『とと姉ちゃん』「常子、妹のために走る」「常子、はじめて祖母と対面す」 ― 2025-05-25
2025年5月25日 當山日出夫
『とと姉ちゃん』 「常子、妹のために走る」「常子、はじめて祖母と対面す」
最初の放送を見たとき、ハトをつかまえようとして、結局、それは失敗に終わる、ということだったのは憶えている。たしかにハトは食用にもなるとは思うが、日本ではあまり一般的ではない。もし本当にハト、それもドバトが、食用で価値があるなら、街のなかにいっぱいいるドバトが、もう少し減ってもよさそうなものである。
深川の材木問屋の場面は、NHKが作ったドラマだけのことはあって、この時代はこんなだったのだろうか、という雰囲気で作ってある。関東大震災で被害の大きかった地域である。しかし、材木商というのは、水のないところでは仕事にならない。木場は、水に浮かべて材木の運搬と貯蔵ということになっているはずだから、関東大震災で被害があったからといって、まとまってどこかに引っ越しして商売を再開するということはできなかっただろう。
関東大震災後の復興特需ということもあったかと思うが、どうだったのだろうか。材木商はボロ儲けしたかもしれない。(『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラが材木商ビジネスで成功したように。)
それにしてもよく分からないのが、なぜ浜松だったのか、ということである。大橋鎭子は、史実としては、浜松で生まれ育ったということではなかったはずである。それも、ドラマの始まりの二週間だけであった。なんとなく無駄にコストをかけて作ったような印象がある。
だが、浜松の家での生活の様子とかは、昭和の戦前の地方の街の雰囲気をよく作ってあったと感じる。また、染色の布を干してある場面などは、非常に視覚的に印象に残る。
祖母の滝子(大地真央)は、貫禄である。ありすぎるといってもいいぐらいである。また、番頭の隈井(片岡鶴太郎)がいい雰囲気をだしている。
2025年5月23日記
『とと姉ちゃん』 「常子、妹のために走る」「常子、はじめて祖母と対面す」
最初の放送を見たとき、ハトをつかまえようとして、結局、それは失敗に終わる、ということだったのは憶えている。たしかにハトは食用にもなるとは思うが、日本ではあまり一般的ではない。もし本当にハト、それもドバトが、食用で価値があるなら、街のなかにいっぱいいるドバトが、もう少し減ってもよさそうなものである。
深川の材木問屋の場面は、NHKが作ったドラマだけのことはあって、この時代はこんなだったのだろうか、という雰囲気で作ってある。関東大震災で被害の大きかった地域である。しかし、材木商というのは、水のないところでは仕事にならない。木場は、水に浮かべて材木の運搬と貯蔵ということになっているはずだから、関東大震災で被害があったからといって、まとまってどこかに引っ越しして商売を再開するということはできなかっただろう。
関東大震災後の復興特需ということもあったかと思うが、どうだったのだろうか。材木商はボロ儲けしたかもしれない。(『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラが材木商ビジネスで成功したように。)
それにしてもよく分からないのが、なぜ浜松だったのか、ということである。大橋鎭子は、史実としては、浜松で生まれ育ったということではなかったはずである。それも、ドラマの始まりの二週間だけであった。なんとなく無駄にコストをかけて作ったような印象がある。
だが、浜松の家での生活の様子とかは、昭和の戦前の地方の街の雰囲気をよく作ってあったと感じる。また、染色の布を干してある場面などは、非常に視覚的に印象に残る。
祖母の滝子(大地真央)は、貫禄である。ありすぎるといってもいいぐらいである。また、番頭の隈井(片岡鶴太郎)がいい雰囲気をだしている。
2025年5月23日記
『チョッちゃん』(2025年5月19日の週) ― 2025-05-25
2025年5月25日 當山日出夫
『チョッちゃん』(2025年5月19日の週)
はっきりいって、このごろの朝の楽しみというと、『あんぱん』よりも『チョッちゃん』になっている。『あんぱん』はいかにもドラマですよという感じの演技であるが(無論、それは非常にうまいのであるが)、『チョッちゃん』は演技というよりも、より自然な雰囲気がある。蝶子の天真爛漫さ、無邪気さ、品の良さ、育ちの良さ、というようなことが、ごく自然に見ていると感じられる。これは、意図してこう作ろうと思って出来るものではない。この時代の、このキャスティングの妙である。
頼介と蝶子のことについては、かなり微妙である。頼介は蝶子のことが好きである。蝶子は、その頼介の気持ちについて、うすうす気づいてはいるが、あくまでも幼友達として付き合おうとしている。このときの、蝶子(音楽学校に通っている)と頼介(なんとか仕事を見つけて工場で働いている)の立場を考えると、ある意味では、蝶子はとても残酷である。だが、ドラマとしては、女の無邪気な残酷さということを、感じさせない。
土曜日の回は、とても印象に残る。登場人物は、ほとんど蝶子と要の二人だけ。場面は銀座の喫茶店。ここでの二人の会話だけである。要にとって、これまで女性はむこうから寄ってくるものであった。蝶子のような純朴な女性は初めてである。蝶子は、要のまわりに集まる女性たちのことをよく思っていない。それは、要の人格に問題があるからだと、面と向かって言う。要にとって、こんな女性は会ったことがなかったことになる。円タクをとめて喜び、助手席に座ってすれちがう自動車に手を振る……要の口から語られるだけで、そのときの蝶子のそぶりが目に浮かぶようである。
これ以上話すと照れるからと言って、要は出ていってしまう。そして、西田敏行のナレーション……星の世界……で結ぶ。
見ていて、ドラマとしてよく作ってあると感じるが、このとき、要という男性が実はかなり誠実な人物であることが分かり、また、その話しを聞いている蝶子の表情がとてもいい。特に、ちょっと怒ったようなときの表情が、とても魅力的である。
このドラマは、ちょっとしたしぐさだけれどもうまいなあと感じるところもある。おじさんの家で、みんなが話しをしているとき、おばさんの富子が、まわりにつきまとう蚊を手でおいはらいながら話しをしていた。こういうのは、今でも日常生活のなかでなくはない。蚊というのは今でもいる。しかし、ドラマのなかで、家のなかで話をしているシーンで、普通の所作として、こういう仕草が出てくるというのは、このドラマを作ったとき(1980年代)の生活の感覚でもあるし、昭和の戦前の普通の人びとの感覚でもあったと、思わせるところがある。そして、このような演出ができる、役者さんと演出家がいた時代ということになる。
昭和のはじめの不況の時代である。頼介は工場の仕事を失う。都市部における貧困労働層ということになるのだが、こういう時代があったことが、ドラマの筋書きのなかできちんと描かれている。
だが、『チョッちゃん』は、見る人の想像力にまかせられている部分、いわば余白の部分がかなりある。それがドラマの説得力につながっている。あるいは、昭和の戦前の人びとの感覚が生きていた時代だからこそ、作れたということもあるかもしれないが。
2025年5月24日記
『チョッちゃん』(2025年5月19日の週)
はっきりいって、このごろの朝の楽しみというと、『あんぱん』よりも『チョッちゃん』になっている。『あんぱん』はいかにもドラマですよという感じの演技であるが(無論、それは非常にうまいのであるが)、『チョッちゃん』は演技というよりも、より自然な雰囲気がある。蝶子の天真爛漫さ、無邪気さ、品の良さ、育ちの良さ、というようなことが、ごく自然に見ていると感じられる。これは、意図してこう作ろうと思って出来るものではない。この時代の、このキャスティングの妙である。
頼介と蝶子のことについては、かなり微妙である。頼介は蝶子のことが好きである。蝶子は、その頼介の気持ちについて、うすうす気づいてはいるが、あくまでも幼友達として付き合おうとしている。このときの、蝶子(音楽学校に通っている)と頼介(なんとか仕事を見つけて工場で働いている)の立場を考えると、ある意味では、蝶子はとても残酷である。だが、ドラマとしては、女の無邪気な残酷さということを、感じさせない。
土曜日の回は、とても印象に残る。登場人物は、ほとんど蝶子と要の二人だけ。場面は銀座の喫茶店。ここでの二人の会話だけである。要にとって、これまで女性はむこうから寄ってくるものであった。蝶子のような純朴な女性は初めてである。蝶子は、要のまわりに集まる女性たちのことをよく思っていない。それは、要の人格に問題があるからだと、面と向かって言う。要にとって、こんな女性は会ったことがなかったことになる。円タクをとめて喜び、助手席に座ってすれちがう自動車に手を振る……要の口から語られるだけで、そのときの蝶子のそぶりが目に浮かぶようである。
これ以上話すと照れるからと言って、要は出ていってしまう。そして、西田敏行のナレーション……星の世界……で結ぶ。
見ていて、ドラマとしてよく作ってあると感じるが、このとき、要という男性が実はかなり誠実な人物であることが分かり、また、その話しを聞いている蝶子の表情がとてもいい。特に、ちょっと怒ったようなときの表情が、とても魅力的である。
このドラマは、ちょっとしたしぐさだけれどもうまいなあと感じるところもある。おじさんの家で、みんなが話しをしているとき、おばさんの富子が、まわりにつきまとう蚊を手でおいはらいながら話しをしていた。こういうのは、今でも日常生活のなかでなくはない。蚊というのは今でもいる。しかし、ドラマのなかで、家のなかで話をしているシーンで、普通の所作として、こういう仕草が出てくるというのは、このドラマを作ったとき(1980年代)の生活の感覚でもあるし、昭和の戦前の普通の人びとの感覚でもあったと、思わせるところがある。そして、このような演出ができる、役者さんと演出家がいた時代ということになる。
昭和のはじめの不況の時代である。頼介は工場の仕事を失う。都市部における貧困労働層ということになるのだが、こういう時代があったことが、ドラマの筋書きのなかできちんと描かれている。
だが、『チョッちゃん』は、見る人の想像力にまかせられている部分、いわば余白の部分がかなりある。それがドラマの説得力につながっている。あるいは、昭和の戦前の人びとの感覚が生きていた時代だからこそ、作れたということもあるかもしれないが。
2025年5月24日記
『あんぱん』「めぐりあい わかれゆく」 ― 2025-05-25
2025年5月25日 當山日出夫
『あんぱん』「めぐりあい わかれゆく」
『あんぱん』は世評は高い。その理由は分からなくもないが、しかし、私としては、見ていて、全体としてはつまらないドラマになってきていると思う。
以下、批判的な立場から思うことを書いておく。
この週の展開としては、出征した豪の戦死のことと、のぶが結婚を決意するところが見どころということになる。たしかに、豪の戦死をめぐっての妹の蘭子の描き方は、これだけをとりだして見れば、たしかにうまくできている。
しかし、その背景となっている、この時代の人びとの生活の感覚ということで見ると、粗雑さが目立つ。
出征した豪が戦死する可能性は、朝田家の人たちは考えたはずである。だからこそ、母親の羽多子は、蘭子を豪のところに行かせて、今夜はもどってこなくてもいい、ということになった。これはこれで、このような筋立てであってもいいが、そして、このことに多くの視聴者が共感していることは確かなのだろうが、しかし、逆に考えるのが、私などの思うところである。戦死の可能性がある、ということを考えるならば、もしそうなったら余計につらくなるから、蘭子を豪のところには行かせない、ここはこらえるべきところである、こう考えることも、また自然な気持ちであろうと思う。
これは、脚本の是非というよりも、今の時代では、このドラマのような展開を望むようになってきた、これは、一つの時代の変化ということになる。これは、より分かりやすく登場人物の気持ちを表現するということになっている。(とりあえず今の段階で)お互いに思い合っている二人なのだから、一緒にさせてあげるのがよい、ということである。(戦死する可能性があるとしても、この先のことは考えないでおく。)
嵩は、御免与に帰ってきて、のぶにプレゼントとして、赤いハンドバッグを渡そうとするが、のぶはこれを拒否する。戦地の兵隊さんのことを思うと、こんなものはうけとれない、という理由である。
これは、愛国のかがみとして描かれる、小学校の先生であるのぶとしては、こう判断してもおかしくはない。
しかし、その後の次郎とのお見合いの席とか、一緒にレストランで食事をするシーンとかを見ると、どうなのだろうかと思う。嵩からのハンドバッグを拒否していたにもかかわらず、振り袖を着てめかし込んで料亭でお見合いというのは、ちょっとどうかなと思うが、どうだろうか。こういうシーンからは、戦地の兵隊さんのことを思うという気持ちが、まったく感じられない。
次郎は、日本と大陸とを結ぶ輸送船の機関員ということなのだが、パリッとした制服を着て、カメラを持って、お見合いの席に出てくるのは、どうかなと感じるところがある。時代としては昭和14年であり、支那事変(当時の呼称)は泥沼化していたころかと思う。この泥沼化した戦争、ジリ貧を避けようとして、その後の日米開戦にいたる。兵員や軍事物資、それから負傷兵の帰還、このような仕事に従事する民間の船舶の機関員が、次郎のようであったというのは、私としては、かなりイメージが異なる。この時代において、ある種の専門職であったことは確かだとは思うのだが。
このころ、次郎が使っていたような35ミリカメラは非常な高級品で、ライカが一台あれば家が一軒買えるという時代だったはずである。日本と大陸との間の軍事輸送に従事する船の船員が、そう簡単に買えるものだったとは思えない。その船を所有する会社の社長というならば、分からなくもないが。
ここは、家柄とか経歴とか、もうちょっと説明的に描いておいてほしかったところである。また、その仕事は、軍とどうかかわることになるのかも気になる。たぶん、太平洋戦争の終わりごろになれば、輸送船はかたっぱしから沈められていくことになるはずである。(制海権がうばわれ、兵站が機能しなくって、多くの兵士が戦病死、いや有り体にいえば餓死したのである。)
御免与でも、柳井の家は、いくらお医者さんの家とはいえ、その生活ぶりは非常に贅沢であるといってよい。また、御免与の街の描写、朝田の家の描写でも、戦時下にあっての物資の不足というようなことは、まったく出てきていない。せいぜい、国防婦人会のたすきをかけた女性が出てくるのと、街頭のポスターぐらいしか、戦争を感じさせるものはない。
国防婦人会という組織が出来たのには、男性が出征して、人手が足りなくなり、銃後の守りを家庭の夫人でかためる必要がある、なんとか工夫して生活物資の不足を乗り切る必要が生じてきた、というようなことが背景にあってのことだと理解しているのだが、登場人物の生活の様子は、基本的に変化がない。
昭和のはじめの恐慌があり、満州事変から始まって、支那事変にいたって、徐々に日本にくらす人びと……御免与の街であり、東京であり……の、生活の変化していったということが、まったく出てきていないのである。もっと端的に言えば、戦争の影響がまったくない。あるとすれば、のぶが小学校で愛国主義教育に熱心なのと、それから、豪が戦死したのことぐらいである。
物資が不足してきてそれまでのようにパンが作れなくなっていくとか、戦死者が増えてそのための墓石の注文があるとか……この時期の朝田の家としても、普通に考えて出てきそうなことが、まったく出てこない。
豪以外に、御免与の街から出征した男性はいなかったのだろうか。また、戦死したのは豪だけだったのだろうか。
つまり、あまりにも、時代の背景の描き方が希薄なのである。これも、希薄だからこそ、豪と蘭子の悲劇が際立つということになるかもしれないが、この時代設定のドラマとしては、不自然さの方が目立ってしまう。少なくとも私はそう感じる。
本当に描くべきだったと思うことは、蘭子の悲劇でもないし、のぶの愛国のかがみとなった教師の姿でもない。その背景にとなる、戦争に勝っている、正義は自分たちにある、少なくとも、そう思っているときの、人びと……市民、民衆、大衆、庶民……の気持ちなのである(これには、朝田家の人びとも、柳井の人びともふくむ)。これこそが最もおそろしいものであるということは、歴史から学ぶべきことのはずである。(さらにいえば、そこにおけるメディアの役割もある。放送100年というNHKなら分かっているはずである。)
それから、このドラマでは、貧困ということが出ててきていない。戦前の農村は貧乏だった。御免与の街には、貧乏な人はいないようだし、周辺の農村でも貧しい小作農というような人はいないみたいである。昭和戦前の農村部の貧困ということがあって、その解決策の一つとして、中国大陸への進出ということになると考えるのが歴史の常識であろう。何のために中国と戦争することになったのか、その理由になる時代的背景が皆無である。
ちなみに、おなじように戦前の高知で女学校を終えて結婚して満州に開拓のためにわたった人びとのことを描いたのは、かつてNHKが、それを原作としてたくさんドラマを作った宮尾登美子のいくつかの作品である。『櫂』『春燈』『朱夏』などがある。
『二十四の瞳』のようには小学校の先生を描きたくないということだったのかとも思う。これは、もう今では、戦前の小学校の女性の先生のイメージとして定着している。だが、『二十四の瞳』でも、農村の生活の貧しさは描かれている。日本の農村の貧窮は、その後も『山びこ学校』の時代を経て、戦後の高度経済成長を経なければどうにもならなかった。
2025年5月23日記
『あんぱん』「めぐりあい わかれゆく」
『あんぱん』は世評は高い。その理由は分からなくもないが、しかし、私としては、見ていて、全体としてはつまらないドラマになってきていると思う。
以下、批判的な立場から思うことを書いておく。
この週の展開としては、出征した豪の戦死のことと、のぶが結婚を決意するところが見どころということになる。たしかに、豪の戦死をめぐっての妹の蘭子の描き方は、これだけをとりだして見れば、たしかにうまくできている。
しかし、その背景となっている、この時代の人びとの生活の感覚ということで見ると、粗雑さが目立つ。
出征した豪が戦死する可能性は、朝田家の人たちは考えたはずである。だからこそ、母親の羽多子は、蘭子を豪のところに行かせて、今夜はもどってこなくてもいい、ということになった。これはこれで、このような筋立てであってもいいが、そして、このことに多くの視聴者が共感していることは確かなのだろうが、しかし、逆に考えるのが、私などの思うところである。戦死の可能性がある、ということを考えるならば、もしそうなったら余計につらくなるから、蘭子を豪のところには行かせない、ここはこらえるべきところである、こう考えることも、また自然な気持ちであろうと思う。
これは、脚本の是非というよりも、今の時代では、このドラマのような展開を望むようになってきた、これは、一つの時代の変化ということになる。これは、より分かりやすく登場人物の気持ちを表現するということになっている。(とりあえず今の段階で)お互いに思い合っている二人なのだから、一緒にさせてあげるのがよい、ということである。(戦死する可能性があるとしても、この先のことは考えないでおく。)
嵩は、御免与に帰ってきて、のぶにプレゼントとして、赤いハンドバッグを渡そうとするが、のぶはこれを拒否する。戦地の兵隊さんのことを思うと、こんなものはうけとれない、という理由である。
これは、愛国のかがみとして描かれる、小学校の先生であるのぶとしては、こう判断してもおかしくはない。
しかし、その後の次郎とのお見合いの席とか、一緒にレストランで食事をするシーンとかを見ると、どうなのだろうかと思う。嵩からのハンドバッグを拒否していたにもかかわらず、振り袖を着てめかし込んで料亭でお見合いというのは、ちょっとどうかなと思うが、どうだろうか。こういうシーンからは、戦地の兵隊さんのことを思うという気持ちが、まったく感じられない。
次郎は、日本と大陸とを結ぶ輸送船の機関員ということなのだが、パリッとした制服を着て、カメラを持って、お見合いの席に出てくるのは、どうかなと感じるところがある。時代としては昭和14年であり、支那事変(当時の呼称)は泥沼化していたころかと思う。この泥沼化した戦争、ジリ貧を避けようとして、その後の日米開戦にいたる。兵員や軍事物資、それから負傷兵の帰還、このような仕事に従事する民間の船舶の機関員が、次郎のようであったというのは、私としては、かなりイメージが異なる。この時代において、ある種の専門職であったことは確かだとは思うのだが。
このころ、次郎が使っていたような35ミリカメラは非常な高級品で、ライカが一台あれば家が一軒買えるという時代だったはずである。日本と大陸との間の軍事輸送に従事する船の船員が、そう簡単に買えるものだったとは思えない。その船を所有する会社の社長というならば、分からなくもないが。
ここは、家柄とか経歴とか、もうちょっと説明的に描いておいてほしかったところである。また、その仕事は、軍とどうかかわることになるのかも気になる。たぶん、太平洋戦争の終わりごろになれば、輸送船はかたっぱしから沈められていくことになるはずである。(制海権がうばわれ、兵站が機能しなくって、多くの兵士が戦病死、いや有り体にいえば餓死したのである。)
御免与でも、柳井の家は、いくらお医者さんの家とはいえ、その生活ぶりは非常に贅沢であるといってよい。また、御免与の街の描写、朝田の家の描写でも、戦時下にあっての物資の不足というようなことは、まったく出てきていない。せいぜい、国防婦人会のたすきをかけた女性が出てくるのと、街頭のポスターぐらいしか、戦争を感じさせるものはない。
国防婦人会という組織が出来たのには、男性が出征して、人手が足りなくなり、銃後の守りを家庭の夫人でかためる必要がある、なんとか工夫して生活物資の不足を乗り切る必要が生じてきた、というようなことが背景にあってのことだと理解しているのだが、登場人物の生活の様子は、基本的に変化がない。
昭和のはじめの恐慌があり、満州事変から始まって、支那事変にいたって、徐々に日本にくらす人びと……御免与の街であり、東京であり……の、生活の変化していったということが、まったく出てきていないのである。もっと端的に言えば、戦争の影響がまったくない。あるとすれば、のぶが小学校で愛国主義教育に熱心なのと、それから、豪が戦死したのことぐらいである。
物資が不足してきてそれまでのようにパンが作れなくなっていくとか、戦死者が増えてそのための墓石の注文があるとか……この時期の朝田の家としても、普通に考えて出てきそうなことが、まったく出てこない。
豪以外に、御免与の街から出征した男性はいなかったのだろうか。また、戦死したのは豪だけだったのだろうか。
つまり、あまりにも、時代の背景の描き方が希薄なのである。これも、希薄だからこそ、豪と蘭子の悲劇が際立つということになるかもしれないが、この時代設定のドラマとしては、不自然さの方が目立ってしまう。少なくとも私はそう感じる。
本当に描くべきだったと思うことは、蘭子の悲劇でもないし、のぶの愛国のかがみとなった教師の姿でもない。その背景にとなる、戦争に勝っている、正義は自分たちにある、少なくとも、そう思っているときの、人びと……市民、民衆、大衆、庶民……の気持ちなのである(これには、朝田家の人びとも、柳井の人びともふくむ)。これこそが最もおそろしいものであるということは、歴史から学ぶべきことのはずである。(さらにいえば、そこにおけるメディアの役割もある。放送100年というNHKなら分かっているはずである。)
それから、このドラマでは、貧困ということが出ててきていない。戦前の農村は貧乏だった。御免与の街には、貧乏な人はいないようだし、周辺の農村でも貧しい小作農というような人はいないみたいである。昭和戦前の農村部の貧困ということがあって、その解決策の一つとして、中国大陸への進出ということになると考えるのが歴史の常識であろう。何のために中国と戦争することになったのか、その理由になる時代的背景が皆無である。
ちなみに、おなじように戦前の高知で女学校を終えて結婚して満州に開拓のためにわたった人びとのことを描いたのは、かつてNHKが、それを原作としてたくさんドラマを作った宮尾登美子のいくつかの作品である。『櫂』『春燈』『朱夏』などがある。
『二十四の瞳』のようには小学校の先生を描きたくないということだったのかとも思う。これは、もう今では、戦前の小学校の女性の先生のイメージとして定着している。だが、『二十四の瞳』でも、農村の生活の貧しさは描かれている。日本の農村の貧窮は、その後も『山びこ学校』の時代を経て、戦後の高度経済成長を経なければどうにもならなかった。
2025年5月23日記
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