英雄たちの選択「博覧会で京都を救え 〜八重の兄・山本覚馬〜」2025-05-08

2025年5月8日 當山日出夫

英雄たちの選択 博覧会で京都を救え 〜八重の兄・山本覚馬〜

再放送である。だが、番組のHPでは、最初の放送がいつだったか書いていない。

山本覚馬は、今ちょうど『八重の桜』を再放送しているので見ている。だから、その人生の概略は、たぶんドラマに描かれたようなものだったのだろうと思っている。

はじまってすぐに、磯田道史が、西洋の強さはサイエンスにある、ということを言っていたが、これはそのとおりかとは思う。もうちょっと考えると、近代的なサイエンスとテクノロジーを生み出すことの背景にあった、ものの考え方と社会のあり方、ということになるにちがいない。そして、実際には、それが軍事力として現れてくることになる。

山本覚馬の書いた『管見』について、その内容が非常に具体的であったことも重要だろう。そのなかで、重要視していたのが、教育であった。京都が明治になって、全国に先がけて小学校を整備していったことは、よく知られていることだろう。(だが、その小学校の多くは、統廃合され、その跡地がいろいろと使われるようになっている。学校博物館や、マンガミュージアムなども、その一例である。)

『管見』が薩摩藩に幽閉されている間に、この時、覚馬は視力を失っていたので、口述筆記だったのだが、そのことの意味も重要である。口述筆記であるから、それを書きとめる人が耳で聴いて理解できることばでなければならない。難解な漢語を並べた抽象的な議論ではなく、非常に具体的な事例で、分かりやすく語ることになる……このような指摘は、そのとおりかと思う。(同時代の著作として、福澤諭吉の書いたものが分かりやすいのは、耳で聴いて分かる文章である、ということもある。)

京都に同志社ができたのは、新島襄のこともあるが、同時に、山本覚馬のちからがあってのことである。京都における、明治になってからの、近代的な高等教育のスタートということでは、やはり同志社は、非常に重要な存在である。

そして、京都の教育の重要な点は、女性の教育にもちからをいれていたことである。(もちろん、全国的に女性の高等教育が一般になるのは、ずっと後、戦後になってかなりたってからのことにはなるが。どうでもいいことなのだが、京都のノートルダム女子大学が閉学することになった。これも、時代の流れである。)

これが、ミッションスクールであったことも、この時代にあっては、過激なまでの西洋化ということが、許された時代ということになる。また、それができたのが、京都の街だったともいえようか。(京都という街は、近代になって急速に近代化、近代産業の育成ということにちからをいれたところでもある。)

博覧会の開催は、京都の産業振興におおいに貢献したことになるにちがいない。

都をどりが、明治の博覧会でのショーから始まったことは、面白い。たしかに、芸舞妓の京舞は、お座敷の芸である。それを、大きな舞台の上のショーにしたてあげたこと、また、その歴史ということは、どれぐらい研究されていることだろうか。今では、京都の五つの花街で、「~~踊り」が開催されるようになっている。

京都の街の近代化というのは、天皇が東京に行ってしまって、また、禁門の変で焼けてしまったからこそ、あまり過去のしがらみにとらわれることなく、新しいことにチャレンジできた、という面はあるのだろう。京都というと、古くからのものを残している街というイメージが強いが、それは、それぞれの時代の変化に対応してきたから、生きのこってきた、と見るべきである。

山本覚馬の書いた『管見』の写本が、防衛省に伝わって残っているというのも興味深い。どういう経緯で残ったものなのだろうか。

2025年5月5日記

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