぜそれまで仲よく生活できていたのか、歴史的経緯の説明がほしいところなのだが、おそらく番組の作り手としては、ここの部分は意図的にカットしているのだろうと思う。

私として思うことは、普通に生活している普通の人びとが、状況によっては、どれほど残虐になりうるのかという、これ自体としては、世界の歴史のなかでいくらでもおこってきた、ありふれたことの一つということで理解することになる。(だから、残虐行為が正当化されるということはないのだけれど。)

NHKの番組の作り方として、憎悪の連鎖、という部分をできるかぎり描かない、ということがあるのだろうとは思う。どうしても、こういう部分のバイアスのかかった番組として見ることになる。(これはこれで、一つの偏見だろうとは思うのだけれども。)

映像を見ていれば、アルバニア系の人びとがイスラムの信仰をもつ人びとであることは分かる。だが、番組のなかで、イスラムということばはまったく使っていなかった。登場していた人が、神、ということばをつかってはいたが、それが、どういう神なのか(どういう信仰にもとづくものなのか)、説明はなかった。そういう方針で作ったことは理解できるつもりではいるが……民族対立、宗教対立ということを言いたくない…、しかし、これはフェアではないという印象がどうしてもある。

民族の対立、宗教の対立を、(強いて言えば)押さえ込んでいた、隠していたのが、かつての旧ユーゴスラビアの国家ということになるのかもしれないが、だからといって、社会主義国家の方がすばらしいとはいえない……だが、こういうことにまったくふれないでいるというのも、どうかなと思わざるをえない。

2025年4月25日記