「太陽の塔 消えた顔を追え」2025-05-08

2025年5月8日 當山日出夫

「太陽の塔 消えた顔を追え」

万博が始まってからこういう番組を放送するというのは、NHKなりの反骨精神というべきだろうか。

福岡伸一が、万博のパビリオンのプロデューサを引き受けるという話しを目にしたときは、なんでこんなものをと、がっかりしたのを憶えている。福岡伸一というのは、もっとまともな研究者だと思っていた。

だが、この番組でこういう形で登場してくるのを見ていると、今回の万博には基本的に疑問をなげかける形で、確信犯的にプロデューサとして加わったのかもしれないと思う。そうであるとするならば、かなりこれはすごいことである。逆に、福岡伸一という人物を見なおした。

あつかっている素材そのもの、テーマとしては、そう目新しいというものではないのかもしれない。

1970年の万博のときの資料が、なんとか保存されているということは、この番組で知った。今まで、この資料の保存のことは、あまり大きく取りあげられてきたことはなかったかと思う。

沖縄の久高島の御岳(うたき)、そこでの風葬や祭祀のこと、これは民俗学的には知られていることではあるが、この番組の文脈で出てくると、非常に興味深い。生物は死ぬことによって、生命の循環がある。これを、古代の風習をとどめるであろう、沖縄の古来の風習のなかに感じとっている。

これと、再利用されることなく、粉砕されて谷に積み重ねられただけの産業廃棄物と、対比することによって、たしかに、生命の死と誕生と再生の循環はいったい何であるのか、考えることになる。

どうでもいいことだが、映っていたのは福岡伸一の研究室だったのだろう。本棚が、それ用のものだった。普通は、理系の研究者の研究室というと、実験器具とか書類がたくさんある場面が多いのだが、福岡伸一の本棚には一般の本がたくさんあった。カズオ・イシグロとか、本多勝一、などの名前を読みとることができた。

NHKとしては、万博に表立って反対の立場を言いにくいということになるだろうから、福岡伸一が、かつて岡本太郎が太陽の塔を作った意図を探るという形で番組に作ったということになるのだろう。形式的には、万博への批判を、福岡伸一と岡本太郎に負わせることになるが、このような形であっても、批判すべきことを語るべきである、という製作者の気持ちは伝わってくるものであった。

荒削りで、無骨な作りで、ところどころいかにもわざとらしい感じも残っているのだが、万博のパビリオンの展示よりも、沖縄の風葬の痕跡に生命を感じるということの方が、人間として普通であり、まともである。この人間としての普通の感性を無視しているのが、今の万博であるといってよい。

2025年5月5日記

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