100分de名著「“谷川俊太郎詩集” (1)詩人の誕生」2025-05-08

2025年5月8日 當山日出夫

100分de名著 “谷川俊太郎詩集” (1)詩人の誕生

「鉄腕アトム」のアニメ主題歌が谷川俊太郎の作詞であることを知ったのは、大きくなってからだった。私の年代だと、このアニメは、リアルタイムで見ていた世代ということになる。もちろん、はじめて憶えたアニメの主題歌であり、今でも憶えている。(その他、「エイトマン」も「鉄人28号」も憶えている。)

我が家の長男が幼稚園ぐらいのときだっただろうか、テレビのコマーシャルで、鉄腕アトムが出てきていたことがあった。たしか、NTTのコマーシャルだったと憶えているが。それを見ていた子どもが、「おとうさん、これ何のマンガ?」と聞いてきたので、返答に困ったのを記憶している。

谷川俊太郎の詩集はいくつか出ていて、文庫本で読めるものがかなりある。岩波文庫版が、現在では、もっともスタンダードかもしれない。これは、文庫本でも持っている本なのだが(読んだ本であるが)、Kindle版で、新しく買ってみた。

若いころから、本は基本的に手放さないできた。特に、詩集は、絶対に手放さない方針できた。高校生のころ、中央公論社の「日本の詩歌」のシリーズをいくつか買って読んだものである。萩原朔太郎も、北原白秋も、土井晩翠も、三木露風も、このシリーズで読んだ。薄紫色の装丁の瀟洒な雰囲気が、とてもよかった。

詩ほど、どの本で読んだかということが、強く記憶に残るものはない。

しかし、この年になって、あらためて考えることとしては、詩がことばの芸術であるとして、それが、書物、活字、という具体性に束縛されている、ということはないだろう、とも思うようになった。今、われわれが『万葉集』を読むとき、専門家なら、漢字ばかりの万葉仮名表記の本文に読み方がルビで示されたテクストを使う(代表的なのが、塙書房のものである)。一般的には、現代風に漢字仮名まじりの表記に書き改めたもので読む。しかし、どちらも、『万葉集』の歌人たちが生きた時代には、なかったものである。場合によっては、口承のみで伝えられ、文字にならなかった歌も多くあっただろう。逆に、文字に書かれたとしても、それは木簡であった可能性が高い。

詩歌とメディアということを思うと、そのテクストの真正性とはなんであるか、ということを、歴史的にはどうしても考えることになる。口承が木簡になり、それが、紙に書かれ、さらに、表記が改められても、日本語の詩歌として命脈をたもっているということも、一つの事実としてある。

ところで、「二十億光年の孤独」は、ノートに鉛筆で書かれていた。テレビの画面に映ったのを見ると、推敲したあとがない。これは、清書本と考えていいのだろうか。あるいは、谷川俊太郎は、最初から、この作品を今のかたちで書いていったのだろうか。このあたりの事情が、ちょっと気になったところである。

谷川俊太郎を若松英輔が講じるというのは、この番組としては、妥当なことかなと思う。

話しているなかで気になったのが、「かなしい」ということばを、「愛」でも「美」でも表記できる。このことを、非常に肯定的に語っていた。日本語のことば、いわゆる和語にあたることばについて、どういう漢字で表記するかというのは、肯定的に考えれば、ことばの意味の多様性ということになるが、しかし、その逆に、日本語のことばの語彙の貧弱ということでもある。

だが、このような日本語であっても、それを使って詩歌として表現するのが詩人だとは思う。

2025年5月7日記

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