知恵泉「伝説の“蕩尽王” 薩摩治郎八 金は粋に使え」2025-05-27

2025年5月27日 當山日出夫

知恵泉 伝説の“蕩尽王” 薩摩治郎八 金は粋に使え

WEBで見てみると、薩摩次郎八については、いくつか本が出ている。番組に出ていた小林茂も描いているし、鹿島茂も書いている。

近代になって、戦前までの金持ちは、けたはずれなところがあったのはたしかだろう。近代以降、いろんななりゆきで財を築くことになった。財閥として知られる、三井、三菱、安田、などの他にも、いろんな人がいろんなことをしていた。

薩摩次郎八は、自らが働いて財をなしたということではなく、それを豪快に使ったということになる。それが、今に残る建築とか、美術品などのコレクションとかで、残っていない。これはこれで、非常にいさぎよい。(岩崎、安田、大倉などは、古典籍のコレクションで名前は残っていることになるが。)

林家正蔵師匠が言っていたように、粋を目標にすると野暮になる。粋とは、結果として成立するものである。そういうものだろうと思う。

第二次世界大戦中のフランスというと、ヴィシー政権下となるはずだが、特に、ナチスへの協力者としてとがめられることがなかったことになるのだろうが、これは、人徳というべきだろうか。

次郎八のいたころのパリは、『失われた時を求めて』の時代より少し後のことになるが、第一次世界大戦後の花やかな時代だっただろう。おそらくは、ココット(高級娼婦)など社交界に多くいたかと思う。

戦争が終わって帰国してから、浅草のストリップ劇場というと、戦後の永井荷風を思い浮かべるが、魅力的なところだったかと思う。番組のなかで映っていた浅草六区の風景は、私が学生になって東京に行ったころ(昭和50年のころ)、もう見る影もなくさびれていた。浅草六区の社会史、文化史、芸能史、ということはどれぐらい記録があり、研究のある分野なのだろうか、と思う。

2025年5月22日記

こころの時代「闘うガンディー 非暴力思想を支えた「聖典」2 結果を求めず行為せよ」2025-05-27

2025年5月27日 當山日出夫

こころの時代 闘うガンディー 非暴力思想を支えた「聖典」2 結果を求めず行為せよ

エリク・H・エリクソンの名前を久しぶりに耳にした。社会心理学の歴史などを専門にしているような研究者でもないと、もう語られることはないのかもしれない。

アイデンティティという今ではごく普通に使うようになったことばを、学術的な場面で使い始めた人である。番組に出ている、赤松明彦、小野正嗣、これぐらいの年代の人なら憶えているだろうか。ちょうど私が、大学生のころだった。1970年代のころのことになる。この時代、まさに、今という時代を分析するための最先端の概念であった。

学生のころは、岩波ホールの講演会によく行った。たしか、中村元が講師のときだったと思うが、会場から質問のペーパーを集めて読んでいくなかで、エリクソンのアイデンティティとの関連を話してほしい、というような質問があったのを憶えている。古代インドの、いわゆる原始仏教の話しと、アイデンティティをどうむすびつければいいのか、そのとき中村元がどのようなことを答えたのかは憶えていないが、ともかく、この時代、非常に新しい社会と人間を考えるためのことばであった。たしか、「現代のエスプリ」(昔、こういう雑誌があったのだが)でも、特集を組んだことがあったはずである。

この番組とは関係ないが、現代では、安易にアイデンティティということばを使いすぎると、私は感じている。人間には、生きていく上でアイデンティティがなければならない、というような使い方をされると、これははたしてどうなのだろうかと、いまだに思うことがある。

そのエリクソンが、ガンディーの研究もしていた。

この番組の趣旨からはずれることになるが、サティーヤグラハということばについては、むしろ社会運動をどう組織するか、という観点から面白い。ただの抵抗運動ではなく、それに名前をつける。それも、抽象的な名称にして、理想的な意味をこめることができるようにする。これは、非常に有効な方法である。

新しい造語であるし、抽象的なことばなので、何を具体的にイメージするか……何を目的とするか、たおすべき敵は何なのか……ということについて、多様な考え方をもっている人を、集めることができる。

番組(録画)を見ていて気になったことのひとつが、南アフリカで発行されていた新聞「インディアン・オピニオン」は、いったい何語で書かれているのだろうか。画面で見るかぎり、英語ではなかった。これは、解説してほしかった。南アフリカにいたインドの人たちは、何語でコミュニケーションしていたのだろうか。ガンディーが人びとの前で演説したときは、何語で語ったのだろうか。

やはり人びとの共同体としての意識をかたちづくる重要な要素になるのは、言語である。そして、宗教である。国籍とか、人種とか、ということもあるだろうが、これらは社会構成的な概念であって、その基本にあるのは、言語と宗教、生活習慣、ということであると思っている。

「バカヴァッド・ギーター」のことばとして、

ただ行為だけがあなたの持ち分です
それから生まれる諸結果では決してありません

とあり、そして、非暴力による抵抗を、ガンディーは自分の義務と思う。この流れの説明は、すこし苦しいかなという印象はあるのだが、なんとか納得できないということではない。

ガンディーが義務という概念をどう理解していたのか、その背後にある文化史的、宗教的な意味はどのようなものなのか、ということは気になるところである。ガンディーは弁護士であったのだから、法律で定められた義務は知悉していたはずである。では、法律で決められた義務と、ガンディーが自ら感じとった義務とは、どういう関係にあるのか、そして、非暴力の抵抗と法(法の理念、法の支配)とはどう関係すると考えていたのか、このあたりが知りたいところである。

2025年5月20日記

心おどるあの人の本棚「あの人の本棚 (8)京極夏彦(小説家)」2025-05-27

2025年5月27日 當山日出夫

心おどるあの人の本棚 あの人の本棚 (8)京極夏彦(小説家)

このシリーズが始まって、一番楽しみにしていたのが、京極夏彦である。

いろいろとすごい人である。

見てみると、今は、印刷博物館の館長である。これは、すごい。

京極夏彦の作品で読んだのは、『姑獲鳥の夏』『鉄鼠の檻』は読んだのを憶えている。その独特の雰囲気は魅力的である。日本のミステリの歴史としては、綾辻行人にはじまる、いわゆる新本格という作品が出始めてから、しばらくしての登場ということになるだろうか。

InDesignで、原稿を書いているというのは知られていることだと思うが、これは組版ソフトであって、文章の執筆用ではない。ワープロを使うのがいやなら、エディタで書けばいいかとも思うのだが、WYSIWYG(What you see is what you get)を徹底すれば、このような選択になるのかもしれない。見方を変えれば、紙の上の文字の印刷ということと、作品のテクスト、ということが不即不離の関係としてとらえていることになる。だからこそ、蔵書についても、番組で紹介されていたようにあつかうことになるのだろう。

本を背表紙の見える状態で置いておく、これは非常に贅沢なことである。これができるのは、図書館などの開架書庫ぐらいが思いつくが、個人でこれだけの本を持っていて、実践できているというのは、とてつもないことだと思う。

冊数の多さよりも、本に対する感覚、考え方が、かなり独特ということはある。私にとっては、書籍は資料という面がどうしてもある。特に、日本語の文字や表記などに関心を持って勉強してきた身としては、紙の本はそのままで貴重な資料である。

だからこそ、もうリタイアしようと思い切らない限り、Kindle版で本を読もうとは思わなかった。電子書籍での文字の表示も関心があったので、かなり早くから、電子書籍端末は持っていた。SONYのReader、Rakutenのkoboなど、使ってみたことがある。結局は、Kindleに落ち着いている。この一番新しいバージョンになって(第12世代)、これなら本を読むのに使えるかな、という印象である。

小学校の4年生で、定本柳田国男集の「遠野物語」を親に買って貰って読んだというのは、ちょっと常識外れである。私が本格的に柳田国男を読み始めたのは、大学生になってからである。慶應義塾大学の文学部で国文科だったから、折口信夫と柳田国男は、「定本柳田国男集」「折口信夫全集」(旧版)で買ってそろえた。

『遠野物語』は、今の私のKindleにもはいっている。角川文庫のKindle版である。私の判断としては、『遠野物語』は、近代日本の最高の傑出した文学である。そして、同時に、前近代の人びとの感性、心性を、つたえてくれている貴重な資料である。だが、この本は、読むのがとても怖い。同じように読むのが怖い本というと、『今昔物語集』の巻二十七がある。怪異譚を集めた巻である。

水木しげるのコレクション(京極夏彦はコレクションということばで言われるのがきらいなようであるが)は貴重である。特に、貸本は、非常に貴重な資料というべきである。

漫画についても、そのテキストクリティックが重要なのだが、これはかなりむずかしいことになる。

ずらりと並んだ本の背表紙を目にすることからえられるものがある。これは、まさにそのとおりである。この意味では、大学の図書館や研究室の開架書庫に学生が自由に出入りできるようにしておくということは、きわめて価値のあることだと思っている。

2025年5月26日記