『べらぼう』「鱗の置き土産」2025-05-19

2025年5月19日 當山日出夫

『べらぼう』「鱗の置き土産」

去年の『光る君へ』のときは、ドラマに関連して『源氏物語』関係の本がかなり出た。しかし、今年の『べらぼう』では、江戸の戯作(黄表紙など)が、現代風に新しくして読まれる、ということはあまりないようである。蔦屋重三郎関係の本は、かなり出版されている。これについては、すでにかなり研究の蓄積があるところなので、本を企画するのにむずかしいということはない。

現代、恋川春町を読んでみようという人はどれぐらいいるだろうか。大学で日本文学専攻で、近世文学を選んで勉強してみようという学生ぐらいだろうかと思う。ちくま学芸文庫の『江戸の戯作絵本』はあるが、どれぐら売れているだろうか。私は持っている本だが、はっきり言って字が小さすぎて、この年になると、この本を読むのがつらい(ので、読んでいない。)

江戸の戯作がつまらないとは思わない。いや、きちんと読むならば、非常に面白い内容であるはずである。だが、これを面白いと思うためには、当時の時代背景(政治的社会的)や、江戸の人たちの文化的素養が理解できていないと、その面白みが分からない。

近世の江戸の文学の研究というと、非常に広範な知識がないとできない……と思っている。

何度も書いていることだが、そして、ドラマでは意図的にだろうが省いていることだと思うけれど、江戸の出版として、青本などだけで、その全体像を語るのは無理がある。また、吉原だけで、江戸の文化を描こうとするのも、これはむずかしいことである。

この週の最後のところで、大田南畝が出てきていた。昔、岩波から『蜀山人全集』が出たのは学生のときだったが、これは買った本である。今も書庫の中にある。江戸の戯作や狂歌などを理解しようとするならば、この時代の教養や知識の全体がわからないとむずかしい。蜀山人などは、とてつもない教養人だったと思う。

以上のようなことを思うのだが、ドラマとして見た場合、蔦重が恋川春町をまきこんで、鱗形屋や市中の本屋たちとあらそい、いよいよ本格的に出版に乗り出していく過程として、これはこれで面白い展開になっている。歌麿はまだその才能を開花させたということではないが、絵から考える、絵を見てもらおうということで、出版にむすびつける方向性を出してきている。

本屋(出版、編集)が、作家にアイデアを提供して、これで書いてもらえませんか、というのは、今でもあることかと思う。特にエンタメ系コンテンツの場合であれば、全体のプロデューサーがいて、アイデアを出す人がいて、それを制作する人がいて、ということになっているかと思う。

恋川春町の考えていることは、今日の職業作家の近い雰囲気がある。しかし、この時代の戯作者というのは、本業がまずあって(武士であるが)、書くのは道楽、が悪ければ、趣味の領域のことだったろとおもっていたのだが、はたしてどうだったろうか。この点では、浮世絵の絵師が、絵だけで生きていこうとしていたことと、対照的かもしれない。戯作が職業、あるいは、専門的な職業意識の持ち主としてなりたつのは、蔦重の時代としては無理ではないだろうか。

近代的な小説家を描くとき、机にむかって呻吟しながら、原稿用紙を丸めてくしゃくしゃにして投げ捨てる、というイメージであるが、江戸時代の作家というと、どういうイメージで描くことになるのだろうか。

花魁の誰袖は、もうドラマからは退場した瀬川とはちがった魅力がある。

2025年5月18日記

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