「心おどるあの人の本棚 (4)クリス智子(ラジオパーソナリティー)」2025-05-14

2025年5月14日 當山日出夫

心おどるあの人の本棚 (4)クリス智子(ラジオパーソナリティー)

テレビの番組表で目にとまったので録画しておいた。

本というのは、私にとっては商売道具(?)であり、あるいは、資料であり、研究対象でもある……というものなので、逆に、本それ自体にあまりこだわることはない。かなり持ってはいる方だが、大部分は書庫にしまったままである。

今では、たいていの本は、Kindleで読む。新しい本で、Kindle版があればそれを買う。以前に読んだ本で、読みかえしたい本があれば、Kindle版で買いなおす。要するに、年をとって小さい文字を読むのが辛くなってきたということがある。

それよりも、純然とことばの世界として小説や評論を読むとすると、本という物理的制約があることの意味を、考えるようになった。ことばは本のなかにあるのだが、同時に、本からはなれてもことばはことばである。

前にも書いたことだが……今、『万葉集』を読むとき、一般の人なら、漢字仮名交じり表記に改めたものを読むことになる。古代語、古代文学の専門家なら、漢字だけの本文に読み方がルビでついたテキストを使う。多く使われるのが、塙書房の出しているものである。ただ、これは、一般にはあまり知られていない本になるかもしれない。はるか昔、万葉集の歌人たちが、その歌を詠んだときは、口承によるものだったと考えることができる。おそらく、柿本人麻呂などの作品はそうだろう。それが、奈良時代になれば、木簡に書かれることもあったかもしれない。大伴家持ぐらいになると、その可能性が高い。しかし、いずれにせよ、万葉の時代の歌人たちにとって、現代の我々が読んでいるような、冊子体の紙の本っとしての『万葉集』などは、想像することすらできなかったはずである。そもそも、歌が集められて編集されて、『万葉集』という書物になることさえも、あずかり知らぬことだったにちがいない。

しかし、その歌は、現代の日本語において読んでも、なにがしか伝わるものがある。(ただ、それが、その歌が詠まれたときの状況を正しくふまえた理解であるかどうかは、また別の問題ではあるが。)

こういうことを思うと、あまり、書物という形にとらわれるべきではない、といえるかもしれない。

だが、ことばは、多くは書物であり(つまり、文字であり)、あるいは、口承という具体的な音声であり、という形で、伝えられてきたことはたしかである。

近代になってからの書物の多くは、書物という形をとることを前提に、書かれて本になってきたということも、また、確かなことである。(現代では、ことばの多くは、デジタル表示の文字であり、その背後には文字コードの世界がある。)

以上のようなことを考えるのだが、それでも、人の本棚を見るのは、面白いものである。

気になったのは、三島由紀夫の「豊饒の海」が並んでいたが、三冊しかなかったようである。全部で四冊なのだがと思ってちょっと気になる。中原中也の詩集があったが、おそらくは復刻版だろう。初版本を、あんなに無造作にあつかうことは考えられない。全集の類が無いというのは、そういう方針なのだろう。

2025年5月13日記

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